第84章 王都地下で目覚める世界の異変
セレスティア王国北境。
夜明け前の空は、重たい雲に覆われていた。
森林地帯を抜けた先に設けられた臨時野営地では、王国軍の兵士たちが慌ただしく動き回っている。
昨夜の輸送隊襲撃。
毒を仕込まれた食料。
街道に張り巡らされた封印罠。
そして、煙幕を利用した撤退。
フィオナたちは辛うじて輸送隊を守り抜いたものの、無傷では済まなかった。
犠牲は少ない方だと、経験豊富な兵士たちは言った。
だが、フィオナにはそう割り切れなかった。
朝の冷たい風が頬を撫でる。
離れた場所では、戦死した兵士の遺体が丁寧に布で覆われていた。
ほんの数時間前まで、生きていた人間だ。
仲間と冗談を交わし、食事を取り、故郷へ帰る日を楽しみにしていたはずだった。
「フィオナさん」
背後から声がした。
振り返ると、銀髪の少女ルミナが立っていた。
いつものように整った顔立ち。
しかし、その表情には微かな疲労が浮かんでいる。
「眠れなかったの?」
「……少しだけ」
「無理もないわ。昨日は大変だったもの」
フィオナが微笑むと、ルミナは小さく首を振った。
「そうじゃないんです」
「え?」
「……変な夢を見ました」
フィオナの表情が変わった。
「夢?」
「はい。とても大きな場所に、一人で立っている夢です」
ルミナは自分の胸元に手を当てた。
「周りには、光る柱がたくさんあって……地面の下から、何かが動いている音が聞こえるんです」
「地下の遺跡か何か?」
「分かりません。でも……」
少女は北の空を見つめた。
「誰かが、ずっと呼んでいるような気がして」
フィオナは黙った。
ルミナには、普通の魔術師とは異なる感覚がある。
それは以前から分かっていた。
しかし、今回のような話は初めてだった。
「何と言っているの?」
「言葉ではないんです」
ルミナは困ったように眉を寄せた。
「寂しいとか、苦しいとか……そういう感じでもなくて」
少し考えてから、続ける。
「……何かを、元に戻そうとしているような」
フィオナは北の空を見た。
魔境。
そこには今、巨大な魔物軍が展開している。
そして、そのさらに奥には、王国がほとんど何も知らない土地が広がっていた。
「……疲れているのかもしれないわ」
フィオナは優しく言った。
「今日はできるだけ休みましょう」
「はい」
ルミナは頷いた。
だが、その青い瞳は、どこか遠くを見つめたままだった。
同じ頃。
王国軍北境司令部では、奇妙な報告が相次いでいた。
「魔物軍の進撃が止まった?」
指揮官の一人が眉をひそめた。
「はい。昨夜まで複数の街道で前進していた敵部隊が、今朝になって一斉に後退しています」
「敗走ではないのか?」
「そのようには見えません」
報告担当の兵士が地図を広げた。
「敵部隊は混乱していません。むしろ統制された行動です。負傷個体を回収し、物資をまとめ、一定の距離を保ちながら後退しています」
「……再編成か」
「おそらく」
指揮官は腕を組んだ。
魔物軍はこれまで、圧倒的な兵力と勢いで王国北部へ侵攻してきた。
各地の砦を攻撃し、補給線を遮断し、王国軍を分断する。
その進撃が突然止まった。
普通なら好機だ。
だが、経験豊富な将校ほど、この状況を不気味に感じていた。
「追撃すべきでは?」
若い士官が言った。
「敵が退いている今なら、損害を与えられます」
「待て」
老将が低い声で制した。
「本当に逃げているのならな」
「どういうことでしょう?」
「敵は我々より兵数が多い。にもかかわらず、ここまで見事に統制された撤退を行っている」
老将は地図を指差した。
「ここを見ろ。敵の主力は、北の森林地帯と山岳地帯の境界に集結し始めている」
「……まさか」
「追撃してきた我々を、狭い地形へ誘い込むつもりかもしれん」
若い士官は口を閉じた。
老将はさらに続けた。
「それだけではない」
「まだ何か?」
「魔物たちは長期間、大軍を動かしている。食料も水も無限ではない」
「では、補給のために?」
「そうだ」
老将は重々しく頷いた。
「敵にも限界があるということだ」
その言葉に、司令部の空気が少しだけ変わった。
魔物軍は恐ろしい。
だが、決して無敵ではない。
その事実は兵士たちにとって、久しぶりの希望だった。
しかし。
老将は地図から目を離さなかった。
(……だが、誰がこの撤退を命じた?)
これほど多種多様な魔物たちを統率し、大軍を整然と後退させる存在。
その判断力は、並の将軍ではない。
(魔境には、我々が思っている以上に優秀な指揮官がいる)
そして、それ以上に恐ろしい可能性がある。
(その指揮官たちを従えている魔王は、一体何者なのだ……?)
王都セレスティア。
王城の地下深く。
普段は王族でさえ立ち入ることを許されない封鎖区域に、一人の男が立っていた。
シオン・アルトゥス。
王都特務調査局に所属する銀髪の特務騎士。
その姿はいつもと変わらない。
端正な顔立ち。
静かな眼差し。
感情をほとんど表に出さない表情。
だが、その手は巨大な石柱に触れたまま、動かなかった。
石柱の表面には、古代文字らしき光が流れている。
青白い光。
時折混じる赤い警告表示。
その奥には、巨大な円環状の装置があった。
石とも金属ともつかない材質。
無数の歯車のような構造。
だが、どれ一つとして物理的に回転してはいない。
代わりに、魔力そのものが複雑な円を描きながら流れていた。
シオンはその流れを見つめていた。
「……また、早まったか」
小さく呟く。
返事はない。
当然だ。
この場所には誰もいない。
正確には、ここへ入ることを許されている人間がほとんどいない。
シオンは石柱へ流し込む魔力をわずかに調整した。
すると、円環の一部に浮かんでいた赤い光が消えた。
だが、別の場所で新たな警告が現れる。
『北方魔力導管――流量変動』
『外部干渉を検知』
『基準循環率との差異拡大』
シオンは目を細めた。
「……魔境側が動き始めた」
その声には驚きがなかった。
むしろ、予想していた事態が訪れたことへの諦めに近い響きがあった。
シオンはゆっくりと息を吐いた。
「今回は、少し早すぎる」
彼の脳裏に、幾つもの光景が浮かぶ。
燃え上がる王都。
崩れ落ちる城壁。
荒れ果てた大地。
空から降り注ぐ、赤黒い光。
そして。
一面の白い光の中で、振り返る銀髪の少年。
「……」
シオンは目を閉じた。
その光景を思い出すたび、胸の奥が冷たくなる。
何度見ても慣れることはなかった。
むしろ、思い出すたびに鮮明になる。
血の匂い。
崩れた石畳。
握り締めた剣の重さ。
そして、自分の手から失われていったもの。
「……まだだ」
誰に言うでもなく、呟いた。
「今回は、まだ終わらせない」
シオンが再び石柱へ魔力を流す。
その瞬間。
地下施設全体が低く震えた。
ゴウン――。
遠くで巨大な鐘を鳴らしたような音。
シオンの目が鋭くなる。
『未知の同調反応を検知』
『北方導管――第二接続候補』
『魔力特性照合中』
シオンは石柱から目を離さなかった。
「第二接続候補……?」
その文字は、彼の知る記録にはなかった。
少なくとも。
これまで経験してきた世界線では、一度も。
シオンの表情がわずかに変わった。
「……何だ、これは」
次の瞬間。
円環状の装置に、一本の細い銀色の光が走った。
北方を示す紋章から、王都の中枢へ。
まるで、何かが遠くから接続を求めているように。
シオンは息を呑んだ。
「銀色の……魔力?」
彼はすぐに記録を呼び出した。
膨大な古代文字が宙に浮かぶ。
通常の魔力波長。
生体反応。
魔術適性。
どれとも完全には一致しない。
しかし、その中に一つだけ、気になる項目があった。
『接続適性――暫定認証』
『対象個体――未登録』
『制御干渉能力――解析不能』
シオンは長い沈黙の後、口を開いた。
「……まさか」
その脳裏に、一人の少女の姿が浮かんだ。
銀色の髪。
不思議な魔力。
そして、まだ自分の本当の役割を知らない存在。
「ルミナ……?」
ただの推測だった。
確証はない。
だが、シオンはその可能性を無視できなかった。
今までの世界にはなかった反応。
今までの選択にはなかった変化。
その意味を考えると、背筋に冷たいものが走った。
「……希望なのか」
シオンは呟いた。
「それとも、また別の破滅の始まりなのか」




