第3章 聖母のような先生と、眠たげな保健医
翌朝、俺は教室の前でしばらく立ち尽くしていた。
昨日の剣術試験で騎士科主任セルジュ先生の剣を弾き飛ばしてしまった結果、俺は入学二日目にして《特別剣術班》へ放り込まれることになった。
何度考えてもおかしい。
俺は目立たずに三年間を過ごしたかっただけなのに、入学初日に暴れ馬を止め、教官の剣を落とし、今では廊下を歩くだけで知らない生徒に振り返られる。
「……人生、二周目になっても上手くいかないな」
そんなことを呟きながら教室へ入ると、エリシアがすでに席についていた。
美しい栗色の長髪が朝日を受けて艶やかに輝いている。
「おはようございます、レオン様」
「おはよう」
「今日はずいぶん疲れたお顔ですね」
「昨日一日で、前世一年分くらい人と喋った気がする」
「前世?」
「……気にしないでくれ」
危ない。
まだ自分が転生者だと話すつもりはない。
エリシアは不思議そうに首を傾げたものの、それ以上は聞かなかった。
すると反対側からヴィクトリアがやって来た。
「レオン・アルセリア!」
「朝から声が大きいな……」
「昨日の続きを聞いておりませんわ!」
「何の?」
「セルジュ先生の剣を落とした技です!」
「あれは偶然だ」
「昨日からあなたの周りでは偶然が起こりすぎですわ!」
正論だった。
俺が返答に困っていると、教室の扉が静かに開いた。
その瞬間、ざわついていた生徒たちの声が自然と小さくなった。
入ってきたのは、一人の女性だった。
年齢は三十歳前後だろうか。
淡い銀紫色の長い髪をゆるやかに編み、胸元には青い宝石をあしらった教師用のローブ。立ち姿は柔らかく、笑みには不思議な安心感がある。
しかし、ただ優しそうなだけではない。
深い湖の底を思わせる蒼紫の瞳には、こちらの心の奥まで静かに見透かしてしまいそうな神秘性があった。
「皆さん、おはようございます」
声を聞いただけで、教室の空気が落ち着いた。
「私はセレフィア・ルナリエ。このクラスの魔術理論と精神制御、それから生活指導を担当します」
セレフィア先生は教壇に立つと、生徒全員を見渡した。
その視線には教師らしい厳しさよりも、子供たちを見守るような包容力がある。
(……母親っぽい先生だな)
前世で教師に良い思い出などほとんどなかった俺ですら、なぜか肩の力が抜けた。
「セレスティア学院には、剣や魔術を学びに来た方が多いでしょう。でも、強さだけを身につけても意味はありません。誰かを守る力は、自分を壊さずに使えて初めて力と呼べます」
そう言ってから、セレフィア先生の視線が俺のところで止まった。
「特に、一人で何でも背負い込もうとする方には大切なことですよ」
(俺を見ながら言わないでほしい)
まだ会って数秒なのに、何かを見抜かれたようで居心地が悪い。
セレフィア先生は小さく微笑んだ。
「レオンさん」
「はい」
「昨日、セルジュ先生からあなたのお話を聞きました」
「……悪い話じゃないですよね?」
「とても楽しそうに話していましたよ」
それはそれで怖い。
「あなたには今日の午後、魔力適性の再測定も受けていただきます。剣術だけが突出しているのか、それとも他にも何か眠っているのか、確認したいそうです」
「眠ってないことを願います」
教室の何人かが笑った。
セレフィア先生も口元を押さえて微笑む。
「ふふ。珍しいですね。皆さん、普通は才能が見つかることを喜ぶのですが」
「才能が増えると面倒も増えそうなので」
「それは否定できませんね」
この先生、話が通じる。
俺の中で好感度が一気に上がった。
午前中の授業を終えたあと、俺は特別剣術班へ向かった。
そして開始十五分後。
「止まれ、レオン!」
セルジュ先生の声が訓練場に響いた。
俺の訓練剣は、同級生の持っていた剣を弾き飛ばした勢いのまま、その肩のすぐ横で止まっていた。
「……すみません」
「謝る前に力加減を覚えろ」
「してるつもりなんですが」
「それでか?」
「はい」
セルジュ先生が頭を抱えた。
相手の男子生徒は怪我こそしていなかったが、尻餅をついた時に手首を捻ったらしい。
大した怪我ではない。
しかしセルジュ先生は俺たち二人を保健室へ送ることにした。
「俺まで行く必要あります?」
「お前も行け。昨日から身体能力がおかしい。ついでに診てもらえ」
「……嫌な予感しかしない」
学院の保健室は、前世の学校とはかなり違っていた。
薬品棚。
白い寝台。
魔法陣を刻んだ診察台。
壁には人体の魔力循環を示す図まで貼られている。
そして、その中央で一人の女性が椅子に座っていた。
「はいはーい。怪我人はどっち?」
ゆっくりした声。
年齢は二十代後半くらい。
淡い蜂蜜色の長髪を無造作に後ろでまとめ、白い医療用ローブを羽織っている。眠たげな琥珀色の目に、穏やかな笑み。
セレフィア先生とは別方向の柔らかさだった。
あちらが神秘的な聖母なら、この人は日なたで昼寝している猫に近い。
「僕です」
手首を痛めた男子生徒が答える。
「じゃあ座ってね。ちょっと触るよー」
女性は手首に指を添え、薄い緑色の光を流した。
「骨は平気。軽い捻挫だね。今日いっぱい剣は禁止」
「分かりました」
「それと、そっちの銀髪の子」
「……俺ですか」
「君以外に銀髪いないでしょう?」
確かに。
「私はミレイユ・フォスター。ここの保健医ね。セルジュから『変な新人が来る』って聞いてるよ」
「変な新人って……」
「剣術経験ほぼなしの記録なのに、セルジュの武器を落とした子」
「もう広まってるのか」
「職員室では話題だよ」
終わった。
生徒だけならまだしも教師陣にまで認識されている。
「はい、手を出して」
「手?」
「検査するから」
言われるまま差し出す。
ミレイユ先生は俺の手首を軽く握った。
そこから魔力のようなものが入ってくる。
妙な感覚だった。
身体の中を温かい水が流れていくような――。
だが次の瞬間。
ミレイユ先生の眠たげだった目が、少しだけ開いた。
「……へえ」
「何ですか」
「面白い身体してるね、君」
「怖い言い方しないでください」
「怖くないよ。むしろすごく綺麗」
「身体が?」
「魔力の流れが」
彼女は俺の手を離さず、もう少し詳しく調べ始めた。
「筋肉、骨格、反射神経、全部ほぼ理想値。なのに身体を鍛えた形跡が、この肉体の年齢と合ってない」
俺の背中に冷たいものが走った。
「……どういう意味です?」
「まるで、身体が完成した状態で用意されたみたい」
笑顔のまま言われたが、内容は鋭い。
(この先生、まずい)
転生の仕組みまで見抜かれるとは思わないが、普通の人間ではないことに気づかれる可能性はある。
「まあ、今すぐどうこうって話じゃないよ」
ミレイユ先生はあっさり手を離した。
「痛いところもない。健康。びっくりするくらい健康」
「……それだけ?」
「それだけ」
「何か聞かないんですか?」
「聞いてほしい?」
「いや」
「じゃあ聞かない」
どこかで似た会話をした気がする。
ミレイユ先生は机の引き出しから小さな飴を取り出し、俺に一つ渡した。
「はい」
「これは?」
「頑張った子にあげるやつ」
「俺、十八歳ですけど」
「十八歳でも疲れる時は疲れるでしょう」
俺は飴を見つめた。
「剣が強くても、魔法が使えても、しんどい時はここに来ていいからね。怪我してなくてもいいよ」
彼女はそう言って、眠たげに笑った。
「保健室って、そういう場所だから」
その瞬間だけ。
胸の奥が、妙に静かになった。
前世では、体調が悪くても誰かに相談するという発想がなかった。
会社では休めば迷惑をかけると思い、家では誰にも言えず、最後には何もかも面倒になった。
だから、たったそれだけの言葉が妙に残った。
「……覚えておきます」
「うん。それでいいよ」
保健室を出ると、廊下の先にセレフィア先生が立っていた。
「あら、レオンさん」
「先生」
「ミレイユ先生に診ていただいたのですね」
「俺は怪我してないんですけどね」
「心まで怪我をしていないとは限りませんよ」
また見透かすようなことを言う。
「……セレフィア先生って、読心魔法でも使えるんですか?」
「いいえ」
先生は楽しそうに笑った。
「長く教師をしていると、生徒が隠していることの一つや二つくらいは分かるようになるだけです」
「それが一番怖いです」
「ふふ」
セレフィア先生は俺の頭へ手を伸ばしかけ、さすがに子供扱いだと思ったのか途中で止めた。
代わりに、肩へそっと触れる。
「焦らなくていいのですよ、レオンさん」
「何がです?」
「新しい環境で、すぐに何者かにならなくてもいいということです」
返事ができなかった。
「強い剣士にならなければいけない。辺境伯家の息子らしくしなければいけない。周囲の期待に応えなければいけない。そういうものは、少しずつ考えればいいのです」
先生は穏やかに微笑む。
「まずは、この学院で好きなものを一つ見つけてください」
「好きなもの……」
「人でも、授業でも、景色でも構いません」
そう言い残して、セレフィア先生は廊下を歩いていった。
俺はその背中をしばらく見送った。
この世界へ来て二日。
超絶銀髪美少年。
剣聖スキル。
貴族学園。
華やかな令嬢たち。
前世の俺なら、全部が都合のいい妄想にしか見えなかっただろう。
でも実際にここで生きてみると、そう単純ではない。
怖い。
面倒だ。
人と話すだけで疲れる。
それでも――。
栗毛のエリシアがいる。
口の悪いヴィクトリアがいる。
母性と神秘的な雰囲気を併せ持つセレフィア先生がいて、眠たげだが優しいミレイユ先生もいる。
「……悪くないのかもな」
小さく呟いた、その時だった。
「レオン様!」
廊下の向こうからエリシアが走ってくる。
「大変です!」
「今度は何だ?」
「午後の魔力適性検査で、レオン様のお名前が特別測定対象に入っています!」
「……」
嫌な予感がした。
ものすごくした。
「しかも測定担当は、セレフィア先生です!」
俺は先ほど先生が消えた廊下の先を見た。
「……好きなものを探す前に、また変な才能が見つからないことを祈っていいか?」
エリシアは少し考えてから、申し訳なさそうに笑った。
「たぶん、難しいと思います」
ですよね。
俺の平穏な学園生活は、二日目にしてますます遠ざかっていた。




