第123章(続き)人形達の密談
しばらくの間、二人は言葉を交わさなかった。
卓上に広げられた地図には、幾つもの国境線が引かれている。
だが、千年以上もの時を見てきた二人にとって、その線は決して不変のものではなかった。
かつて栄華を誇った王国は滅び、名もなき辺境の集落が大国へと発展する。
信仰も、言葉も、支配者も変わる。
それでも、人々は争い続けてきた。
オラトリア「……あなたは、相変わらずですね」
ラプソディア「あら。何がかしら?」
オラトリア「大切なことほど、最後まで本心を明かさないところです」
ラプソディア「ふふっ。女には秘密が必要なのよ」
オラトリア「千年経っても、その言い訳は変わらないのですね」
ラプソディア「まあ、手厳しい」
ラプソディアは楽しそうに笑った。
オラトリアも、ほんのわずかに口元を緩める。
それは、聖連邦の信徒たちが決して目にすることのない表情だった。
神聖にして不可侵。
何者にも動じない、永遠の教皇。
そんな彼女が、今は昔馴染みの相手と、他愛もない言葉を交わしている。
しかし、その穏やかな時間は長く続かなかった。
オラトリア「……では、話を戻しましょう」
ラプソディア「ええ」
オラトリア「あなたが魔力循環網の再編を考えているとして、それを実行すれば、どれほどの影響が出るのですか?」
ラプソディア「……そうねえ」
ラプソディアは地図を眺めた。
ラプソディア「正確なところは、まだわからないわ」
オラトリア「あなたにも?」
ラプソディア「ええ。古代の施設は、すべてが正常に動いているわけではないもの」
彼女は魔境を指さした。
ラプソディア「魔境では魔力が不足している。一方、人間の領域では、今も多くの魔力が利用されている」
オラトリア「……」
ラプソディア「もし循環網の流れを変えれば、魔境を救えるかもしれない」
オラトリア「その代償として、人間の土地が魔力不足に陥る可能性がある」
ラプソディア「ええ。最悪の場合は、そうなるわね」
オラトリアは静かに目を伏せた。
オラトリア「それでは、問題を別の場所へ移すだけです」
ラプソディア「そのとおりよ」
あっさりと認めた。
まるで、当然の結論を確認しただけのように。
ラプソディア「だから、単純な再配分では駄目なの」
オラトリア「……別の方法を探しているのですか?」
ラプソディア「もちろん」
ラプソディアは微笑んだ。
ラプソディア「私だって、せっかくの世界を壊してしまいたいわけではないもの」
オラトリア「……その言葉を信じても?」
ラプソディア「信じるかどうかは、あなたの自由よ」
オラトリアは小さく息をついた。
オラトリア「本当に、困った方ですね」
ラプソディア「ふふっ。昔からでしょう?」
やがて、ラプソディアが別の話題を持ち出した。
ラプソディア「ところで、新しい勇者様はお元気?」
オラトリア「……フィンレイですか」
ラプソディア「ええ。なかなか面白い子だそうじゃない」
オラトリア「聖連邦の勇者として、務めを果たそうとしています」
ラプソディア「それだけではないでしょう?」
ラプソディアは悪戯っぽく笑った。
ラプソディア「敵国の民間人を守るために、自国の兵士を止めたそうね」
オラトリア「……報告は受けています」
ラプソディア「お咎めなしにしたのでしょう?」
オラトリア「勇者が罪のない人々を守った。それを罰する理由はありません」
ラプソディア「まあ。立派なお考えね」
ラプソディアは小さく手を叩いた。
ラプソディア「でも、聖連邦の将軍たちは面白くなかったでしょう?」
オラトリア「軍の規律と、勇者が果たすべき使命は、必ずしも同じではありません」
ラプソディア「ふふっ。あなたらしい答えだわ」
ラプソディアは椅子の背にもたれた。
ラプソディア「私、ああいう子は嫌いじゃないのよ。自分の信じる正義のためなら、偉い人の命令にも逆らってしまうような子」
オラトリア「……統治する側としては、扱いが難しいものです」
ラプソディア「でしょうねえ」
楽しげに笑うラプソディア。
しかし、その瞳には別の興味が宿っていた。
ラプソディア「……でもね、オラトリア」
オラトリア「何でしょう」
ラプソディア「勇者より、もっと厄介な子がいるのよ」
オラトリア「……銀髪剣聖ですか?」
ラプソディアの笑みが深まった。
ラプソディア「あら。もうご存じなのね」
オラトリア「レオン・アルセリア。セレスティア王国の辺境伯家の三男。近年、幾度も戦場で名を上げています」
ラプソディア「そう。その子よ」
ラプソディアは頬杖をついた。
ラプソディア「あの子、本当に変わっているの」
オラトリア「どのように?」
ラプソディア「とんでもない剣の腕を持っているくせに、本人はできるだけ平穏に暮らしたいらしいのよ」
オラトリア「……それ自体は、珍しいことではありません」
ラプソディア「でも、困っている人を見かけると、放っておけないの」
ラプソディアは小さく笑う。
ラプソディア「目立ちたくない。面倒なことは嫌い。なのに、いざとなれば自分から面倒事へ飛び込んでしまう」
オラトリア「……なるほど」
ラプソディア「しかも、本人は自分がどれほど周囲に影響を与えているのか、あまり理解していないみたい」
それは、どこか面白がるような口調だった。
オラトリア「あなたは、その少年に何を期待しているのですか?」
ラプソディア「……期待?」
オラトリア「興味を抱いているだけには聞こえません」
ラプソディアはしばらく考えた。
そして、ゆっくりと答える。
ラプソディア「……そうね。可能性、かしら」
オラトリア「可能性?」
ラプソディア「ええ。私たちが考えても思いつかなかった答えを、あの子が見つけてしまうかもしれない」
オラトリアは黙って耳を傾けていた。
ラプソディア「千年以上も生きていると、どうしても考え方が固まってしまうでしょう?」
オラトリア「……それは、否定できませんね」
ラプソディア「でも、若い子たちは違うわ」
ラプソディアは地図の上を指でなぞった。
ラプソディア「私たちが絶対に無理だと思っていたことを、案外あっさりやってしまうかもしれない」
オラトリア「……だから、観察しているのですか?」
ラプソディア「ふふっ。秘密よ」
いつもの笑顔。
しかし、オラトリアはその答えに納得していなかった。
オラトリア「……一つ、気になることがあります」
ラプソディア「何かしら?」
オラトリア「あなたがこれほど関心を抱くということは、その少年は古代施設にも関わっているのでしょうか」
ラプソディア「……さあ?」
オラトリア「ラプソディア」
その声には、わずかな厳しさがあった。
ラプソディアは、くすりと笑った。
ラプソディア「そんな怖い顔をしないで。せっかくの美貌が台無しよ?」
オラトリア「はぐらかさないでください」
ラプソディア「……もう。相変わらず真面目ねえ」
ラプソディアは肩をすくめた。
ラプソディア「ただ、王都の地下にも、少し気になる場所があるのよ」
オラトリア「……封印ですか」
ラプソディア「ええ」
オラトリアの表情が、わずかに引き締まった。
ラプソディア「随分と長い間、あそこは維持されてきたでしょう?」
オラトリア「……」
ラプソディア「誰かが、ずっと守り続けているのかもしれないわね」
オラトリア「……あなたは、どこまで把握しているのですか?」
ラプソディア「それは、こちらの台詞よ」
二人の視線が交わった。
先ほどまでの穏やかな空気が、静かに張り詰める。
古代の封印。
魔力循環網。
そして、それらに関わる人々。
二人とも、何かを知っている。
だが、互いにすべてを明かそうとはしなかった。
ラプソディア「……ふふっ。やっぱり、あなたとお話しするのは楽しいわ」
オラトリア「私は、あまり楽しくありません」
ラプソディア「まあ。冷たいのね」
しばらくして。
オラトリアは静かに問いかけた。
オラトリア「……ラプソディア。あなたは、本当に世界を救いたいのですか?」
ラプソディアは答えなかった。
代わりに、卓上の地図を見つめた。
王国。
聖連邦。
魔境。
地図に描かれているのは国境線だけだ。
だが、その向こうには無数の人々が暮らしている。
生まれたばかりの子供。
家族を待つ者。
戦場から戻らない者を悼む者。
そして、明日を生きるために懸命に働く者たち。
ラプソディア「……救う、ねえ」
彼女は小さく呟いた。
ラプソディア「その言葉は、少し難しいわ」
オラトリア「……」
ラプソディア「魔境を救えば、人間の土地が危険にさらされるかもしれない。王国を救えば、聖連邦の人々が苦しむかもしれない」
ラプソディアは顔を上げた。
ラプソディア「誰かの幸福が、別の誰かの不幸になってしまうこともある」
オラトリア「……だからこそ、慎重であるべきです」
ラプソディア「ええ。そうね」
珍しく、素直に頷いた。
ラプソディア「……でも、慎重に考えている間にも、世界は少しずつ悪くなっているわ」
オラトリアは何も言わなかった。
ラプソディア「千年もあれば、国はいくつも滅びる。人々の価値観も変わる。でも、今度の問題は、そんな時間をかけていられないかもしれない」
オラトリア「……あなたは、何かを急いでいるのですね」
ラプソディアの笑顔が、一瞬だけ消えた。
しかし、すぐに元へ戻る。
ラプソディア「……どうしてそう思うの?」
オラトリア「長い付き合いですから」
静かな返答だった。
ラプソディアは、それを聞いて小さく笑った。
ラプソディア「……本当に、あなたには敵わないわね」
やがて、ラプソディアは席を立った。
ラプソディア「さて。そろそろお暇しようかしら」
オラトリア「……結局、あなたの本当の目的は聞けませんでしたね」
ラプソディア「ふふっ。全部話してしまったら、次に会う楽しみがなくなるでしょう?」
オラトリア「……そういう問題ではありません」
ラプソディア「わかっているわ」
彼女は静かに微笑んだ。
ラプソディア「でも、今日のところは、これで十分よ」
オラトリア「……」
ラプソディア「あなたが何を考えているのか、少しはわかったもの」
オラトリア「こちらは、あなたの考えがますますわからなくなりました」
ラプソディア「まあ。それは残念」
楽しげな笑い声が響いた。
ラプソディアは出口へ向かいかけ、ふと足を止めた。
ラプソディア「……ねえ、オラトリア」
オラトリア「何でしょう」
ラプソディア「もしも、この世界を救うためには、今ある世界の仕組みそのものを変えなければならないとしたら……」
そこで言葉を区切った。
ラプソディア「あなたは、どうする?」
オラトリアは、すぐには答えなかった。
その完璧な美貌に、かすかな憂いが浮かぶ。
オラトリア「……変える必要があるのなら、変えるべきでしょう」
ラプソディアの目が、わずかに見開かれた。
だが、オラトリアは続けた。
オラトリア「ただし、そのために誰かの命を軽んじてよいとは思いません」
ラプソディア「……ふふっ」
ラプソディアは、ゆっくりと微笑んだ。
ラプソディア「本当に、あなたらしいわ」
オラトリア「あなたは違うのですか?」
ラプソディア「……さあ。どうかしらね」
そして、どこか寂しげに笑った。
ラプソディア「でも、その答えを聞けてよかったわ」
次の瞬間。
ラプソディアの姿が、静かに消えた。
足音も、扉の開閉音もなかった。
ただ、先ほどまで彼女が座っていた椅子だけが残されている。
オラトリアは、しばらくその場所を見つめていた。
千年以上。
教皇として聖連邦を導いてきた時間。
その間に、数え切れないほどの人間が生まれ、死んでいった。
王が代わり、国境が変わり、幾つもの戦争が繰り返された。
それでも、世界は続いてきた。
だが、今回ばかりは違うのかもしれない。
魔力循環網の異常。
魔境の危機。
古代施設の再活動。
そして、次々と現れる、従来の枠組みには収まらない者たち。
オラトリア「……ラプソディア」
静かな声が、誰もいない部屋に響いた。
オラトリア「あなたは、何を見つけたのですか……?」
答えはなかった。
ただ、卓上の地図だけが、変わらずそこに広がっていた。
オラトリアは、王国の位置へ視線を落とす。
オラトリア「……レオン・アルセリア」
その名を、ゆっくりと口にした。
ラプソディアが、あれほど興味を示した少年。
そして、聖連邦に現れた新たな勇者。
二人が今後、どのような道を選ぶのか。
それはまだ、誰にもわからない。
だが、オラトリアには一つだけ確信があった。
世界の未来を決めるのは、古代から生き続けてきた自分たちだけではない。
今を生きる者たちもまた、その未来を選ぶ権利を持っているのだ。
教皇オラトリアは、静かに目を閉じた。
その人間離れした美貌は、まるで聖なる彫像のように微動だにしなかった。
そして、誰に聞かせるでもなく、小さく呟いた。
オラトリア「……どうか、彼らが自らの意思で未来を選べますように」
祈りのような言葉だった。
千年以上にわたって聖連邦を導いてきた教皇と、独自の目的を追うラプソディア。
二人だけの秘密会談は、こうして幕を閉じた。
その夜、大神殿では何事も起こらなかった。
鐘はいつもどおりに鳴り、神官たちは祈りを捧げ、聖都の人々は静かに眠りについた。




