第85章 魔境の希望
北境魔境。
古城の地下。
巨大な石造りの広間に、真紅の魔導人形が一人で立っていた。
艶やかな赤い装甲。
人間の女性を思わせる精巧な顔立ち。
しかし、その瞳の奥には人間とは異なる冷たい光が宿っている。
彼女の周囲には、幾つもの台座が並んでいた。
その数は十を超える。
どの台座も人間一人が横たわれるほどの大きさで、表面には複雑な古代文字が刻まれている。
だが、ほとんどは空だった。
真紅の魔導人形は、その一つに手を置いた。
「……まだ眠っているのね」
返事はない。
ただ、台座の奥から微かな光が漏れる。
「ずいぶん長いこと待たせてくれるじゃない」
彼女は小さく笑った。
その表情は、どこか人間らしかった。
しかし次の瞬間、瞳の中に幾つもの光の線が走る。
『北方導管――異常波形検知』
『王都側中枢――封印維持を確認』
『外部干渉――継続中』
彼女は表示を眺めた。
「……あら」
少しだけ目を細める。
「まだ封印を維持している人間がいるの?」
その声には、驚きと興味が混じっていた。
すぐに別の情報が現れる。
『認証系統――旧式管理権限』
『登録情報――不一致』
『履歴照合――失敗』
真紅の魔導人形は首を傾げた。
「変ね」
人間が古代施設へ干渉すること自体は珍しくない。
遺跡を発掘した魔術師。
古代文字を研究する学者。
偶然装置を起動させてしまう冒険者。
これまでにも、そういう例はあった。
だが、今回の反応は違う。
相手は施設の表面的な機能を動かしているのではない。
内部の魔力循環を理解したうえで、封印を維持している。
しかも、装置が本来想定していない手順で。
「……面白いことをする人間がいるのね」
彼女は微笑んだ。
「誰なのかしら」
だが、その直後。
別の警告が現れた。
『北方導管――第二接続候補を検知』
『魔力特性――未登録』
『適合率――算出不能』
真紅の魔導人形の笑みが消えた。
「……何?」
彼女は素早く記録を呼び出した。
北境で発生した魔力反応。
王国軍輸送隊の戦闘記録。
人間の魔術師たちが使用した魔法。
そして、その中に残されていた、極めて奇妙な銀色の反応。
彼女はそれを拡大した。
「……この子」
記録映像に、銀髪の少女の姿が浮かび上がる。
ルミナだった。
真紅の魔導人形は、その姿をじっと見つめた。
まだ名前も知らない少女。
だが、彼女の魔力は普通ではない。
強大な魔力量を持っているという意味ではなかった。
むしろ問題は、その性質にある。
この世界の魔力は、一定の法則に従って流れている。
魔術師はその流れを利用する。
魔導具はその流れを変換する。
魔物はその流れから力を得る。
だが。
この少女の魔力は、そのどれとも違っていた。
周囲の魔力へ自然に同調し、乱れた流れを整えようとする。
まるで。
「……制御補助機構?」
彼女は呟いた。
だが、すぐに首を振る。
「違うわね。そんなものが生体に備わっているはずがない」
そう言いながらも、瞳の光は消えない。
「でも……」
長い沈黙。
そして。
「……もし、本当にそうなら」
真紅の魔導人形は、ゆっくりと笑った。
その笑みは、先ほどまでの余裕のあるものとは違っていた。
「計画そのものが、変わるかもしれないわね」
古城の上層。
ヴァルガスは部下からの報告を聞いていた。
「西部戦線の部隊は予定位置まで後退しました」
「損害は」
「中程度です。ただ、負傷した個体の搬送に時間がかかっています」
「見捨てるな」
ヴァルガスは即座に言った。
「歩けぬ者には荷車を使え。荷車が足りぬなら、戦利品を捨てろ」
「しかし将軍、それでは――」
「戦利品はまた手に入る」
ヴァルガスは部下を睨んだ。
「命は戻らん」
部下は深く頭を下げた。
「はっ!」
報告を終えた兵士が去る。
ヴァルガスは大きく息を吐いた。
城の窓から、魔境の荒れた大地が見える。
黒い岩肌。
痩せた土。
枯れた樹木。
ところどころに魔力を帯びた植物が生えているが、その数は少ない。
この土地では、生きることそのものが戦いだった。
冬が来れば食料が不足する。
子供たちが飢える。
弱い部族から順番に滅びていく。
人間たちは魔物を恐れる。
だが、魔物たちにとっても、人間の住む豊かな土地は遠い楽園だった。
「……ようやく、ここまで来た」
ヴァルガスは呟いた。
魔王が現れる以前、魔境の部族は互いに争っていた。
食料を奪い合い、土地を奪い合い、弱者を踏みにじる。
魔王は、それを変えた。
異なる種族をまとめ、食料を分配し、争いを抑えた。
そして初めて、魔物たちに共通の未来を示した。
飢えない土地。
子供が冬を恐れずに眠れる場所。
弱い者も生きられる世界。
そのために人間の土地を奪う必要があると告げられた時、ヴァルガスは迷わなかった。
しかし。
最近、気になることがある。
魔王が古代施設へ注ぐ関心だ。
魔境の地下。
古い遺跡。
そして、あの得体の知れない魔導人形たち。
(……本当に、あれが必要なのか)
ヴァルガスは拳を握った。
魔王への忠誠に迷いはない。
だが、真紅の魔導人形の笑みを思い出すたび、胸の奥がざわついた。
あの女は、人間にも魔物にも興味がない。
戦死者の数を数える時も、兵糧の残量を計算する時も、まったく同じ顔をしている。
まるで。
(……戦争そのものが、何かの計算に過ぎぬようだ)
ヴァルガスは窓の外を見つめた。
「魔王様……」
低く呟く。
「どうか、我らの希望を……」
その先の言葉は、声にならなかった。




