第120章 剣を収めた、その先に
西方諸侯連合の敗北は、もはや避けられないものとなっていた。
そもそも、この侵攻はセレスティア王国の窮状につけ込んだものだった。
北境では魔王軍との大戦が続き、さらに聖連邦までが侵攻を開始した。
王国には西方まで守る余力など残っていない。
西方諸侯たちは、そう判断したのである。
ところが、その目算は大きく外れた。
北境の戦争は予想外の早さで停戦に至り、さらに魔王からの援助によって、王国は兵站と通信体制を立て直した。
魔導通信を活用する王国軍は、各部隊を連携させながら反攻を開始する。
西方諸侯連合には、もはや勝ち目がなかった。
彼らは疲弊した王国から領土を奪うつもりだったのであって、国家の存亡を懸けた戦争をする覚悟など持ち合わせていなかったのである。
そして今、戦場では撤退する軍をいかに守るかが、最大の問題となっていた。
西方諸侯軍将校「敵騎兵が東の街道へ進出しました!」
別の将校「後衛部隊が分断されています! このままでは輸送隊まで捕捉されます!」
臨時本陣では、将校たちが次々と報告を持ち込んでいた。
広げられた地図には、後退を示す矢印ばかりが増えている。
西方諸侯軍将校「くそっ! 王国軍はどこまで追ってくるつもりだ!」
別の将校「こちらの布陣変更まで、すぐに対応してきます。魔導通信による連携が想像以上に厄介です!」
軍議の空気は重かった。
その中で、一人の小柄な剣士が静かに口を開いた。
オスティナート「それでは、私が後衛へ参りましょう」
灰色の外套。
少女と見紛うほど可憐な顔立ち。
その華奢な姿からは想像もできないほどの剣技を持つ、オスティナートだった。
西方諸侯軍将校「オスティナート殿! しかし、貴殿は先日の戦闘でも……!」
オスティナート「ご心配なく。まだ剣は振るえます」
穏やかな微笑みを浮かべる。
つい先日、レオン・アルセリアとの再戦に敗れたばかりだった。
しかし、その瞳に迷いはない。
オスティナート「まずは負傷者をお下げください。皆さんが撤退する時間は、私が稼ぎます」
西方諸侯軍将校「……頼めるか」
オスティナート「はい。お任せください」
小さく一礼すると、オスティナートは本陣を後にした。
街道には、王国軍の騎兵が迫っていた。
西方諸侯軍の後衛は崩れかけ、負傷者を乗せた馬車がぬかるみに車輪を取られている。
西方諸侯軍兵士「駄目だ! 馬車が動かない!」
別の兵士「敵が来るぞ! 早く逃げろ!」
そのとき。
銀光が走った。
先頭の騎士が握っていた槍が弾き飛ばされ、後続の馬が驚いて足を止める。
王国軍騎士「何者だ!」
オスティナート「申し訳ありません。少々、お待ちいただけますか?」
その姿を見た騎士たちの表情が変わった。
王国軍騎士「あいつだ! 例の剣士だ!」
オスティナートは静かに剣を構えた。
オスティナート「皆さんは、その間に馬車を動かしてください」
背後の兵士たちへ告げる。
王国軍の騎兵が再び突撃した。
オスティナートは迎え撃つ。
槍の穂先を逸らし、剣を弾き、騎兵の進路を乱す。
その剣技は相変わらず凄まじかった。
だが、倒れた騎士には追撃しなかった。
武器を失った兵士も、そのまま退かせた。
敵を討つことより、街道を塞ぎ続けることを優先していたのである。
王国軍騎士「くっ、突破できん!」
その間に馬車はぬかるみから抜け出し、後衛の兵士たちも撤退を始めていた。
オスティナートは、その姿を確認して小さく息を吐いた。
オスティナート(……これで、皆さんは帰れますね)
ふと、銀髪の少年の顔が浮かぶ。
レオン・アルセリア。
かつて自分が圧倒し、そして再戦では敗れた剣士。
あの少年は、自分を殺さなかった。
オスティナート(……なぜ、私を生かしたのでしょう?)
自分が生きていれば、こうして王国軍の前に立ちはだかる。
そのことをレオンも理解していたはずだ。
自分を討っていれば、王国軍の追撃はもっと容易になっただろう。
それなのに、あの少年は剣を引いた。
オスティナート(……本当に、不思議な方ですね)
答えは、まだわからなかった。
翌日。
西方諸侯軍の一部が、王国領内の小さな農村へ到着した。
侵攻以来、占領下に置かれていた村だった。
村人たちは王国軍が近づいていると聞き、ようやく解放されるのだと安堵していた。
しかし、彼らを待っていたのは、思いもよらない命令だった。
西方諸侯軍将校「村の食糧を運び出せ! 運べないものは焼却する!」
別の将校「家屋にも火を放て! 王国軍に利用できるものを残すな!」
焦土作戦だった。
追撃する王国軍に物資や宿営地を与えないため、撤退経路の村を焼き払おうというのである。
村人「お待ちください! 家を焼かれたら、私たちはどうすれば……!」
西方諸侯軍将校「今は我々の撤退が最優先だ!」
兵士たちが松明を用意し始めた。
そのときだった。
オスティナート「お待ちください」
穏やかな声が響いた。
西方諸侯軍将校「オスティナート殿?」
オスティナート「この村を焼くのは、おやめいただけませんか?」
西方諸侯軍将校「何を言う! 敵の追撃を遅らせるためには必要な措置だ!」
オスティナート「ですが、それでは村の方々が暮らしていけなくなります」
西方諸侯軍将校「ここは敵国の村だぞ!」
その言葉に、オスティナートは少しだけ目を伏せた。
オスティナート「……私の故郷にも、小さな村があります」
将校は眉をひそめた。
オスティナート「豊かな土地ではありません。皆さん、毎日の暮らしを続けるだけでも大変なのです」
脳裏に、故郷の人々の顔が浮かぶ。
オスティナート「もし、どこかの軍隊が私の村を焼こうとしたら、私は必死になって止めるでしょう」
オスティナートは静かに顔を上げた。
オスティナート「ここの方々も、同じではないでしょうか」
西方諸侯軍将校「理屈はわかる! だが、我々には撤退する時間が必要なのだ!」
オスティナート「でしたら、その時間は私が稼ぎます」
将校が息を呑む。
オスティナート「村を焼かずとも、追撃を食い止めればよいのでしょう?」
西方諸侯軍将校「……また、貴殿が殿軍を務めるというのか?」
オスティナート「はい」
小柄な剣士は、少女のように可憐な微笑みを浮かべた。
オスティナート「皆さんが無事に帰れるのであれば、それが一番ですから」
将校はしばらく黙っていた。
そして、命令を変更した。
西方諸侯軍将校「……わかった。放火は中止だ。全部隊、街道を西へ退け!」
村人たちから安堵の声が漏れる。
オスティナートは、その様子を見て静かに微笑んだ。
その後も、オスティナートは幾度となく殿軍を務めた。
橋の手前で王国軍の騎兵を阻み、山道で追撃部隊の進路を塞ぐ。
時には命を奪わなければならない戦闘もあった。
すべての戦いで、犠牲を避けられたわけではない。
それでも、無用な追撃はしなかった。
彼の目的は、敵軍に損害を与えることではなく、味方を無事に撤退させることだった。
その働きによって、西方諸侯連合は少しずつ秩序を取り戻していく。
負傷者を先に下げ、部隊ごとに撤退路を定め、取り残された兵士を回収する。
軍としての統制が保たれたことで、無秩序な逃走や周辺の村々からの略奪も抑えられた。
もちろん、すべてがオスティナート一人の功績ではない。
将校たちの指揮や、兵士たちの奮闘もあった。
しかし、王国軍の追撃を何度も食い止めた彼の存在が、そのための時間を生み出していたことは確かだった。
結果として、西方諸侯連合は壊滅を免れた。
そして、撤退経路にあった王国領の村々も、大きな破壊を受けずに済んだのである。
数日後。
後方拠点へ集結した西方諸侯連合の本陣で、オスティナートの戦功が報告されていた。
西方諸侯軍将校「オスティナート殿の働きにより、複数の部隊が包囲を免れました」
別の将校「負傷兵の収容も完了しております。撤退中の損害も、当初の予想より抑えられました」
領主は深く頷いた。
領主「オスティナート。よく働いてくれた」
オスティナート「ありがとうございます」
領主「お前がいなければ、我が軍はもっと悲惨なことになっていただろう」
そして、領主は続けた。
領主「このような状況ではあるが、功績には報いねばならん。何か望みはあるか?」
オスティナートは、少しだけ考えた。
オスティナート「……それでは、一つだけお願いがございます」
領主「申してみよ」
オスティナート「私の故郷の村への援助を、これからも続けていただけないでしょうか」
領主は目を細めた。
領主「……それだけか?」
オスティナート「はい」
領主「金銭も地位も望まぬのか?」
オスティナート「私には、どちらも必要ありません」
オスティナートは穏やかに微笑んだ。
オスティナート「あの村の皆さんが、これからも安心して暮らせるのであれば、それが何よりの恩賞です」
領主はしばらく黙っていた。
戦争の失敗によって、財政は厳しくなるだろう。
さまざまな支出を見直さなければならない。
だが、オスティナートの願いは、新たな褒美を求めるものではなかった。
これまで続けてきた援助を、打ち切らないでほしい。
ただ、それだけだった。
領主「……よかろう」
オスティナートが顔を上げる。
領主「お前の村への援助は、これまでどおり継続する。今回の敗戦を理由に削減することはせん」
オスティナート「……ありがとうございます」
その声には、心からの安堵が滲んでいた。
あの村の人々は、明日も暮らしていける。
自分が剣を振るってきた理由は、確かに報われたのだ。
やがて、西方諸侯連合から停戦の申し入れが届いた。
王国側も、これを拒まなかった。
もちろん、侵攻してきた相手を無条件に許すわけではない。
占領地からの全面撤退と、再侵攻を防ぐための保証。
それらは譲れない条件だった。
しかし、聖連邦との戦争が続いている王国にとって、西方での戦闘を長引かせることは得策ではなかった。
敵軍を徹底的に追い詰めたところで、そのために兵力や物資を消耗していては意味がない。
王国が優先すべきは、西方の安全を確保したうえで、聖連邦への対処に戦力を集中させることだった。
西方諸侯連合にも、これ以上戦争を続ける余力はない。
こうして、双方の利害が一致し、停戦協議が開始された。
王国は必要な条件を求めつつも、敗走する敵軍を徹底的に追い詰めることにはこだわらず、比較的寛大な姿勢で交渉に臨んだ。
その背景には、西方諸侯連合が秩序を保って撤退し、占領地の返還が進んでいたこともあった。
もし敵軍が壊走して各地で略奪や焼き討ちを繰り返していたなら、王国側も容易には停戦に応じられなかっただろう。
オスティナートが守り抜いた秩序ある撤退は、結果として双方が戦争を終わらせるための条件を整える一助となっていたのである。
王国軍の陣地。
西方諸侯連合との停戦協議が始まったという報告を聞いて、俺はようやく息を吐いた。
レオン「……そっか。ようやく終わりが見えてきたんだな」
もちろん、まだ停戦が成立したわけじゃない。
でも、少なくとも戦争を終わらせるための話し合いが始まった。
それは素直に喜んでいいことだと思う。
ただ、報告書に記された一人の名前を見て、手が止まった。
オスティナート。
西方諸侯連合の殿軍として、何度も王国軍の追撃を食い止めた剣士。
レオン(……やっぱり、あの少年は戦い続けていたんだな)
俺が見逃した相手だった。
あのとき、俺はオスティナートに勝った。
剣を弾き飛ばし、命を奪おうと思えば奪える状況だった。
けれど、最後まで迷っていた。
オスティナートほどの剣士を生かしておけば、また王国軍の前に立ちはだかるかもしれない。
実際、そうなった。
では、捕虜にすればよかったのか。
それも考えた。
だが、彼は剣を取り上げた程度で安心できる相手じゃない。
確実に拘束し、監視できる部隊へ引き渡すまで、俺が付き添わなければならなかっただろう。
戦闘が続くあの場所で、それが簡単にできるとは思えなかった。
抵抗されれば再び剣を交えることになり、結局は命を奪うしかなくなるかもしれない。
もちろん、だからといって見逃していい理由にはならない。
そんなとき、以前シオンから聞いた言葉を思い出したのだ。
それは、まだ西方戦線へ向かう前のことだった。
王都でシオンと話した際、戦争について尋ねたことがある。
レオン「……敵を倒しても、戦争って簡単には終わらないんですね」
シオンは少しだけ微笑んだ。
シオン「そうだな。戦場で勝つことと、戦争を終わらせることは、必ずしも同じじゃない」
レオン「どういうことですか?」
シオン「敵を追い詰めれば、相手は降伏するかもしれない。だが、逃げ場を失った者が、自暴自棄になって抵抗することもある」
静かな声だった。
シオン「その結果、戦いに関係のない人々まで犠牲になる。勝ったはずの側が、かえって大きな損害を受けることもあるんだ」
レオン「……それじゃ、逃がした方がいい場合もあるってことですか?」
シオン「そういう場合もある。ただし、見逃した敵が再び襲ってくる可能性も忘れてはいけない」
シオンは穏やかに続けた。
シオン「大切なのは、何を守るために戦っているのかを見失わないことだ。敵を倒すのも、退く道を残すのも、そのための手段に過ぎない」
レオン「……難しいですね」
シオン「簡単な答えがあるなら、私も苦労はしないさ」
そう言って、シオンはわずかに笑った。
シオン「だが、覚えておくといい。迷った末に選んだ道なら、その結果から目を背けないことだ」
あのときは、随分難しいことを言う人だと思った。
けれど、今なら少しわかる気がする。
オスティナートを討っていれば、王国軍の追撃はもっと容易になったかもしれない。
だが、それで西方諸侯連合が素直に降伏したとは限らない。
逆に、敵軍が混乱して各地で無秩序な抵抗を始める可能性もあった。
もちろん、オスティナートを生かしたからといって、そんな事態を防げる保証もなかった。
シオンの言葉は、正解を教えてくれるものではない。
ただ、敵を倒せばそれだけ多くの人が救われる、という単純な話ではないことは教えてくれた。
レオン(……だから、余計に迷ったんだよな)
彼を生かせば、味方が傷つくかもしれない。
でも、敗北を認め、もう戦う意思を失った相手を、その場で殺してしまっていいのか。
オスティナートには守りたい村がある。
その人たちの暮らしを守るために、命を懸けて戦っていた。
俺は、それを知ってしまった。
そして、最後まで考えた末に剣を引いた。
レオン(……結局、殺したくなかったんだよな)
それが一番正直な気持ちだった。
シオンにそうしろと言われたわけじゃない。
あの人の助言を思い出しながらも、最後に決めたのは俺自身だ。
だから、その結果まで誰かのせいにはできない。
俺は報告書を見つめた。
西方諸侯連合は秩序を保って後退し、占領地からの撤収も進んでいる。
追撃戦は難航したものの、敵軍が無秩序に逃げ散って各地で抵抗を続ける事態には至っていないらしい。
レオン(……戦争を終わらせるっていうのも、難しいんだな)
敵を倒すだけなら、剣を振るえばいい。
でも、戦争を終わらせるには、それだけじゃ足りない。
剣の腕が上達しても、こういうことには相変わらず答えが出ないらしい。
ただ、一つだけはっきりしていた。
俺はあのとき迷った。
敵を生かす危険も理解していた。
それでも、自分の意思で剣を引いた。
その選択を、今さらなかったことにはしたくない。
レオン(……あの少年も、無事に帰れるといいな)
今度こそ、戦場ではなく、どこか別の場所で会えたらいい。
俺は報告書を閉じ、窓の外へ目を向けた。
そのころ、オスティナートもまた、停戦協議開始の報せを聞いていた。
オスティナート「……ようやく、終わりが見えてきましたね」
故郷の村への援助は、今後も続けられることになった。
撤退する味方の兵士たちも、大勢救うことができた。
そして、焦土作戦によって焼き払われようとしていた王国領の村も守ることができた。
ふと、レオンの顔が浮かぶ。
オスティナート(……あの方は、なぜ私を殺さなかったのでしょう)
今も、答えはわからない。
自分が生きていたことで、王国軍の追撃が阻まれたのは事実だ。
だが、自分が生きていたからこそ、守れたものもある。
それがレオンの判断を正しいものにするのかどうか、オスティナートにもわからなかった。
ただ。
オスティナート「……ありがとうございます、レオン・アルセリア」
少女のように可憐な微笑みを浮かべる。
オスティナート「あなたが生かしてくださった命で、守れたものがありました」
その言葉がレオンに届くことはなかった。
そしてレオンもまた、オスティナートが王国領の村を焼き討ちから救ったことを知らない。
西方諸侯連合との停戦協議が始まったのは、双方にこれ以上戦争を続ける利益がなくなったからだった。
だが、オスティナートが殿軍として秩序ある撤退を支え、無用な破壊を防いだことも、その実現を後押ししていた。
レオンは、そんな未来を予想してオスティナートを見逃したわけではない。
シオンの助言を思い出し、敵を生かす危険と、敗北した相手の命を奪うことの重さを考えた。
それでも答えは出ず、迷い抜いた末に、自分の意思で剣を引いた。
その判断が正しかったのかどうか、今もわからない。
ただ、彼が選んだ道の先で、確かに救われた命があった。
そのことを知らないまま、レオンは自らの選択の重さと向き合い続けていた。
そして西方の戦争は、ようやく終結へ向かおうとしていた。




