第117章 援助物資
セレスティア王国、王都。
王宮の緊急軍議室に、一枚の報告書が叩きつけられた。
王国軍務卿「東方聖連邦軍、先鋒九万! さらに本国には後続軍が待機! 我が軍の東方第一防衛線は一角を失いました!」
誰も声を発しなかった。
九万。
その数字だけでも、王国軍が容易に対抗できる規模ではない。
しかも、それは侵攻軍全体の兵力ではないのだ。
西方では、諸侯軍が王国領内への侵攻を続けている。
北境では、ようやく魔王軍との和平が成立したばかりだった。
王国財務卿「……陛下。軍の再編は可能です。しかし、維持するための資金が……」
国王「足りぬか」
王国財務卿「……はい」
いつもは声高に予算を論じる財務卿が、今日は消え入りそうな声だった。
王国兵站総監「武具は修理すれば使えます。兵士も再配置できます。しかし、食料がなければ軍は動けません」
王国軍務卿「東方に援軍を送らねば、聖地を奪われるぞ!」
王国兵站総監「では、西方から食料を回しますか? そちらの兵士に飢えろとお命じになるのですか?」
王国軍務卿「……っ!」
軍議室が静まり返った。
戦場で勇敢に戦うだけでは、国は守れない。
兵士は食べなければ動けない。
馬には飼料が要る。
負傷者には薬が要る。
そして、戦争のためにすべてを取り上げられた民は、やがて生きていけなくなる。
王国財務卿「……追加徴税を行えば、民間の流通がさらに滞ります」
王国外交卿「避難民も増えております。東方の村々では、聖連邦軍の進撃を恐れて住民が故郷を離れ始めました」
国王「……民を守るための軍が、民を苦しめることになるか」
国王は地図を見つめた。
西。
東。
北境の戦争を終わらせたとき、これほど早く次の危機が訪れるとは、誰が予想しただろう。
そのとき、王宮侍従長が入室した。
王宮侍従長「陛下。魔境側の特使ラプソディア殿より、緊急の協議を願いたいとの申し出がございます」
国王が顔を上げた。
国王「……ラプソディアか」
和平交渉以来、彼女とは幾度も顔を合わせている。
真紅の衣装をまとった、少女の姿をした魔導人形。
現在も王都に滞在する魔境側の正式な外交特使だった。
王国外交卿「この時期に、緊急の協議……?」
国王は、わずかに考えた。
国王「よかろう。明日、会おう」
翌日。
王宮の外交会議室。
ラプソディアは、いつもと変わらぬ優雅な笑みを浮かべていた。
ラプソディア「ごきげんよう、陛下。皆様もお揃いですのね」
彼女は丁寧に一礼した。
ラプソディア「それにしても……皆様、ずいぶんお疲れのご様子ですわ」
王国財務卿「疲れもする。西方諸侯軍に加え、東方から九万もの軍勢が押し寄せているのだ」
ラプソディア「まあ。九万人ものお客様ですの? それは随分と賑やかですこと」
王国軍務卿「招いた覚えのない客だがな」
ラプソディア「ふふっ。しかも、手土産が槍や剣では困ってしまいますわね」
思いがけない冗談に、外交卿が小さく笑った。
軍務卿も、思わず口元を緩める。
かつて敵対した魔境の特使と、こうして冗談を交わす。
それ自体が、和平によって生まれた変化だった。
国王「……それで、ラプソディア。緊急の協議とは何だ?」
ラプソディア「ええ。実は、皆様へお渡ししたいものがございますの」
彼女は、分厚い一冊の目録を卓上へ置いた。
ラプソディア「魔王軍からの、正式な援助の申し出ですわ」
王国外交卿「……援助?」
ラプソディア「はい。軍資金と食料、それから軍需物資などをご用意しております」
王国財務卿「……ほう」
財務卿が目録を受け取った。
最初のページを見る。
次のページへ。
さらに、その次へ。
やがて、彼の指が止まった。
王国財務卿「…………」
国王「どうした?」
王国財務卿「……陛下」
財務卿は、かすれた声で告げた。
王国財務卿「……これは、数字の桁を間違えているのでは?」
目録には、膨大な量の物資が記されていた。
穀物。
保存食。
乾燥肉。
軍馬の飼料。
武器の補修資材。
矢、医薬品、燃料、被服。
そして、莫大な軍資金。
王国兵站総監「……お待ちください!」
兵站総監が書類を取り上げた。
何度も数量を確認する。
そして、その顔から血の気が引いた。
王国兵站総監「……陛下!」
国王「何だ?」
王国兵站総監「この物資と資金がすべて提供されるなら、王国軍全体を三か月間活動させられる規模です!」
沈黙。
次の瞬間。
王国軍務卿「……何だと!?」
王国財務卿「東方軍だけではない! 西方軍も、再編中の部隊も含めた王国軍全体だ!」
軍議室が騒然となった。
しかし、ラプソディアは涼しい顔で首を傾げた。
ラプソディア「あら。足りませんでしたかしら?」
王国財務卿「足りないどころの話ではない!」
ラプソディア「まあ。それなら、よかったですわ」
まるで、食卓に並べる料理の量を気にするような口調だった。
そのあまりの気軽さに、重臣たちは言葉を失った。
さらに兵站総監が目録の後半をめくる。
王国兵站総監「……まだあります!」
王国軍務卿「今度は何だ!」
王国兵站総監「避難民向けの食料、衣類、毛布、衛生用品……仮設住居の資材、農具まで!」
王国外交卿「……民間人への支援物資か?」
ラプソディア「ええ。もちろんですわ」
彼女は微笑んだ。
ラプソディア「兵士の皆様がお腹いっぱいでも、そのご家族が飢えていては悲しいでしょう?」
国王は、目録へ視線を落とした。
そこには確かに、軍事援助とは別に、民間の救済を目的とした物資が並んでいた。
国王「……ここまで用意しているというのか」
ラプソディア「はい。魔境からの援助として、ご活用いただければ幸いですわ」
しかし、軍務卿の表情は険しかった。
王国軍務卿「……待て」
彼は目録を指さした。
王国軍務卿「これほどの援助を、魔王軍は何のために行う?」
ラプソディア「何のため、と申されますと?」
王国軍務卿「見返りだ! 領土か? 鉱山の採掘権か? あるいは軍事的な便宜か?」
王国外交卿「貿易上の特権という可能性もありますな」
ラプソディアは、不思議そうに瞬きした。
そして、小さく笑う。
ラプソディア「まあ。皆様、そんなに難しくお考えにならなくてもよろしいのに」
王国財務卿「国家間の援助とは、そういうものなのだ!」
ラプソディア「ふふっ。では、簡単に申し上げますわね」
彼女は優雅に微笑んだ。
ラプソディア「今回の援助に、見返りは一切ございませんわ。」
会議室が静まり返った。
王国軍務卿「……返済も?」
ラプソディア「不要ですわ」
王国外交卿「領土や権益も?」
ラプソディア「求めませんわ」
王国財務卿「……将来的な優遇措置も?」
ラプソディア「そのようなお約束も必要ございません」
財務卿は額を押さえた。
王国財務卿「……何ということだ」
それは、ありがたいどころではない。
今の王国にとって、まさしく救いの手だった。
だが、あまりにも規模が大きい。
大きすぎて、容易には信じられなかった。
国王「……ラプソディアよ」
ラプソディア「はい、陛下」
国王「魔王軍は、なぜそこまで我が国を助けようとする?」
ラプソディアは、少しだけ微笑みを和らげた。
ラプソディア「……魔王陛下も、今回の事態には大変心を痛めておられますわ」
その言葉に、国王が目を見開いた。
国王「……魔王が、か?」
ラプソディア「ええ。ようやく戦争が終わり、王国と魔境の双方が平和への道を歩み始めたというのに、再び多くの方々が戦火に苦しんでいらっしゃるのですもの」
彼女の口調から、いつもの悪戯っぽさが消えた。
ラプソディア「魔王陛下は、兵士であろうと民間人であろうと、救える命は救いたいとお考えですわ」
重臣たちは黙って耳を傾けていた。
ラプソディア「ですから、この援助は恩を売るためのものではございません。王国の皆様が苦しんでいらっしゃるから、魔王軍として手を差し伸べる。それだけのことですわ」
国王は、しばらく沈黙した。
かつて敵対した魔王軍。
その軍勢を率いる魔王自身が、王国の人々の苦境に心を痛めている。
そして、その意思が莫大な物資という形で示されている。
国王「……魔王陛下に、我が国の感謝を伝えてほしい」
ラプソディアは優雅に頭を下げた。
ラプソディア「ええ。必ずお伝えいたしますわ」
そのとき、外交卿が静かに口を開いた。
王国外交卿「……陛下。もう一つ、重要な意味がございます」
国王「何だ?」
王国外交卿「今回、魔王軍は我が国に三か月分の軍資金と物資を提供すると申し出ています」
彼は目録へ視線を落とした。
王国外交卿「もし魔王軍が近い将来、再び我が国へ侵攻するつもりなら、これは自ら敵の軍事力を強化する行為となります」
王国軍務卿「……確かに」
軍務卿も腕を組んだ。
王国軍務卿「我が国が東西の戦争で疲弊している今は、魔王軍にとって軍事的には好機だ。だが、彼らは攻めるどころか、我が軍を支えようとしている」
王国外交卿「はい。これは単なる友好の言葉ではありません」
外交卿は、はっきりと告げた。
王国外交卿「魔王軍が王国との和平を守り、再び軍事行動を起こす意思を持たないことを示す、強力な証と言えましょう。」
国王は深く頷いた。
国王「……言葉ではなく、行動で和平を示すというわけか」
ラプソディア「ふふっ。ええ、そのように受け取っていただければ幸いですわ」
彼女は静かに続けた。
ラプソディア「魔王軍は、王国が他国との戦争で苦しんでいる隙を突いて攻め込むようなことはいたしませんわ」
王国軍務卿「……なるほどな」
軍務卿は、ゆっくりと息を吐いた。
王国軍務卿「もちろん、援助だけで将来のすべてが保証されるわけではない。だが、これほどの支援を敵対するつもりの相手に渡すとは考えにくい」
国王は、改めてラプソディアへ視線を向けた。
国王「……よく分かった」
そして、重臣たちへ告げる。
国王「我が国は、魔王軍からの援助を受け入れる」
王国財務卿「陛下!」
国王「ただし、軍需物資の検査と搬入の確認は徹底せよ。王国の軍を預かる以上、当然の責務だ」
王国兵站総監「はっ!」
国王「それから、民間人への支援を後回しにしてはならぬ」
王国外交卿「承知いたしました」
ラプソディアは満足そうに微笑んだ。
ラプソディア「まあ。皆様のお役に立てるようで、何よりですわ」
数日後。
王都近郊の物資集積地。
王国の兵站担当者たちは、眼前の光景に呆然としていた。
大量の穀物。
積み上げられた保存食。
軍需資材を収めた木箱。
医薬品、毛布、衣類。
そして、民間人の生活再建に用いるための資材。
魔王軍から提供される支援物資が、王国側へ順次引き渡されていた。
王国兵站総監「……これほどとは」
彼は帳簿を開き、数量を確認する。
王国補給将校「総監! 確認済みの物資だけでも、各戦線の当面の補給を大きく改善できます!」
王国兵站総監「問題のない物資から順次受け入れろ! 東方軍への補給を急ぐ。ただし、西方戦線への輸送も止めるな!」
王国補給将校「はっ!」
軍需物資だけではない。
避難民の救護所にも、食料や毛布が届けられ始めていた。
避難民の女性「……これ、本当に魔王軍から届いたものなの?」
救護担当者「ええ。王国と和平を結んだ魔境からの支援です」
避難民の女性「……魔王の国が、私たちを助けてくれるなんて」
女性は、受け取った毛布を胸に抱いた。
少し前まで、敵として恐れていた存在。
その相手が、今は自分たちを救おうとしている。
戦争で家族を失った者たちの複雑な感情が、すぐに消えるわけではない。
それでも、届けられた物資が多くの命を支えていることは、確かな事実だった。
その夜。
国王は執務室で、援助物資の受け入れ状況を記した報告書に目を通していた。
向かいには、外交卿が立っている。
国王「……魔王軍の援助は、想像以上の規模だな」
王国外交卿「はい。軍事的にも外交的にも、極めて大きな意味を持ちます」
国王「聖連邦は、我が国が魔王と和平を結んだことを非難して攻めてきた」
国王は報告書を閉じた。
国王「だが、その魔王軍が、今は我が国を支えようとしている」
王国外交卿「……何とも皮肉な話ですな」
国王「……ああ」
国王は窓の外を見つめた。
国王「我々は魔王軍と血を流して戦った。しかし、ようやく和平を結んだのだ」
そして、静かに続けた。
国王「その和平を守ろうとしているのが我々だけではないと分かったことが、何より大きい」
外交卿は深く頷いた。
国王「……ならば、我々もその信頼に応えねばならぬ」
国王は再び地図へ視線を向ける。
国王「東西両戦線の防衛を立て直せ。民を救い、この国を守るのだ」
王国外交卿「はっ!」
一方。
王都に滞在するラプソディアは、特使としての執務室で書類を整理していた。
窓の外には、静かな王都の夜景が広がっている。
ラプソディア「ふふっ。皆様、ずいぶん驚いていらっしゃいましたわね」
彼女は楽しそうに微笑んだ。
ラプソディア「でも、少しは安心していただけたかしら?」
机の上には、魔王軍からの援助物資に関する引き渡し記録が並んでいた。
軍資金。
食料。
軍需物資。
民間人への生活支援物資。
それらはすべて、見返りを求めない援助だった。
ラプソディア「……せっかく、戦争が終わったのですもの」
彼女は、小さく呟いた。
ラプソディア「魔王陛下も、これ以上の犠牲は望んでおられませんわ」
ラプソディアは書類を閉じ、別の封筒へ目を向けた。
それは王国との援助交渉とは関係のない、古代施設の調査に関する資料だった。
彼女は封筒に手を伸ばしかけ、ふと動きを止める。
ラプソディア「……こちらも、そろそろ進めたいところですわね」
その声音は、先ほどまでと少しも変わらなかった。
魔境の特使として、和平を守るための援助を届ける。
そして、別の目的のために、王国内に存在する古代施設の調査を続ける。
彼女にとって、その二つは矛盾することではなかった。
ラプソディアは、机の上の資料を整えた。
ラプソディア「ふふっ。何事も、順序が大切ですもの」
再び窓の外へ視線を向ける。
真紅の瞳に、王都の灯火が映った。
かつて敵として戦った魔王軍が、今は王国を救うために手を差し伸べている。
その事実は、誰にも否定できない。
しかし、真紅の魔導人形が胸の内に抱く、もう一つの目的。
それを知る者は、王国にはまだいなかった。
そして、王国の命運を左右する戦争は、今も東と西で続いている。




