第75章 クラリッサを被験者にしてはいけない
平和とは、いったい何なのだろう。
最近の俺は、そんなことを考える機会が増えていた。
記憶を失ったり、身に覚えのない結婚の噂を流されたり、ヴィクトリアの料理を食べただけで恋愛感情の測定対象にされたり。
この学院に入学してからというもの、落ち着いて過ごせた日の方が少ない気がする。
それでも、今日は比較的平和だった。
授業は普通に終わったし、昼食も美味しかった。アーヴェルも一度しか俺に文句を言わなかった。
素晴らしい一日だ。
そう思っていた。
放課後、クラリッサが教室へ飛び込んでくるまでは。
クラリッサ「レオン! 聞いて聞いて!」
レオン「どうしたの?」
クラリッサ「今日、私、実験するんだ!」
レオン「へえ。何の?」
クラリッサ「分かんない!」
レオン「分かんないの!?」
あまりにも元気な即答だった。
隣で帰り支度をしていたアーヴェルが顔を上げる。
アーヴェル「お前、何の実験かも知らないで参加するのか?」
クラリッサ「うん!」
アーヴェル「何でそんなに自信満々なんだよ……」
クラリッサ「リリアーナがね、『あなたほど適した実験対象はいない』って!」
レオン「それ、褒められてるのかな……」
クラリッサ「もちろん! 私にしかできない実験なんだよ!」
本人はすっかりその気だった。
レオン「ちなみに、どこでやるの?」
クラリッサ「魔術研究会!」
俺とアーヴェルは顔を見合わせた。
アーヴェル「……レオン」
レオン「うん」
アーヴェル「行くか?」
レオン「そうだね……」
魔術研究会。
リリアーナが所属する研究会だ。
そして、そこには俺が以前から少しだけ警戒している人物がいる。
マリアベル・クレイン先輩。
淡い青髪と眼鏡が特徴的な二年生で、研究会を率いる部長だ。
以前、俺に魔石十二個を同時に浮かせる実験をさせた人物でもある。
研究者として優秀なのは間違いない。
ただし。
研究が面白くなると、少々周囲が見えなくなる。
そんな人物が、リリアーナと一緒にクラリッサを実験台に選んだ。
(……何も起きない方がおかしい気がする)
魔術研究会の部室へ到着すると、中から妙に楽しそうな声が聞こえてきた。
マリアベル「素晴らしいわ! 理論上は完璧よ!」
リリアーナ「成功確率、九十三・六パーセント」
マリアベル「十分ね!」
……残りの六・四パーセントが気になる。
扉を開けると、部室の中央には見慣れない魔導装置が置かれていた。
机の上に並んだ魔石。複雑な魔術式が刻まれた円盤。そして、小さな腕輪のような魔導具。
その前で、マリアベル先輩が満面の笑みを浮かべていた。
マリアベル「あら、レオン君! それにアーヴェル君も!」
レオン「こんにちは、マリアベル先輩」
アーヴェル「お邪魔します」
マリアベル「ちょうどよかったわ! 今日は歴史的な実験になるかもしれないの!」
レオン「歴史的?」
リリアーナ「人間の闘志と身体強化魔法の効率についての研究です」
レオン「……それなら、ちゃんとした研究だね」
少し安心した。
人の精神状態が魔力制御に与える影響を調べるのは、確かに意味がある。
ところが、マリアベル先輩は嬉しそうに眼鏡を押し上げた。
マリアベル「ただ測定するだけじゃ、面白くないでしょう?」
レオン「……はい?」
マリアベル「そこで、被験者の闘志に応じて声援と視覚演出を発生させる機能を追加したの!」
アーヴェル「何でそんな機能が必要なんですか?」
リリアーナ「応援による意欲向上と魔力効率の相関関係を測定するため」
マリアベル「その名も、自動応援型・闘志増幅魔導装置!」
先輩は両手を広げた。
何だろう。
名前を聞いただけで帰りたくなった。
レオン「それ、安全なんですか?」
マリアベル「もちろん! 身体への強化補助は訓練用の制限値以内。演出も幻影魔法だから実害はないわ」
リリアーナ「緊急停止機能、動作確認済み」
レオン「ならいいんだけど……」
クラリッサ「ねえねえ! 早くやろうよ!」
クラリッサは待ちきれない様子で腕輪を手に取った。
マリアベル「そうね。では、実験開始!」
その時の俺は、まだ気づいていなかった。
この装置には、致命的な問題があったのだ。
魔導具の構造でも、魔術式でもない。
被験者の人選である。
クラリッサが腕輪を装着し、訓練室の中央に立つ。
正面には木製の的。
手には訓練用の木剣。
マリアベル「それじゃあクラリッサさん。まずは軽く一撃を入れてみて」
クラリッサ「分かった!」
クラリッサが木剣を振り下ろす。
次の瞬間。
パパパパーン!
やたら景気のいいファンファーレが鳴り響いた。
そして彼女の頭上に、金色に輝く文字が浮かび上がる。
『素晴らしい一撃!』
クラリッサ「おおおっ!?」
レオン「……何これ」
マリアベル「応援演出よ!」
クラリッサ「すごい! もう一回!」
クラリッサが再び木剣を振る。
『見事! 未来の英雄!』
今度は小さな光の粒まで舞った。
クラリッサ「うおおっ! 格好いい!」
アーヴェル「……何か、ものすごく喜んでるぞ」
リリアーナ「被験者の闘志、前回比二十一パーセント上昇」
マリアベル「素晴らしい結果ね!」
さらに三撃目。
『その一撃が伝説になる!』
クラリッサ「伝説!?」
四撃目。
『立ち上がれ、不屈の戦士よ!』
クラリッサ「立ってるけど、任せて!」
レオン「応援の内容に合わせなくていいから!」
五撃目。
『世界は君の勇気を待っている!』
クラリッサ「よーし! 世界のために頑張るぞー!」
アーヴェル「ただ的を叩いてるだけだろ!?」
クラリッサの動きが、どんどん速くなっていく。
それに合わせて、装置から流れる音楽も派手になっていった。
普通の訓練室が、いつの間にか英雄誕生の舞台みたいになっている。
リリアーナ「驚異的な数値」
マリアベル「こんなに効果が出るなんて!」
レオン「……先輩」
マリアベル「何?」
レオン「これ、研究として成功なんですか?」
マリアベル「大成功よ!」
クラリッサ「もっとやりたい!」
マリアベル「ほら、本人もこう言ってるわ!」
本人が言っているからこそ心配なんだけど。
しばらくすると、マリアベル先輩が真剣な表情で記録用紙を覗き込んだ。
マリアベル「……リリアーナ」
リリアーナ「はい」
マリアベル「第二段階、試してみない?」
リリアーナ「賛成」
レオン「待ってください」
マリアベル「何かしら?」
レオン「今でももう十分ですよね?」
マリアベル「そうね。でも、さらに詳しく調べたいじゃない?」
レオン「どうして、そんなに嬉しそうなんですか?」
リリアーナ「第二段階、起動します」
レオン「人の話を聞いて!?」
魔導装置が青白く輝いた。
そして、クラリッサが剣を振った瞬間。
ゴオオオッ!
彼女の背後に、巨大な炎の幻影が現れた。
『燃え上がれ! 不屈の闘士クラリッサ!』
クラリッサ「うおおおおおっ!」
アーヴェル「何の儀式だよ!?」
もちろん本物の炎ではない。
分かっている。
分かっているけど。
何で魔術研究会の訓練室に、巨大な炎を背負ったクラリッサがいるんだ。
クラリッサ「マリアベル先輩! もっと派手にできる!?」
マリアベル「もちろんよ!」
レオン「即答しないでください!」
リリアーナ「被験者から演出増強の要望を確認」
レオン「採用しなくていい!」
リリアーナ「自発的要望は重要な観測資料」
マリアベル「その通り!」
この三人。
完全に意気投合している。
そこへクラリッサが勢いよく振り返った。
クラリッサ「ねえ! 誰か私と勝負しようよ!」
嫌な予感がした。
俺は一歩下がった。
アーヴェルも一歩下がった。
しかし、マリアベル先輩の視線がこちらを向く。
マリアベル「そうね! 対戦相手がいる状態の方が、より実戦的なデータが取れるわ!」
リリアーナ「適切な対戦相手を選定」
レオン「……」
アーヴェル「……」
クラリッサ「アーヴェル!」
アーヴェル「何で俺なんだよ!?」
クラリッサ「勝負しよう!」
アーヴェル「絶対嫌だ!」
ところが、マリアベル先輩が両手を合わせた。
マリアベル「お願い! 軽い模擬戦だけでいいから!」
リリアーナ「身体強化の出力も安全範囲内です」
アーヴェル「いや、そういう問題じゃ――」
クラリッサ「お願い!」
クラリッサまで両手を合わせる。
アーヴェルが俺を見る。
アーヴェル「……レオン」
レオン「うん」
アーヴェル「代わってくれ」
レオン「頑張って?」
アーヴェル「親友だろ!?」
レオン「だから応援してる」
アーヴェル「お前もこの連中と同じじゃねえか!」




