第76章 辺境からの手紙と、フィオナの死闘
魔術研究会の大騒動から数日。
学院では、いまだにアーヴェルの「魔王」というあだ名が一部の生徒に定着していた。
アーヴェル「……なあ、レオン」
レオン「何?」
アーヴェル「さっき廊下で、知らない下級生に『魔王様、おはようございます』って挨拶された」
レオン「礼儀正しい子だね」
アーヴェル「そこじゃねえ!」
本人は本気で困っているらしい。
しかし、そんなアーヴェルの苦労をまったく理解していない人物が、勢いよく教室へ入ってきた。
クラリッサ「おはよう、魔王! 今日こそ決着つけよう!」
アーヴェル「だから俺は魔王じゃねえ!」
カグラ「勇者の執念」
アーヴェル「お前まで乗るな!」
リリアーナ「魔王の認知度、前日比十二パーセント上昇」
アーヴェル「測定するな!」
レオン「順調に人気が出てるね」
アーヴェル「お前の人気と交換してくれよ!」
レオン「それは無理じゃない?」
アーヴェル「即答するな!」
教室に笑い声が広がる。
いつもの賑やかな朝だった。
こんな毎日が、ずっと続けばいい。
俺は何となく、そんなことを思っていた。
放課後。
訓練場へ向かおうとしていた俺を、セシリア先輩が呼び止めた。
セシリア「レオン。少し時間をもらえますか」
レオン「また模擬戦ですか?」
セシリア「今日は違います」
レオン「よかった……」
セシリア「……そこまで安心されると、少し複雑ですね」
先輩は苦笑すると、一通の手紙を取り出した。
セシリア「フィオナから届きました」
レオン「フィオナから?」
学院を訪れ、俺と再戦したあと、辺境へ帰っていったフィオナ。
あれからどうしているのか、少し気になっていた。
セシリア「最近、辺境で魔物の動きが不自然になっているそうです」
レオン「不自然?」
セシリア「本来なら互いに争う種類の魔物が、同じ方向へ移動していると」
手紙には、狼型や猪型の魔物が、普段は見られない規模の群れを作っていることも書かれていた。
レオン「何かに追われてるんでしょうか?」
セシリア「その可能性もあります。ですが、フィオナも原因は分からないようです」
レオン「……心配ですね」
セシリア「ええ。彼女は実戦経験が豊富です。そのフィオナが警戒しているのですから」
しかし、手紙の最後には、いかにも彼女らしい俺へ向けた一文があった。
『レオン! 次に戦う時は絶対に勝つから、腕を鈍らせるなよ!』
レオン「……最後だけいつものフィオナだ」
セシリア「ふふっ。ええ」
レオン「今度会ったら、また勝負を挑まれそうですね」
セシリア「間違いないでしょう」
少し笑い合ったあと、俺は改めて手紙を見た。
フィオナが無事に戻ってきて、また剣を交えられる。
その時は、それを当然のように考えていた。
同じ頃。
王国北方の辺境では、フィオナが父の配下の騎士たちとともに、魔物の動向を調査していた。
丘の上に馬を止め、森の向こうを見下ろす。
騎士「フィオナ様。前方に魔物の群れです」
フィオナ「数は?」
騎士「三十……いえ、もっといます」
フィオナは目を細めた。
森の間を、狼型の魔物が進んでいる。
その後ろには大きな牙を持つ猪型の魔物。さらに、棍棒を携えた亜人型の魔物まで混じっていた。
フィオナ「……おかしいな」
騎士「何がです?」
フィオナ「あいつら、普通なら喧嘩するだろ」
縄張りも習性も違う魔物たちが、互いを襲うこともなく歩いている。
しかも、どの群れも北方から南へ向かっていた。
騎士「何かに追われているのでしょうか」
フィオナ「だったら、もう少し散らばりそうなもんだけどな」
その時、後方から斥候が馬を走らせてきた。
斥候「フィオナ様! 北の監視塔から救援信号です!」
フィオナ「何だって!?」
斥候「魔物に包囲されています! 守備隊が応戦中とのこと!」
フィオナの表情が変わった。
フィオナ「全員、監視塔へ向かう! ただし、正面の街道は使うな!」
騎士「林を迂回するのですか?」
フィオナ「ああ。敵の横っ腹を突く!」
騎士たちが頷き、馬を走らせる。
フィオナも剣の柄を確かめた。
フィオナ「……まったく。帰って早々、退屈させてくれないね」
その口元には、いつもの不敵な笑みが浮かんでいた。
翌日、学院にも王国騎士団から正式な通達が届いた。
辺境各地で魔物の活動が活発化しているため、実戦を想定した防衛訓練を増やすという。
セルジュ「今後は複数の敵を想定した集団戦と、撤退時の連携を重点的に訓練する」
クラリッサ「集団戦か! 面白そう!」
カグラ「役割分担が重要」
クラリッサ「じゃあ、私は先頭!」
アーヴェル「お前、いつも先頭だろ」
クラリッサ「得意だからね!」
レオン「俺たちも連携を練習しておいた方がよさそうだね」
フィオナの手紙が頭をよぎる。
もし本当に大規模な魔物の群れが現れたら、いくら俺が強くても、すべての場所を同時には守れない。
そんなことを考えていた俺へ、アーヴェルが声をかけた。
アーヴェル「レオン。放課後、一本付き合えよ」
レオン「模擬戦?」
アーヴェル「ああ。そろそろ一撃くらい取ってやる」
レオン「いいよ」
クラリッサ「私も!」
アーヴェル「まずは俺の番だ!」
カグラ「魔王、挑戦者が多い」
アーヴェル「だから魔王じゃねえって!」
いつもの笑いが起きた。
だが、その頃、辺境ではすでに戦いが始まっていた。
フィオナたちが監視塔へ到着した時、守備隊は完全に包囲されていた。
門の前には数十匹の魔物。
防壁の上では兵士たちが弓を射かけているが、矢が足りなくなりつつある。
騎士「フィオナ様! 正面突破は危険です!」
フィオナ「だから正面から行かないって!」
フィオナは素早く周囲の地形を確認した。
監視塔の西側には浅い沢があり、その先に木の生い茂る斜面がある。
フィオナ「弓を使える者は丘から援護! 残りは私についてこい!」
騎士「承知!」
フィオナは少人数を率い、沢を渡って敵の側面へ回り込んだ。
最初に気づいた狼型の魔物が飛びかかってくる。
フィオナ「遅い!」
身体を半歩ずらし、突進をかわす。
すれ違いざまに剣を振るうと、魔物はそのまま地面へ倒れた。
続いて大型の猪型魔物が突進してきた。
フィオナは正面から受け止めない。横へ跳び、踏み込んだ脚を斬る。
体勢を崩したところへ、後続の騎士たちが槍を突き出した。
騎士「仕留めました!」
フィオナ「よし! 止まるな!」
彼女の剣術は美しいだけのものではない。
砂を蹴り上げて敵の視界を奪い、足場の悪い場所へ誘い込み、仲間の攻撃につなげる。
辺境で磨いた実戦的な技術。
セシリアとの訓練や、レオンとの再戦を通して、その動きはさらに洗練されていた。
フィオナ「一人で全部倒そうとするな! 二人で一匹ずつ確実に仕留めろ!」
若い騎士「は、はい!」
援護の矢が魔物の群れへ降り注ぐ。
その隙にフィオナたちは包囲の一角を突破し、監視塔の門へ辿り着いた。
フィオナ「開けろ! 救援だ!」
守備隊長「フィオナ殿か! 助かった!」
フィオナ「礼は後! 負傷者は?」
守備隊長「地下に避難させている!」
フィオナ「なら、すぐに撤退の準備を!」
守備隊長「しかし、まだ敵が――」
フィオナ「ここで全滅するつもりか!?」
守備隊長は一瞬黙り、すぐに頷いた。
守備隊長「……分かった。全員、撤退準備!」
フィオナたちは門の周囲を守りながら、負傷者を馬車へ移していった。
やがて最後の兵士が乗り込む。
若い騎士「フィオナ様! 全員、準備できました!」
フィオナ「よし! 出発!」
この時点では、まだ勝利を信じられた。
少なくとも、包囲されていた守備隊を救い出すことには成功したのだから。
しかし。
フィオナは剣を収めなかった。
フィオナ「……待て」
騎士「どうされました?」
遠くの森から、低い地響きが聞こえてきた。
木々が揺れる。
一匹、二匹。
さらに十匹。
次々と魔物が姿を現す。
若い騎士「……嘘だろ」
数は増え続けた。
五十。
百。
その後ろにも、まだ群れがいる。
守備隊長「いったい、どこから……!」
フィオナは歯を食いしばった。
しかも、魔物の一部は監視塔ではなく、南へ続く街道へ向かっていた。
その先には、小さな集落がある。
フィオナ「……まずいな」
騎士「どうしますか!?」
フィオナ「負傷者を連れて撤退! 集落にも避難を知らせろ!」
騎士「追いつかれます!」
フィオナ「だったら後方を守る! 足止めしながら下がるぞ!」
フィオナは数人の騎士を連れ、馬車の後方へ回った。
迫ってくる魔物を斬り伏せ、騎士たちと交互に後退する。
無理に倒しきろうとはしない。
守るべきは馬車と、その中にいる負傷者たちだ。
フィオナ「あと少しだ! 街道の曲がり角まで行けば――」
その時だった。
森の奥から、ひときわ大きな咆哮が響いた。
一方、学院では。
俺とアーヴェルが模擬戦を終えたところだった。
アーヴェル「くそっ! また負けた!」
レオン「でも、前よりずっと動きがよかったよ」
アーヴェル「……そうか?」
レオン「うん。最後の踏み込みは結構危なかった」
アーヴェルは少し嬉しそうに笑うと、隣へ座った。
しばらく水を飲んだあと、珍しく真面目な声で言う。
アーヴェル「なあ、レオン」
レオン「何?」
アーヴェル「本当に魔物の大群が攻めてきたら、お前は一人で何とかしようとするんだろうな」
レオン「……状況によるかな」
アーヴェル「まあ、そうだよな」
少し間を置いて、アーヴェルが続けた。
アーヴェル「でも、覚えとけよ。今度は俺たちもいるんだからな」
レオン「……うん」
アーヴェル「全部一人で背負うなよ」
レオン「頼りにしてる」
アーヴェル「おう」
俺たちは軽く拳を合わせた。
その時、遠い辺境で何が起きているのか。
俺たちはまだ、何も知らなかった。
森から現れたのは、それまでの魔物とは明らかに違う巨体だった。
分厚い皮膚。
丸太のような腕。
頭には湾曲した巨大な角。
騎士の一人が思わず声を上げる。
騎士「なっ……何だ、あれは!?」
フィオナ「……冗談だろ」
巨体が突進する。
フィオナは近くの若い騎士を突き飛ばした。
フィオナ「避けろ!」
直後、巨大な腕が地面を叩いた。
衝撃でフィオナの身体が吹き飛び、硬い地面へ転がる。
フィオナ「ぐっ……!」
何とか立ち上がるが、右腕が痺れていた。
剣を握ろうとしても、指にうまく力が入らない。
若い騎士「フィオナ様!」
フィオナ「こっちへ来るな! 馬車を守れ!」
騎士「しかし!」
フィオナ「負傷者がいるだろ! 先に行け!」
若い騎士は歯を食いしばり、馬車へ引き返した。
フィオナは左手で剣を握り直す。
正面には巨大な魔物。
その周囲からも、狼型の魔物が次々と近づいてくる。
(……こいつは、まともに戦って勝てる相手じゃないな)
フィオナは周囲を見た。
右手には森。
左手には岩場。
後方の街道には、まだ逃げ遅れた馬車がいる。
逃げるには、もう少しだけ時間を稼がなければならない。
フィオナ「……ったく」
苦笑が漏れた。
フィオナ「レオンともう一回戦うって約束したばっかりなんだけどな」
あの銀髪の少年との模擬戦を思い出す。
あれほど悔しい負け方をしたのは久しぶりだった。
だからこそ、また戦いたかった。
今度こそ、一撃を届かせたかった。
フィオナ「……こんなところで終わってたまるかよ!」
巨大な魔物が咆哮する。
フィオナは左手の剣を構えた。
そして、魔物の足元にある岩へ視線を走らせる。
(真正面から斬る必要はない。足を止めれば、それでいい!)
魔物が飛びかかった。
フィオナ「来い!」
フィオナは地面を蹴った。
巨大な腕が振り下ろされる。
激しい衝撃とともに、土煙が舞い上がった。
その日の夜。
学院長室へ、辺境から緊急連絡が届いた。
報告官「学院長! 北方の監視塔が魔物の大群に襲撃されました!」
学院長「守備隊は?」
報告官「救援の騎士たちと合流し、撤退を開始したとのことです。しかし、その後の連絡が途絶えています!」
学院長「救援部隊は向かっていますか?」
報告官「はい。ただ、周辺の魔物の数が予想を大きく上回っており、到着が遅れる見込みです」
学院長は地図を広げた。
監視塔のある地域は、アルセリア家とも関わりの深い辺境に近い。
報告官は、続けて一枚の書類を差し出した。
報告官「なお、最後の報告によれば、撤退中の守備隊を援護していた騎士が一人、後方に残っていたとのことです」
学院長「その騎士の名前は?」
報告官「……フィオナです」
学院長の表情が険しくなった。
学院長「安否は?」
報告官「まだ確認できていません」
部屋に重い沈黙が落ちた。
その頃。
学院の男子寮で、俺は翌日の授業の準備をしていた。
机の上には、剣術の教本。
それを閉じた時、ふとセシリア先輩に見せてもらったフィオナの手紙を思い出した。
『次に戦う時は絶対に勝つから、腕を鈍らせるなよ!』
レオン「……次はどんな手を使ってくるんだろうな」
思わず笑みが浮かぶ。
今度会ったら、また模擬戦になるんだろう。
セシリア先輩まで加わったら、きっと大変な一日になる。
それでも、少し楽しみだった。
俺は窓の外を見た。
学院の中庭には魔術灯がともり、いつもと変わらない静かな夜が広がっている。
遠い辺境でフィオナが剣を振るっていることも。
その安否が分からなくなっていることも。
この時の俺は、まだ知らなかった。




