第82章 輸送隊を守り抜け
セレスティア王国、北方東街道。
夕暮れの森に、狼の遠吠えが響いた。
それも、一匹や二匹ではない。
森の奥から重なるように聞こえてくる咆哮に、輸送隊の馬たちが怯え始めていた。
輸送隊長「急げ! 先頭の荷車との距離を詰めろ!」
御者「無理です! これ以上速度を上げたら車輪が持ちません!」
補給拠点から退避させた大量の物資。
その中でも、最後尾の十四台が遅れていた。
そこへ、フィオナたちの騎兵隊が追いつく。
フィオナ「輸送隊長! 状況は!?」
輸送隊長「フィオナ殿! 最後尾の荷車が故障しかけています!」
フィオナは問題の荷車を見た。
車輪が左右に大きく揺れ、今にも外れそうだった。
積まれているのは医療用魔石と治療薬。
北方防衛軍にとって、欠かせない物資である。
フィオナ「……止めて! 荷物をほかの荷車へ移す!」
輸送隊長「しかし、敵が迫っています!」
フィオナ「だから急ぐんです! 荷車一台のために全部失うわけにはいかないでしょう!」
兵士たちが積荷を移し始めた。
その時、後方から斥候が駆け込んできた。
斥候「敵の先行集団を確認! 狼型魔物、およそ百三十!」
騎兵隊長「百三十だと!?」
斥候「さらに東街道の北方には、猪型や亜人型を含む魔物の本隊がいます!」
フィオナの表情が変わった。
フィオナ「……本隊との距離は?」
斥候「かなり開いています! こちらへ到達するには、まだ一時間以上かかる見込みです!」
フィオナ「……そう」
フィオナは地図を広げた。
百三十匹の狼型魔物。
その後方に、約二千匹の魔物の主力。
しかし、両者は一緒に動いていない。
足の速い狼型だけが、先行している。
フィオナ「……隊長。今、戦える兵士は何人?」
騎兵隊長「輸送隊の護衛を残せば、八十人ほどです」
フィオナ「弓兵は?」
騎兵隊長「二十名ほど」
フィオナは地図の一点を見つめた。
街道沿いにある、古い石切り場。
採掘跡の岩壁と斜面によって、森から街道へ出る道が狭くなる場所だった。
彼女は顔を上げた。
フィオナ「……よし。反撃しよう!」
騎兵隊長「……何ですと!?」
フィオナ「敵の先頭を叩くんです!」
輸送隊長「しかし、魔物は二千匹もいるのですよ!」
フィオナ「今ここに来るのは百三十匹だけです!」
フィオナは地図を指さした。
フィオナ「全部と戦ったら勝てない。でも、先に飛び出してきた連中だけなら、短時間は戦える!」
騎兵隊長は険しい表情になった。
騎兵隊長「危険な賭けですな」
フィオナ「分かってます。だから、十五分で終わらせます」
フィオナは続けた。
フィオナ「その間に輸送隊を逃がす。敵本隊が近づいたら、予定より早くても撤退。無理に勝とうとしない!」
騎兵隊長はしばらく考え、頷いた。
騎兵隊長「……承知しました!」
その直後。
補給拠点から撤退してきた補給隊長が、フィオナたちに合流した。
補給隊長「フィオナ殿! 補給拠点について報告があります!」
フィオナ「何かあったんですか?」
補給隊長「撤退前に、運び出せなかった備蓄食料の一部へ魔物用の毒を仕込んでおきました」
フィオナ「……毒?」
補給隊長「はい。それと、倉庫に設置されていた防衛用の封印罠も起動させてあります」
フィオナは驚いた。
フィオナ「そんな準備をしていたんですか?」
補給隊長「ええ。魔物が拠点へ侵入した後、少しでも損害を与えるためです。毒を仕込んだ食料と罠の位置は記録し、味方が誤って近づかないよう報告も回しています」
補給隊長は続けた。
補給隊長「先ほど後方の斥候から連絡がありました。封印罠は作動し、倉庫へ入った魔物の一部を倒したそうです」
フィオナ「それは朗報じゃない!」
補給隊長「……ところが、奇妙なことが」
フィオナ「え?」
補給隊長「魔物の大部分が、残された食料を無視して南下を続けているそうです」
フィオナは眉をひそめた。
フィオナ「……食料を?」
補給隊長「はい。毒に気づいた可能性もありますが、そもそも倉庫を調べようともしない個体が多いようです」
ルミナが静かに口を開いた。
ルミナ「通常の採食行動とは異なる可能性があります」
フィオナ「……あいつら、いったい何を目指してるんだろうね」
ルミナ「現時点では不明です」
フィオナは一瞬考え込んだ。
しかし、すぐに首を振る。
フィオナ「……今は考えても仕方ない。まずは輸送隊を守ろう!」
ルミナ「はい」
石切り場に、急ごしらえの防衛線が築かれた。
盾兵を前列に配置し、その後ろに槍兵。
弓兵は岩場の高い位置から援護する。
騎兵は左右の側面を警戒し、魔物の回り込みに備えた。
フィオナは少し高い場所から、戦場全体を見渡していた。
右腕は包帯で固定されたまま。
剣を振ることはできない。
だが、それでいい。
今の自分には、別の役割がある。
フィオナ「ルミナ。広い障壁は、もう無理だよね?」
ルミナ「はい。残存魔力量を考慮すると、長時間の維持は困難です」
フィオナ「じゃあ、側面から抜けてくる敵だけ止めて。ほんの数秒でいいから!」
ルミナ「承知しました」
フィオナは笑った。
フィオナ「ふふっ。私たち、なかなかいいコンビじゃない?」
ルミナ「はい。フィオナ様の判断能力と私の魔術は、相互補完性が高いと考えられます」
フィオナ「もう! そういう時は『そうですね』でいいの!」
ルミナ「……そうですね」
フィオナ「ふふっ。よろしい!」
その時だった。
兵士「敵、接近!」
森の奥から、無数の赤い瞳が現れた。
狼型魔物の群れ。
その数、およそ百三十。
魔物たちは一斉に斜面を駆け下りてくる。
騎兵隊長「弓兵、構え!」
弓弦が引き絞られた。
だが、フィオナは手を上げる。
フィオナ「まだ!」
魔物が近づく。
さらに近づく。
前列の兵士たちの額に、汗が浮かんだ。
兵士「フィオナ殿! もう目の前です!」
フィオナ「……あと少し!」
そして。
フィオナ「今! 放て!」
無数の矢が放たれた。
先頭の魔物たちが次々と倒れる。
後続が倒れた魔物を飛び越えようとして、足並みを乱した。
フィオナ「二射目!」
再び矢が飛ぶ。
しかし、魔物たちは止まらない。
鋭い牙をむき出しにして、防衛線へ襲いかかった。
騎兵隊長「盾兵、踏ん張れ!」
激しい衝撃。
魔物が盾にぶつかる。
兵士「ぐっ……!」
その後ろから槍兵が槍を突き出す。
鋭い穂先が魔物を貫いた。
しかし、次の魔物がすぐに襲いかかる。
フィオナは戦場全体を見渡した。
フィオナ「前へ出ないで! 陣形を崩しちゃ駄目!」
兵士たちは必死に防衛線を維持した。
だが、数匹の狼型魔物が岩場を登り、右側面へ回り込む。
兵士「右から来るぞ!」
フィオナ「ルミナ!」
ルミナ「はい」
ルミナが片手を上げた。
透明な障壁が一瞬だけ展開される。
魔物たちが弾き返された。
そこへ騎兵が槍を突き出す。
騎兵「今だ!」
数匹の魔物が倒れる。
ルミナはすぐに障壁を解除した。
魔力を節約するためだった。
フィオナ「よし! そのまま!」
王国軍は、少しずつ敵の数を減らしていった。
戦闘開始から十二分。
防衛線は、限界に近づいていた。
盾は傷つき、槍は折れ、負傷者が出始めている。
騎兵隊長「フィオナ殿! これ以上は危険です!」
フィオナは周囲を見渡した。
敵の先行集団は、かなり数を減らしている。
しかし、まだ数十匹が残っていた。
その時。
前列の盾兵が、魔物の突進を受けて倒れた。
兵士「ぐあっ!」
別の兵士が助けようとする。
だが、魔物の爪がその兵士を襲った。
兵士「うわああっ!」
鋭い悲鳴。
兵士が地面へ倒れ込む。
フィオナの表情が強張った。
(……私が、反撃を決めたから)
その兵士も、つい先ほどまで元気に返事をしていた。
自分の命令に従い、仲間たちと戦っていた。
フィオナは歯を食いしばった。
右手が無意識に剣の柄へ伸びかける。
だが、痛みが走った。
フィオナ「……っ!」
剣は振れない。
たとえ振れたとしても、すべての仲間を救えるわけではない。
フィオナは深く息を吸った。
フィオナ「……負傷者を下げて!」
騎兵隊長「しかし、敵が!」
フィオナ「もう十分です! 撤退しましょう!」
その時、北東を監視していた斥候が戻ってきた。
斥候「緊急報告! 敵本隊の一部が進軍速度を上げています!」
フィオナは即座に判断した。
フィオナ「全員、撤退準備! 煙幕を使うよ!」
石切り場の奥。
そこには、あらかじめ兵士たちが集めた廃材があった。
砂利と岩に囲まれ、周囲には燃え移る草木が少ない。
さらに、風は東から西へ吹いている。
フィオナはその風向きを確認していた。
フィオナ「……今!」
兵士たちが、用意していた廃材へ火を放つ。
炎が立ち上がり、濃い煙が発生した。
煙は風に乗って西へ流れ、魔物が接近してくる方向へ広がっていった。
騎兵隊長「煙が広がったぞ!」
フィオナ「まだ安心しないで! 狼型は鼻も利くから!」
その言葉どおり、煙の中から数匹の魔物が飛び出してきた。
兵士「抜けてきます!」
フィオナはルミナを見た。
フィオナ「ルミナ! あと一回だけ、お願い!」
ルミナ「……はい」
ルミナの声には、わずかな疲労が混じっていた。
魔力は、すでに底をつきかけている。
それでも、彼女は片手を上げた。
ルミナ「局所障壁、展開」
小さな透明の壁が現れた。
先頭の魔物が激突する。
その隙に、騎兵が槍を突き出し、魔物を後退させた。
騎兵隊長「後衛、離脱完了!」
しかし、ルミナの障壁が激しく揺れた。
魔術式に亀裂が走る。
ルミナ「……魔力残量、限界」
フィオナ「ルミナ! もういいよ!」
ルミナが障壁を解除する。
その瞬間、煙の中から魔物が飛び出した。
フィオナ「危ない!」
フィオナは馬を寄せ、左手を伸ばした。
ルミナがその手をつかむ。
近くの騎兵も駆け寄り、ルミナを馬上へ引き上げるのを助けた。
フィオナ「……まったく! 無茶しすぎ!」
ルミナ「フィオナ様にそう言われるとは、予想外でした」
フィオナ「もう! 今は冗談言ってる場合じゃないでしょ!」
ルミナ「……失礼しました」
フィオナは思わず笑った。
しかし、すぐに前を向く。
フィオナ「全員、南へ! 走って!」
騎兵たちが一斉に撤退する。
背後では、炎に照らされた煙が街道を覆っていた。
追撃する魔物の群れは、攻撃による損害と視界の悪化によって勢いを失っていた。
その間に、王国軍は距離を稼いでいく。
夜。
フィオナたちは、南方の守備拠点へ到着した。
輸送隊もすでに到着していた。
補給拠点から運び出した主要物資は、ほとんどが無事だった。
故障した荷車は放棄したものの、積荷の大部分は守ることができた。
だが、王国軍にも損害が多数出ていた。
フィオナは死傷者数の報告を黙って聞いていた。
騎兵隊長「……フィオナ殿。作戦は成功です」
フィオナ「……うん」
騎兵隊長「敵の先行集団を叩き、追撃を遅らせることができました。物資も守れています」
フィオナ「……でも、何人も死んだ」
騎兵隊長は何も言わなかった。
フィオナは膝の上で左手を握りしめた。
フィオナ「……私が反撃を決めたんだ」
その隣に、ルミナが立った。
ルミナ「フィオナ様」
フィオナ「……何?」
ルミナ「輸送隊がそのまま逃走を続けていた場合、狼型魔物によってより多数の犠牲者が出た可能性があります」
フィオナは顔を上げた。
ルミナ「今回の判断によって、主要物資の退避と、多数の兵士の生存が実現しました」
フィオナ「……でも」
ルミナ「犠牲が出たことは、事実です」
ルミナは静かに続けた。
ルミナ「ですが、その責任を考えることと、成功した判断を否定することは、同じではありません」
フィオナは黙り込んだ。
しばらくして、ゆっくりと息を吐く。
フィオナ「……そうだね」
彼女は右腕を見た。
まだ剣は振れない。
だが、自分にはできることがある。
そして、自分の判断一つで、仲間の命が左右される。
その重さを、今日改めて思い知った。
フィオナ「……次は、もっと上手くやるよ」
ルミナ「はい」
フィオナ「一人でも多く、無事に帰れるように」
ルミナ「私も協力します」
フィオナは、ほんの少し笑った。
フィオナ「……ありがと、ルミナ」
ルミナも、わずかに表情を和らげた。
夜の守備拠点には、負傷兵の治療を行う声と、荷物を運ぶ足音が響いていた。
戦いは終わっていない。
だが、フィオナとルミナは、北方防衛軍の生命線を守り抜いた。
その事実だけは、確かだった。




