第77章 大侵攻の始まり
巨大な腕が振り下ろされた。
フィオナは地面を蹴り、横へ跳ぶ。
直後、轟音とともに土が舞い上がった。
フィオナ「……っぶな!」
間一髪だった。
右腕は先ほどの衝撃で痺れ、剣を握ることさえ難しい。左手で剣を構え直したものの、正面の魔物はあまりにも巨大だった。
分厚い皮膚。岩のような筋肉。そして、騎士の身体ほどもある腕。
フィオナ「……レオンだったら、こんなの一撃なんだろうな」
思わず苦笑する。
だが、すぐに表情を引き締めた。
フィオナ「でも、私はレオンじゃないんだよ!」
真正面から戦う必要はない。
フィオナは近くの岩場へ視線を向けた。
斜面の途中には大きな岩が重なり、足元の一部が崩れかけている。
フィオナ「ほら! こっちだ、でかぶつ!」
フィオナは魔物を挑発しながら岩場へ走った。
巨大な魔物が咆哮し、追ってくる。
一歩。
二歩。
地面が揺れる。
フィオナは岩と岩の狭い隙間へ身を滑り込ませた。
魔物は構わず突進してくる。
フィオナ「そうだ……そのまま来い!」
巨体が斜面へ踏み込んだ瞬間、岩の隙間から嫌な音が響いた。
フィオナは左手の剣を岩の亀裂へ差し込み、全身の力を込める。
フィオナ「……崩れろっ!」
限界まで緩んでいた岩が動いた。
足元が崩れる。
巨大な魔物は体勢を失い、そのまま斜面を転げ落ちた。
激しい音とともに、岩が次々と崩落する。
フィオナ「はあっ……はあっ……やったか?」
しかし。
土煙の向こうで、巨大な腕が動いた。
フィオナ「……しぶといな、おい!」
魔物が岩を押しのけ、這い上がろうとする。
その首元には、崩落によって生じた大きな傷があった。
フィオナは剣を握り直す。
フィオナ「悪いけど……ここで終わりだ!」
岩の上から飛び降り、露出した傷へ剣を突き立てた。
魔物が最後の咆哮を上げる。
そして、巨体が動かなくなった。
フィオナは剣を抜き、ふらつきながら地面へ降りた。
フィオナ「……勝った」
膝が震えている。
右腕はまだ思うように動かない。
それでも、フィオナは笑った。
フィオナ「どうだ、レオン。私だって、やる時はやるんだぞ……」
もっとも。
本人が聞いたら、きっと普通に褒めてくるだろう。
フィオナ「……あいつ、そういうところが調子狂うんだよな」
そんなことを呟き、フィオナは森の方へ歩き始めた。
しばらく進んだところで、馬の足音が聞こえてきた。
フィオナ「……敵か?」
剣を構えかけた、その時。
騎士「フィオナ様!」
フィオナ「……お前たち!」
現れたのは、先ほど負傷者を護送していた若い騎士たちだった。
フィオナ「馬車はどうした!?」
騎士「負傷者は無事です! 別の護衛隊に引き継ぎました!」
フィオナ「だったら何で戻ってきた!」
騎士「フィオナ様を置いていけるわけがないでしょう!」
フィオナは呆れたように息を吐いた。
フィオナ「……命令違反だぞ」
騎士「後でいくらでも叱ってください!」
フィオナ「……馬鹿だな、お前たち」
そう言いながらも、少しだけ嬉しそうに笑う。
騎士たちはフィオナを馬へ乗せ、一行は帰還を開始した。
しかし、その途中。
丘の上へ出た瞬間、全員が言葉を失った。
眼下に広がっていたのは、無数の魔物の群れだった。
狼型、猪型、亜人型。
種類も大きさも異なる魔物たちが、いくつもの街道や森の中を進んでいる。
しかも、その進路は徐々に一つの方向へ集まっていた。
騎士「……何だ、あれは」
フィオナ「……」
騎士「あいつら、同じ場所を目指しているのか?」
フィオナは地図を広げた。
魔物たちの進む先には、この地域の防衛を支える重要な辺境砦がある。
フィオナ「……まずいな」
騎士「砦が狙われていると?」
フィオナ「分からない。でも、あの数が押し寄せたら……」
フィオナは言葉を切った。
数百どころではない。
千を超えている可能性さえあった。
すると、一人の騎士が別の方向を指さした。
騎士「フィオナ様! あちらにも魔物が!」
主力から分かれた別の群れが、小さな集落へ続く道を進んでいた。
フィオナ「……あそこ、まだ避難してないだろ!」
騎士「おそらく……!」
フィオナはすぐに手綱を引いた。
フィオナ「全員、進路変更! あの村へ向かう!」
騎士「しかし、そのお身体では!」
フィオナ「私が戦えなくても、避難の指示くらいは出せる!」
騎士たちは顔を見合わせ、すぐに頷いた。
フィオナたちは馬を走らせる。
目指すのは、魔物の進路にある小さな村だった。
村へ到着したフィオナは、すぐに村長を呼び出した。
村長「魔物の大群ですと!?」
フィオナ「ああ。今すぐ全員を避難させてくれ!」
村長「し、しかし、荷物や家畜が……!」
フィオナ「命より大事なものがあるのか!?」
村長「……!」
フィオナ「家は後で建て直せる! 今は生き残ることだけ考えろ!」
フィオナの言葉に、村長は大きく頷いた。
村長「分かりました! 皆に知らせます!」
村人たちが慌ただしく動き始める。
老人や子供を荷車へ乗せ、必要最低限の食料と水を積み込んでいく。
しかし、避難は思うように進まなかった。
騎士「フィオナ様! 森の向こうに敵影です!」
フィオナ「もう来たのか!?」
騎士「数が多すぎます!」
フィオナは村の地図を確認した。
南側には川が流れ、古い石橋が架かっている。
橋を渡れば、防衛砦へ続く道へ出られる。
フィオナ「全員、石橋を渡って南へ! 私たちは後方を守る!」
騎士「承知!」
フィオナは左手で剣を握り直した。
右腕はまだ痛む。
それでも、ここで引くわけにはいかなかった。
一方、その日の朝。
学院にいた俺は、セシリア先輩から急いで呼び出された。
普段は落ち着いている先輩の表情が、明らかに険しい。
レオン「セシリア先輩? どうしたんですか?」
セシリア「……フィオナのことです」
レオン「フィオナが?」
セシリア「北方の監視塔が魔物の大群に襲撃されました。彼女も救援に向かったそうです」
レオン「……え?」
思わず足が止まった。
セシリア「守備隊の撤退を援護するため、最後まで後方に残っていたという報告があります」
レオン「それで、フィオナは!?」
セシリア「……まだ安否が確認できていません」
頭の中が真っ白になった。
つい先日、再戦を約束する手紙を読んだばかりなのに。
レオン「……助けに行けませんか?」
セシリア「私も行きたいです」
先輩は静かに拳を握った。
セシリア「ですが、今は正確な状況さえ分かりません。まず学院長へ相談しましょう」
レオン「……はい」
俺たちは急いで学院長室へ向かった。
事情を知ったアーヴェルたちも集まってきた。
クラリッサ「フィオナが行方不明!?」
エリシア「そんな……」
ヴィクトリア「王国騎士団は捜索しているのですわね?」
ルミナ「救援部隊が派遣されていることは確認されています」
俺は拳を握った。
レオン「……俺、助けに行きたい」
すると、アーヴェルが俺の肩を叩いた。
アーヴェル「レオン」
レオン「……何?」
アーヴェル「昨日、言ったよな。全部一人で背負うなって」
レオン「……うん」
アーヴェル「だったら、まず俺たちで考えようぜ」
ヴィクトリアも頷く。
ヴィクトリア「無計画に飛び出したところで、何も分からなければ救助はできませんわ」
エリシア「正式な救援活動に協力できる方法を探しましょう」
ソフィア「治癒魔法なら、私もお役に立てると思います」
カグラ「私も手伝う」
クラリッサ「もちろん私も!」
みんなが俺を見ていた。
前世の俺なら、こんな時、きっと一人で抱え込んでいた。
でも、今は違う。
レオン「……ありがとう、みんな」
アーヴェル「礼はまだ早いって」
その時、学院長室の扉が開いた。
報告官が新しい書類を持って入ってくる。
報告官「学院長! 辺境から続報です!」
学院長「状況は?」
報告官「監視塔の守備隊は、大部分が無事に撤退しました!」
俺たちは顔を上げた。
報告官「そして、フィオナ殿の生存も確認されています!」
レオン「……!」
セシリア「……よかった」
先輩が小さく息を吐く。
俺も思わず胸を撫で下ろした。
レオン「……本当によかった……」
しかし、報告官の表情は晴れなかった。
学院長「他に報告は?」
報告官「はい。フィオナ殿はその後、別の集落へ向かい、住民の避難を指揮しているとのことです」
学院長「場所は?」
地図の上に示された地点を見て、学院長の表情が変わった。
報告官「その集落の周辺には、現在、多数の魔物が接近しています」
俺は息を呑んだ。
レオン「……フィオナは、まだ戦ってるんだ」
安心したのも束の間。
危機は、まだ終わっていなかった。
再び辺境。
古い石橋では、村人たちの避難が続いていた。
荷車が次々と橋を渡る。
泣き出す子供。
必死に馬を引く老人。
その後方では、フィオナと数人の騎士が魔物の群れを食い止めていた。
騎士「フィオナ様! これ以上は持ちません!」
フィオナ「分かってる!」
右腕の痛みが増している。
左手の剣も、重く感じるようになってきた。
それでもフィオナは踏みとどまった。
橋の向こうには、必死に逃げる村人たちがいる。
その時、一人の少女がフィオナを振り返った。
少女「お姉ちゃん! 一緒に逃げないの!?」
フィオナ「すぐ行くよ!」
少女「本当!?」
フィオナ「本当だ! だから前を向いて走れ!」
少女は母親に手を引かれ、橋を渡っていった。
フィオナはその背中を見届ける。
フィオナ「……さて」
再び剣を構えた。
その時、斥候から報告が入る。
騎士「フィオナ様! 最後の荷車が橋を渡り始めました!」
フィオナ「よし! 私たちも退く準備を!」
ようやく撤退できる。
そう思った、その瞬間だった。
森の奥から、凄まじい咆哮が響いた。
騎士「……何だ!?」
木々が大きく揺れる。
次々と魔物が姿を現した。
十匹。
五十匹。
百匹。
さらにその後ろにも。
途切れることなく、魔物の群れが現れ続ける。
騎士「……嘘だろ」
フィオナも思わず息を呑んだ。
フィオナ「……何だよ、あの数は……」
これまで辺境で数え切れないほどの魔物と戦ってきた。
だが、こんな光景は初めてだった。
狼型。
猪型。
亜人型。
大型の魔物まで混じっている。
しかも、どの魔物も互いを攻撃しない。
まるで、同じ目的を持っているかのように進んでいた。
騎士「フィオナ様! あれを全部相手にするのは不可能です!」
フィオナ「分かってる!」
フィオナは橋を振り返った。
最後の荷車は、まだ橋の中央にいる。
ここで魔物を通せば、村人たちが襲われる。
だからといって、正面から戦えば全滅する。
フィオナ「全員、橋の入口まで下がれ! 狭い場所なら数の差を減らせる!」
騎士「承知!」
騎士たちは後退し、石橋の手前に防衛線を作った。
フィオナもその中央に立つ。
しかし、彼女の視線は魔物の群れのさらに向こうを捉えていた。
森の奥にも、巨大な影がいくつも動いている。
そして、その進路は村だけではなかった。
その先にある砦。
さらに南の街道。
人々が暮らす王国の内地へと続いている。
フィオナ「……これは、本当にまずいな」
ただの魔物の群れではない。
辺境全体が危険にさらされている。
フィオナは剣を握り直した。
フィオナ「みんな! 最後の荷車が渡りきったら、私たちも橋を越える!」
騎士「はい!」
フィオナ「絶対に無理するな! 生きて帰るぞ!」
騎士たちが声を上げた。
その時。
魔物の群れが、一斉に動き始めた。
地響きが大きくなる。
咆哮が重なる。
まるで森そのものが押し寄せてくるようだった。
フィオナは小さく息を吐いた。
フィオナ「……レオン」
あの銀髪の少年を思い出す。
強くて、優しくて、少し変わった少年。
次に会ったら、今日の戦いを自慢してやろう。
きっと驚くだろう。
いや。
あいつのことだから、素直に褒めるかもしれない。
フィオナ「……それも悪くないな」
思わず笑みが浮かぶ。
そして、迫る魔物たちを見据えた。
フィオナ「だから……絶対に生きて帰る!」
次の瞬間。
先頭の魔物たちが、石橋へ向かって殺到した。
フィオナは左手の剣を振り上げる。
フィオナ「来いっ!」
少女の叫びが、戦場に響き渡った。
しかし、その背後には、まだ数え切れないほどの魔物が迫っていた。
フィオナたちが守る小さな石橋。
そこが今、辺境を……そして、王国全土すら飲み込もうとする
大侵攻の、最初の防衛線になろうとしていた。




