第5章 放課後の勧誘合戦と、初めての友達
翌日の昼休み、俺は重大な問題に直面していた。
食堂へ行く勇気が出ない。
王立セレスティア高等学院の大食堂には数百人の学生が集まり、長いテーブルのあちこちで貴族同士の交流が行われている。前世ならコンビニ弁当を買って自室へ逃げ込めば済んだが、この世界には当然そんな便利な選択肢はなかった。
「……部屋に持ち帰れないのかな」
「何をなさっているのです?」
後ろから声をかけられ、肩が跳ねた。
振り返ればヴィクトリアが立っている。
今日も艶やかな金髪を綺麗な縦巻きに整え、濃紺の学院制服を隙なく着こなしていた。いかにも公爵令嬢らしい堂々とした立ち姿なのに、俺を見ると少しだけ眉を寄せる。
「食堂の入口で十分くらい立っていますわよ」
「心の準備を」
「昼食に何の準備が必要ですの?」
「人が多い」
「学園なのですから当たり前でしょう」
正論はやめてほしい。
そこへ栗色の長髪を揺らしながらエリシアまでやって来た。
「レオン様、もしかして一人で食事をするおつもりでしたか?」
「その予定だった」
「でしたら、ご一緒しましょう」
「え?」
「私たちもちょうどこれからです」
エリシアの後ろには、クラリッサとカグラまでいる。
さらに小柄なリリアーナもいる。
(待ってくれ)
人数が増えている。
一人で静かに食事する予定だったのに、いつの間にか女子生徒五人と食事する話になっている。
前世の俺なら妄想ですら設定を盛りすぎだと自分で突っ込んでいただろう。
「俺が混ざっていいのか?」
「どうして駄目なのです?」
エリシアが首を傾げる。
「いや、なんとなく……」
「変な人」
カグラが淡々と言った。
「初対面の女性五人と昼飯なんて難易度高いだろ」
「難易度?」
「こっちの話だ」
結局、逃げ道はなかった。
大食堂は想像以上に豪華だった。
高い天井。
巨大なシャンデリア。
長机には焼きたてのパン、肉料理、魚、スープ、色鮮やかな野菜まで並んでいる。
貴族学院らしく給仕までいる。
「好きな物を選んでください」
エリシアに言われ、俺は料理を眺めた。
そして。
「……肉」
「そこだけ即決ですのね」
ヴィクトリアが呆れる。
「前世では冷めた揚げ物ばかりだったからな」
「また前世とおっしゃいましたわね」
「言葉の癖だ」
「絶対何か隠していますわ」
鋭い。
俺は皿に肉と野菜を盛って席へ着いた。
正面にはエリシア。
右にはヴィクトリア。
左にはクラリッサ。
逃走経路が完全に塞がれている。
「それで、レオン」
クラリッサが口を開いた。
短い赤髪に日焼けした健康的な肌。騎士家出身だけあって体格も女子の中ではしっかりしている。
「今日の放課後、剣術部へ来ない?」
「嫌だ」
「即答!?」
「これ以上剣で目立ちたくない」
「もう遅いでしょ」
「俺も薄々そう思ってる」
クラリッサは楽しそうに笑う。
「だからこそ来ればいいじゃん。強い奴いっぱいいるよ」
「それが嫌なんだ」
「何で?」
「勝ったら目立つ。負けても目立つ。どっちにしても目立つ」
「面倒臭い性格してるね」
「自覚はある」
するとリリアーナが小さく手を上げた。
「魔術研究会も募集中です」
「昨日聞いた」
「今日も募集しています」
「毎日来るつもりか?」
「入るまで」
「怖いな!」
エリシアがくすくす笑っている。
この数日で分かった。
彼女は上品で穏やかだが、意外とこういう騒ぎを楽しむタイプらしい。
「エリシアはどこか入るのか?」
「私は薬草園研究会と礼法研究会で迷っています」
「礼法はすでに完璧そうだけど」
「そんなことありませんよ」
「昨日、廊下で知らない先生に道を譲る動作まで綺麗だったぞ」
そう言うと、エリシアの顔が少しだけ赤くなった。
「……見ていたのですか?」
「たまたま」
「そうですか」
なぜか嬉しそうだ。
その様子を見たヴィクトリアの眉がぴくりと動く。
「レオン」
「何?」
「あなた、そういうことを無自覚に言いますの?」
「そういうこと?」
「……もう結構ですわ」
意味が分からない。
午後の授業は、セレフィア先生による《精神魔法基礎》だった。
「精神魔法と聞くと、相手の心を操る魔法だと思われがちですが、それはごく一部です」
教壇に立つセレフィア先生は、今日も穏やかな雰囲気を纏っていた。
銀紫の長髪。
柔らかな微笑み。
しかし授業が始まると、その神秘的な瞳は思った以上に鋭い。
「むしろ最初に学ぶべきなのは、自分自身の感情を理解することです」
先生が小さな水晶球を持つ。
「恐怖を感じないようにするのではありません。恐怖している自分に気づき、それでも何をするのか選べるようになる。それが精神制御の第一歩です」
妙に耳が痛かった。
「レオンさん」
「はい?」
「今、逃げたいと思いましたね?」
「……どうして分かったんですか」
教室から笑いが起きる。
先生も少し笑った。
「顔に書いてあります」
「そんなに?」
「かなり」
転生して顔は美少年になったのに、表情管理能力は前世のままらしい。
「では、ちょうどいいので前へどうぞ」
「どうしてそうなるんです?」
「実演です」
嫌な予感しかしない。
仕方なく教壇へ立つ。
セレフィア先生と向かい合う。
近くで見ると、やはり独特の雰囲気がある。
美人だから緊張するというだけではない。
優しいのに底が見えない。
安心するのに、嘘をつけない気がする。
「目を閉じてください」
「はい」
「今、最も嫌なことを一つ思い浮かべて」
俺は考えた。
昔の自分。
狭い部屋。
閉め切ったカーテン。
画面だけを眺めながら何年も過ぎていく日々。
「浮かびました」
「その記憶を追い払わなくていいですよ」
肩へ先生の手が触れる。
「ただ、そこにあると認めてください」
不思議だった。
嫌な記憶なのに、逃げなくてもいいと言われると少しだけ楽になる。
「次に、今ここにいる自分を意識してください」
教室。
生徒たち。
エリシア。
ヴィクトリア。
クラリッサ。
カグラ。
リリアーナ。
そしてセレフィア先生。
「昔のあなたと、今のあなたは繋がっています。でも同じ場所に閉じ込められてはいません」
胸の奥が僅かに揺れた。
先生は俺の過去を知らない。
それなのに、まるで必要な言葉を選んでいるみたいだった。
「はい。目を開けて」
目を開く。
セレフィア先生が優しく笑っていた。
「どうですか?」
「……少し楽です」
「それなら成功です」
「魔法使ってました?」
「ほんの少しだけ。でもほとんどはレオンさん自身ですよ」
席へ戻る途中、エリシアと目が合った。
彼女は何も聞かなかった。
ただ小さく微笑んだ。
それがありがたかった。
放課後。
俺は逃げていた。
「待ちなさい、レオン!」
「剣術部、一回見るだけでいいから!」
「魔術研究会ならお菓子もあります」
「最後の誘惑の方向が違うだろ!」
ヴィクトリア、クラリッサ、リリアーナの三人が後ろから追ってくる。
俺は廊下を曲がり、そのまま階段を下りた。
剣聖スキルを逃走に使う日が来るとは思わなかった。
「どこか隠れる場所……!」
目に入った扉へ飛び込む。
閉める。
静寂。
「……逃げ切った」
「何から?」
背後から声がした。
振り向く。
そこは保健室だった。
ミレイユ先生が白衣姿で机に頬杖をついている。
「また君かあ」
「すみません」
「怪我?」
「勧誘から避難してます」
「なるほどねえ」
特に驚きもしない。
ミレイユ先生は隣の椅子を指した。
「座れば?」
「いいんですか?」
「保健室は避難所にもなるよ」
この人、本当に緩い。
俺が座ると、先生は温かい飲み物を出してくれた。
「薬草茶」
「ありがとうございます」
一口飲む。
少し甘い。
「学校、どう?」
突然聞かれた。
「まだ四日目です」
「四日あれば嫌いになるには十分でしょう?」
「そういう基準ですか」
「じゃあ好き?」
「……分かりません」
正直に答えた。
「でも前よりは、嫌じゃないです」
「前?」
「学校っていう場所そのものが」
ミレイユ先生はそれ以上聞かなかった。
「なら十分じゃない?」
「そうですかね」
「うん。人間、何でもすぐ好きにならなくていいよ」
先生は薬瓶を整理しながら続ける。
「嫌じゃない。少し興味ある。明日も来てもいい。そのくらいからで」
セレフィア先生とは違う。
あの人は包み込むように心を整えてくれる。
ミレイユ先生は、何も急がなくていいと力を抜かせてくれる。
「先生たちって……」
「ん?」
「みんな、こういうこと言うんですか?」
「言わないよ」
「やっぱり」
「私は生徒が無理して倒れると仕事が増えるから」
「急に現実的だな」
ミレイユ先生が楽しそうに笑った。
その時。
保健室の扉が勢いよく開いた。
「見つけましたわ!」
ヴィクトリアだった。
その後ろからクラリッサとリリアーナも顔を出す。
「ここにいた!」
「逃走経路として保健室を利用するのは予測済みです」
「リリアーナ、怖いって!」
俺は椅子から立ち上がる。
だが、その前にミレイユ先生が手を上げた。
「はい、そこまで」
三人が止まった。
「この子、今は私の患者だから」
「えっ?」
俺自身が驚く。
「どこか悪いんですの?」
ヴィクトリアが心配そうに聞く。
ミレイユ先生は平然と答えた。
「人付き合い疲労」
「そんな病名ありますの!?」
「今作った」
「先生!」
保健室に笑い声が広がった。
俺も、つられて笑ってしまった。
気づけば、この世界へ来てから笑う回数がずいぶん増えている。
結局その日の放課後、俺は全員の部活動を一度ずつ見学するという条件で解放された。
「何でそんな話になったんだ……」
寮へ向かう夕暮れの道で呟く。
隣を歩いていたエリシアが笑った。
「楽しそうで良いではありませんか」
「俺は静かな生活が欲しいんだ」
「本当に?」
足が止まった。
「何が?」
「本当に、誰にも話しかけられず、一人で静かに過ごしたいのですか?」
即答できなかった。
以前なら迷わなかった。
一人が楽だ。
人付き合いは面倒だ。
誰とも関わらなければ傷つかない。
そう思っていた。
でも今。
昼食を一緒に食べた。
授業で笑われた。
放課後に追い回された。
保健室で先生と話した。
面倒だった。
疲れた。
それなのに。
「……ずっと一人は、もういいかな」
自然に出た言葉だった。
エリシアの緑色の瞳が少しだけ見開かれる。
俺自身も驚いていた。
「そうですか」
彼女はそれだけ言って、嬉しそうに微笑んだ。
「では、明日も一緒に昼食を食べましょう」
「人数は?」
「たぶん今日より増えます」
「そこは減らしてくれ」
夕暮れの学院に、エリシアの笑い声が響く。
前世の俺なら絶対に選ばなかった道を、銀髪の少年になった俺は歩いている。
そして、この時の俺はまだ知らなかった。
翌日の特別剣術班に、《学院最強の三年生》と呼ばれる一人の令嬢が見学に現れることを。
俺の平穏な学園生活を、さらに遠くへ追いやる人物が。




