第87章 新たな世界線
王都地下。
シオンは依然として古代施設の前に立っていた。
円環状の装置は、先ほどから小刻みに震えている。
『封印維持率――低下』
『北方導管――同期要求』
『認証不能』
シオンは眉をひそめた。
「……同期要求?」
聞き覚えのない表示だった。
正確には、古代施設の機能としては知っていた。
しかし、これほど早い段階で現れるはずがない。
少なくとも、過去の世界線では。
「まだ魔王は施設を完全起動していないはずだ」
シオンは呟いた。
魔王軍の侵攻。
北境の混乱。
各国の動向。
すべてが、これまで見てきた歴史と少しずつ異なっている。
だが、決定的な違いはなかった。
今までは。
ところが今回、未知の魔力反応が現れた。
それに呼応するように、古代施設が予定外の動きを始めている。
「……まさか」
シオンの脳裏に一つの可能性が浮かぶ。
今回の世界線では、古代施設の制御条件が過去と異なるのではないか。
もしそうなら。
これまで不可能だったことが、可能になるかもしれない。
だが同時に。
これまで起こらなかった破滅が、起こる可能性もある。
シオンは石柱へ手を押し当てた。
「……調べる必要がある」
しかし、その直後。
施設全体に赤い光が走った。
『警告』
『外部制御系統からの照会を検知』
『接続元――北方中枢』
『認証情報を要求されています』
シオンの表情が険しくなった。
「……向こうも気づいたか」
北境の古代施設。
そこに何が眠っているのか、シオンはある程度知っている。
しかし、完全には把握していない。
過去の世界線では、その奥に到達する前に世界が崩壊したこともあった。
そして、その施設の存在を利用しようとする者がいる。
「……魔王」
シオンは低く呟いた。
だが、すぐに首を振る。
「いや……違う」
魔王がこの段階で王都側の封印を探る理由がない。
少なくとも、彼が把握している魔王の計画では。
ならば。
「……あの人形か」
シオンは目を細めた。
真紅の魔導人形。
魔王の側近として動く、正体不明の古代兵器。
過去の世界線でも、何度かその存在を確認していた。
だが、直接対峙したことはない。
その前に、いつも何かが起こっていた。
北境の崩壊。
王都の陥落。
古代施設の暴走。
そして、世界の終わり。
シオンは静かに息を吐いた。
「……どうやら、今回は向こうから来るつもりらしい」
石柱の表面に、さらに文字が浮かぶ。
『外部照会――継続』
『応答を要求』
シオンは数秒だけ考えた。
そして。
「……拒否する」
短く告げた。
石柱が青く輝く。
『認証要求――遮断』
『外部照会――切断』
赤い光が消えた。
しかし、その直後。
新たな文字が浮かんだ。
『外部接続元より応答』
シオンの眉が動く。
「……応答?」
文字が、一文字ずつ浮かび上がる。
『見つけた』
シオンは黙った。
さらに続く。
『あなた、普通の管理者じゃないでしょう?』
沈黙。
シオンの青い瞳が、冷たく細められる。
そして。
『ふふっ。面白いわね』
『少し、お話ししてみたいわ』
シオンは表示を見つめたまま、低く呟いた。
「……なるほど」
その声には、微かな警戒が混じっていた。
「こちらの情報を探るつもりか」
シオンは再び接続を遮断した。
しかし。
最後の一文だけは、しばらく消えなかった。
『あなたも、何かをやり直そうとしているの?』
シオンの指が止まった。
「……!」
ほんの一瞬。
彼の表情から、いつもの冷静さが消えた。
なぜ、その言葉を。
タイムリープ。
過去の世界線。
失敗した未来。
そのことを知っている者など、いるはずがない。
少なくとも、この世界には。
シオンはゆっくりと顔を上げた。
「……お前は」
石柱は沈黙していた。
返事はない。
接続は完全に切れている。
だが、シオンには分かっていた。
今のやり取りは偶然ではない。
北境の古代施設にいる何者かが、自分の存在に気づいた。
しかも。
ただの封印管理者ではないことまで、察している。
「……厄介なことになった」
シオンは小さく呟いた。
そして、もう一度円環状の装置へ目を向ける。
そこには、まだ銀色の光が残っていた。
北方から伸びる、細い一本の線。
ルミナと思われる未知の魔力反応。
それが何を意味するのかは分からない。
だが。
シオンは静かに目を閉じた。
(……今度こそ)
胸の奥で、一つの決意が形になる。
(今度こそ、別の結末へ辿り着く)
何度失敗しても。
何度世界を失っても。
何度救えなくても。
今回は。
「……まだ、諦めない」
王都地下の静寂に、その声だけが響いた。
北境魔境。
古城の地下。
真紅の魔導人形は、目の前に浮かぶ記録を眺めていた。
『外部接続――切断』
『対象情報――取得失敗』
彼女は小さく笑った。
「あらあら」
赤い瞳が、愉快そうに細められる。
「警戒心の強い人ね」
だが、その笑みはすぐに消えた。
代わりに、表情のない顔で記録を呼び出す。
『王都側封印管理者』
『識別不能』
『既存管理権限との照合失敗』
『世界線履歴――不整合』
真紅の魔導人形は最後の項目を見つめた。
「……世界線履歴?」
その言葉には、さすがの彼女も反応した。
古代施設の記録は膨大だ。
しかし、すべてが閲覧できるわけではない。
彼女自身にも、アクセスできない領域が存在する。
その中の一つ。
世界線管理記録。
通常は完全に封鎖されているはずの項目。
そこに、今まで見たことのない数字が浮かんでいた。
『記録番号――213』
真紅の魔導人形は目を細めた。
「……二百十三?」
しばらく沈黙する。
そして、ゆっくりと呟いた。
「……そういうこと」
だが、その意味を理解したわけではなかった。
むしろ、疑問が増えた。
なぜ王都側の施設に、通常存在しないはずの世界線記録が残っているのか。
なぜその記録が、現行世界の情報と一致しないのか。
そして。
なぜ、その管理者は古代施設の本来の手順を知っているのか。
「……ますます面白くなってきたわ」
彼女は微笑んだ。
その時。
地下広間の奥で、何かが動いた。
カチリ。
小さな音。
真紅の魔導人形が振り返る。
並んだ台座の一つ。
これまで完全に沈黙していた台座の表面に、細い光が走っていた。
「……あら?」
彼女はゆっくりと近づいた。
赤い光。
次いで、青い光。
最後に、銀色の光。
複数の魔力回路が、静かに起動し始めていた。
『第二接続候補――検知』
『北方生体反応との照合開始』
真紅の魔導人形は、その表示を見つめた。
そして、先ほどの銀髪の少女を思い出す。
「……あなた、一体何者なのかしら」
その声は、地下広間に静かに響いた。
やがて。
台座の奥から、もう一つの表示が浮かび上がった。
『世界循環機構――準備段階へ移行』
『中枢管理権限――応答待機』
真紅の魔導人形の表情が、ほんのわずかに変わった。
「……まだ早いわ」
今度は笑っていなかった。
「起動するには、まだ条件が足りないはずよ」
しかし、装置は彼女の言葉に応じない。
代わりに、さらに一文が浮かぶ。
『既存条件――再評価』
『新規接続候補の発生を確認』
『再構築計画――変更可能性あり』
真紅の魔導人形は、長い沈黙の後で目を閉じた。
そして。
「……ふふ」
小さく笑った。
「これは、マスターにも報告しなくちゃいけないわね」
その瞳の奥で、赤い光が揺れた。
だが、彼女はすぐに報告を送らなかった。
まず、別の記録を開く。
そこに映し出されたのは、王都地下施設の封印管理者。
銀髪の特務騎士。
シオン・アルトゥス。
そして、もう一つ。
北境の輸送隊で確認された、銀髪の少女。
ルミナ。
真紅の魔導人形は、二人の記録を並べて眺めた。
「……偶然、なのかしら」
彼女は呟いた。
その疑問に答える者はいない。
ただ、地下広間の奥で、眠っていた台座が一つずつ淡い光を帯び始めていた。
世界の魔力循環。
古代文明の遺産。
魔王の悲願。
そして、幾度も未来をやり直してきた一人の騎士。
それぞれ異なる目的で動いていた存在が、今、同じ場所へ向かって少しずつ近づいている。
誰もまだ知らない。
魔王が変えようとしている世界には、魔王自身も知らない仕組みが眠っていることを。
そして。
その仕組みが目覚めた時、これまでの戦争とは比較にならない選択を迫られることを。
北境の野営地。
ルミナは突然、目を覚ました。
「……っ!」
胸が苦しい。
夢の中で、またあの場所を見た。
巨大な円環。
無数の光。
そして。
今度は、一人ではなかった。
遠くに、誰かが立っていた。
銀色の髪の男。
その姿ははっきりとは見えなかったが、なぜかひどく悲しそうに思えた。
「……誰?」
ルミナは小さく呟いた。
返事はない。
しかし、その時。
胸の奥で、何かが微かに震えた。
声ではない。
言葉でもない。
それでも、ルミナには分かった。
遠いどこかで。
何かが、自分を見つけた。
そして、もう一つ。
誰かが、必死に何かを守ろうとしている。
ルミナは窓の外を見た。
まだ薄暗い空。
遠くに広がる魔境の山々。
そこへ向かって、細い銀色の光が一瞬だけ走ったように見えた。
「……何が、始まるの?」
少女の問いに答えるように。
地の底から、かすかな振動が伝わってきた。
世界そのものが。
長い眠りから目覚めようとしているかのように。




