第13章 初めての本気と、守りたいと思った理由
黒い巨熊が咆哮した。
腹の底まで響くような声。
鳥たちが一斉に森から飛び立つ。
「来ます!」
リリアーナが叫んだ。
次の瞬間。
巨熊が地面を蹴った。
速い。
三メートルを超える巨体とは思えない速度だった。
「散れ!」
俺たちは左右へ飛ぶ。
直後。
さっきまで立っていた場所へ巨大な前脚が叩きつけられた。
ドン――!
土が弾ける。
「……こんなの食らったら死ぬだろ」
「冷静に言っている場合か!」
アーヴェルが剣を構える。
俺も巨熊を見る。
普通のブラックグリズリーではない。
背中から突き出した黒い結晶。
そこから紫色の魔力が全身へ流れ込んでいる。
「リリアーナ。あの結晶、何か分かる?」
「分かりません」
「即答か」
「でも、魔力を供給しています」
彼女は杖を構えたまま続ける。
「あれを壊せば、強化が止まる可能性があります」
「可能性?」
「初めて見るものなので」
ですよね。
巨熊がこちらを向く。
赤い目。
明らかに普通ではない。
「俺が前へ出る」
一歩踏み出した瞬間。
「待て」
アーヴェルが横へ並んだ。
「一人で行くな」
「でも――」
「五人の班だろう」
言われて止まった。
エリシアも剣を抜いている。
「レオン様。私たちも戦えます」
「そうですわ!」
ヴィクトリアが片手を前へ出す。
「何でも一人で片付けようとしないでくださいませ!」
リリアーナまで小さく頷いた。
「役割をください」
「……分かった」
不思議だった。
以前なら。
任せるより自分でやった方が楽だと思ったはずだ。
失敗されるくらいなら一人でやる。
そもそも誰かと何かをすること自体が面倒だった。
でも。
「エリシア。風で視界を潰せる?」
「できます」
「ヴィクトリアは脚を止めて」
「お任せなさい」
「リリアーナは結晶の魔力を邪魔できる?」
「試します」
「アーヴェル」
「結晶を狙えばいいんだな」
「ああ」
言葉にするだけで自然に役割が決まる。
「俺が隙を作る」
巨熊が再び吠えた。
「来るぞ!」
* * *
今度の狙いは俺だった。
巨熊が突進してくる。
(速い)
でも。
見える。
前脚の動き。
肩。
重心。
爪がどこを通るのか。
全部分かる。
一歩。
横へずれる。
巨大な爪が目の前を通過した。
その瞬間。
「《風幕》!」
エリシアの魔法。
強い風が巨熊の顔へ叩きつけられる。
「グオッ!?」
巨熊が頭を振る。
「今ですわ!」
ヴィクトリアが腕を伸ばした。
「《光鎖》!」
金色の光が地面を走る。
巨熊の右前脚へ巻きついた。
「一つでは足りませんわね!」
さらに光。
「《光鎖・三重》!」
三本の鎖が脚を拘束する。
「くっ……!」
ヴィクトリアの顔が歪む。
巨熊が力任せに鎖を引っ張っている。
「長くは持ちませんわ!」
「十分!」
リリアーナが杖を向けた。
「《魔流干渉》」
紫色の細い光が黒い結晶へ伸びる。
触れた瞬間。
結晶の光が激しく揺れた。
「魔力の流れを乱しました!」
「アーヴェル!」
「分かっている!」
アーヴェルが走る。
正面ではない。
死角へ回り込み。
一気に踏み込んだ。
「はあっ!」
剣が黒い結晶へ叩き込まれる。
ガキンッ!
「硬い……!」
壊れない。
だが。
俺には見えた。
小さな亀裂。
ほんの一本。
それだけで十分だった。
(そこだ)
剣聖スキルが答えを出す。
角度。
速度。
踏み込み。
斬るべき一点。
「レオン!」
アーヴェルが叫ぶ。
「ああ!」
走る。
巨熊がこちらへ顔を向けた。
赤い目が俺を捉える。
左前脚が上がった。
(避ければいい)
簡単だ。
俺だけなら。
だが後ろには。
「レオン様!」
エリシア。
ヴィクトリア。
リリアーナ。
アーヴェル。
避ければ攻撃が誰かへ向かうかもしれない。
そう考えた瞬間。
身体が前へ出た。
「レオン!」
巨熊の爪。
俺は剣を斜めに構える。
受け止めない。
力を流す。
ガンッ!
「っ……!」
右腕へ強い衝撃。
痛い。
でも。
爪の軌道は逸れた。
「今だ!」
地面を蹴る。
一歩。
二歩。
巨熊の肩へ足をかけ。
跳ぶ。
剣を振り下ろす。
「――そこ!」
剣先が亀裂へ吸い込まれた。
パキン。
小さな音。
次の瞬間。
黒い結晶が砕け散った。
「グオオオオオッ!」
巨熊が激しく身体を振る。
「うわっ!」
俺の身体が宙へ飛んだ。
まずい。
そう思った瞬間。
風が背中を包んだ。
「レオン様!」
エリシアだった。
落下の勢いが弱まる。
地面へ転がる。
「いって……」
「レオン!」
アーヴェルが駆け寄る。
「大丈夫」
「本当か?」
「たぶん」
「たぶんで答えるな!」
どこかで聞いた台詞だ。
でも今はそれどころではない。
巨熊を見る。
まだ立っていた。
しかし。
「……あれ?」
ヴィクトリアが声を漏らす。
赤く光っていた目が。
ゆっくり元の黒色へ戻っていく。
全身を覆っていた異様な魔力も消えていた。
巨熊はふらつく。
一歩。
二歩。
そして。
ズン。
地面へ倒れた。
「死んだ……?」
エリシアが呟く。
リリアーナが慎重に近づく。
杖の先から淡い光を当てた。
「……生きています」
俺は大きく息を吐いた。
「よかった」
自然に言葉が出た。
黒い結晶が壊れると。
緊急用の魔導具も動き始めた。
救援信号を送ってから十分もしないうちに、セルジュ先生たちが森へ入ってきた。
「全員無事か!」
「はい」
セルジュ先生は倒れた巨熊を見る。
次に。
砕けた黒い結晶。
最後に俺たち五人。
「……お前たちがやったのか?」
「はい」
答えてから。
俺は少しだけ考えた。
「俺たち五人で」
セルジュ先生が眉を上げる。
「そうか」
「エリシアが視界を潰して」
「レオン様」
「ヴィクトリアが脚を止めて、リリアーナが結晶の魔力を邪魔して、アーヴェルが亀裂を――」
「もう結構です!」
ヴィクトリアが顔を赤くする。
「どうして全部説明しますの!」
「いや、俺だけが倒したみたいに思われるの嫌だし」
四人が黙った。
「何?」
エリシアが小さく笑った。
「いえ」
「何だよ」
「レオン様らしくないなと思いまして」
「……悪かったな」
「褒めているのです」
それなら最初からそう言ってほしい。
学院へ戻った俺は。
そのまま保健室へ連行された。
「はい。右腕出して」
ミレイユ先生が眠たげな顔で手を差し出す。
「大丈夫です」
「患者さんが決めない」
「痛みもそんなに」
「出す」
「……はい」
逆らえなかった。
淡い緑色の光が右腕を包む。
「軽い筋肉の炎症だね」
「やっぱり大丈夫じゃないですか」
「三メートルの魔獣の爪を受けてこれで済む方がおかしいんだけどなあ」
「流したので」
「はいはい。剣聖って便利だねえ」
まだ剣聖だとは言っていない。
危ない。
「でも」
ミレイユ先生が俺を見る。
「今日はちょっと違う顔してるね」
「顔?」
「うん」
彼女は治癒魔法を続けながら聞いた。
「怖かった?」
「……かなり」
「何が一番?」
巨熊。
爪。
死ぬかもしれないこと。
考えて。
でも。
最初に浮かんだのは別だった。
「仲間が怪我すること」
自分で言って驚いた。
前世の俺なら絶対に出なかった言葉だ。
ミレイユ先生は笑わなかった。
「そっか」
それだけだった。
俺は天井を見る。
前世では。
誰かを守りたいなんて考えたことがほとんどなかった。
そもそも。
守りたいと思えるほど近くに人がいなかった。
人と関わらなければ面倒はない。
傷つかない。
失うこともない。
そう思っていた。
でも。
今日。
エリシアへ爪が向いた瞬間。
考えるより先に身体が動いた。
「……人と関わるって面倒ですね」
「今さら?」
「今さらです」
「でも嫌?」
少し考えた。
「……嫌じゃないです」
ミレイユ先生が柔らかく笑う。
「ならいいんじゃない?」
治療が終わる。
俺は右腕を動かした。
痛みはほとんど消えていた。
窓の外では。
夕日が学院の塔を赤く染めている。
この世界へ来て。
まだ大して時間は経っていない。
それなのに。
俺にはもう。
怪我をしてほしくないと思える人たちができていた。
「……悪くないな」
小さく呟く。
前世では知らなかった感情。
それが何なのか。
まだ上手く言葉にはできない。
ただ。
今日初めて。
誰かを守るためなら本気になってもいい。
そう思った。




