第106章 新たな命令
北境、王国軍合同陣地。
魔王軍との停戦から数日が経過していた。
かつて両軍の兵士が激しく争った大地では、今や負傷者を運ぶ馬車と補給隊が行き交っている。
しかし、戦争の傷跡は深かった。
焼け落ちた陣地。
無数の墓標。
そして、帰らぬ戦友の名を探す兵士たち。
アルセリア辺境伯は司令部で、各部隊から届いた報告書に目を通していた。
王国軍参謀「閣下。生存者の再集計が進んでおります。ただ、行方不明者の確認には、なお時間が必要です」
アルセリア辺境伯「……急がせるな。正確を期せ」
王国軍参謀「はっ!」
アルセリア辺境伯「……戦死者の遺族にも、できる限り早く知らせよ」
参謀が深く頭を下げる。
長い包囲戦と解囲戦によって、王国軍は大きな損害を受けていた。
魔王軍もまた、多数の死傷者を出していることは間違いない。
だが、敵軍の正確な損害は分からなかった。
アルセリア辺境伯は、窓の外へ視線を向けた。
負傷兵を乗せた馬車が、ゆっくりと陣地を離れていく。
その先にあるのは、故郷への道だった。
アルセリア辺境伯「……生き残った者たちは、必ず帰してやらねばならぬ」
低い声で呟く。
しかし、その表情は厳しいままだった。
西方諸国連合による侵攻が続いている以上、王国軍には次の戦いが待っていた。
学院救援部隊の宿営地。
セレフィア、ミレイユ、セルジュらは、生徒たちの帰還準備を進めていた。
医療用の天幕では、ミレイユが負傷者の診察を行っている。
ミレイユ「はーい。怪我人はちゃんと申告してねぇ。隠して帰ろうとしたら、診察時間を倍にするから」
クラリッサ「えええっ!?」
ミレイユ「特にクラリッサちゃん。あの鎧の中で無茶してたでしょう?」
クラリッサ「……ちょっとだけだよぉ!」
ミレイユ「その『ちょっと』が信用できないのよねぇ」
マリアベル「でも先生! 《アーマードクラリッサ》の実戦データは本当に貴重なんです!」
リリアーナ「……同意します。修理した右脚の負荷も解析する必要があります」
ミレイユ「研究は帰ってから。まず身体を診せなさい」
リリアーナ「……診察中に記録を整理することは?」
ミレイユ「駄目」
リリアーナ「……残念です」
リリアーナは無表情だった。
しかし、その瞳には研究への情熱が宿っている。
セレフィア「……皆さん。今回は十分頑張りました。少し休むことも大切ですよ」
穏やかな声に、三人は渋々頷いた。
その少し離れた場所では、ソフィアがフィオナの右腕を診ていた。
ソフィア「……傷の状態は、昨日よりよくなっていますね」
フィオナ「……ああ。痛みも少し引いた」
ソフィア「でも、まだ無理はしないでください。治りかけが一番危ないんです」
フィオナ「……分かっている」
ミレイユ「本当に分かってる人は、そんな顔で剣を握りたがらないのよねぇ」
フィオナ「…………」
フィオナは思わず視線を逸らした。
ソフィア「……ふふ。治療が終わるまでは、私たちの言うことを聞いてくださいね」
フィオナ「……分かった。世話になる」
フィオナは北境の騎士である。
学院の生徒たちとは違い、王都へ帰還する予定はなかった。
しかし、しばらくは前線勤務を控え、治療を優先することになっている。
その日の昼。
レオンとルミナが学院救援部隊の区画を訪れると、仲間たちが集まっていた。
アーヴェル「レオン。少しは休めたか?」
レオン「……まあ、それなりにな」
セシリア「まだ疲れが抜けていない顔だな」
レオン「……みんなだって似たようなもんだろ」
ヴィクトリア「当然ですわ。ですが、学院へ戻ったら、皆様でゆっくり休みたいものですわね」
カグラ「……おいしいもの、食べたい」
クラリッサ「それいいねぇ! みんなでご馳走食べよぉ!」
ソフィア「……私も賛成です。皆さん、ずっと頑張っていらっしゃいましたから」
ルミナ「レオン様。王都へ戻られた際には、十分な休養を取られることをおすすめいたします」
レオン「……ルミナもな」
ルミナ「……はい」
久しぶりの穏やかな時間だった。
レオンは、こうして仲間たちと何気ない話をすることが、どれほどありがたいことなのかを改めて感じていた。
しかし、その平穏は長続きしなかった。
マリアベル「レオン! ちょうどよかったわ!」
レオン「……嫌な予感しかしない」
マリアベルとリリアーナが、大量の紙束を抱えて現れた。
リリアーナ「……竜族の求愛行動について、調査項目を整理しました」
レオン「……まだやってたのか!?」
クラリッサ「恋愛研究会、今日も活動開始だよぉ!」
レオン「……勝手に活動するな!」
リリアーナ「……まず質問です。ヴェルセリア将軍から届いた手紙は、現在も保管されていますか?」
レオン「……保管してるけど!」
マリアベル「やっぱり大切にしてるのね!」
レオン「……捨てたら外交問題になりそうだからだよ!」
リリアーナ「……なるほど。では、手紙の保管理由は外交上の配慮、と」
真顔で手帳へ書き込む。
レオン「……そんなことまで記録するな!」
マリアベル「ねえ! 女将軍って、手紙以外にも何かくれたの?」
レオン「……何ももらってない!」
クラリッサ「じゃあ今度はプレゼントだねぇ!」
レオン「……どうしてそうなる!?」
カグラ「……三人とも、元気」
アーヴェル「……少しはレオンを休ませてやれ」
その言葉に、レオンは心から頷いた。
一方、魔王軍中央本陣。
ヴァルガスもまた、停戦後の軍務に追われていた。
魔王軍は王国との合意に従い、一部部隊の撤収と再配置を進めている。
ただし、正式な和平条約が結ばれたわけではない。
国境の守備と停戦監督は継続されていた。
魔族副官「将軍。負傷者の後送は予定どおり進んでおります」
ヴァルガス「よし。無理に行軍を急がせるな。歩けねえ者は必ず運んでやれ」
魔族副官「承知しました」
ヴァルガス「戦死者の遺品も、できる限り家族に届けるんだ。何も残らねえなんてことにはしたくねえ」
魔族副官「……はい」
ヴァルガスは新たな報告書へ目を通した。
そのとき、ふと魔王の姿が脳裏に浮かぶ。
銀白色の髪。
青銀色の仮面。
かつて黒髪だった頃から知る、心優しい君主。
戦争が始まって以来、魔王が少しずつやつれてきていることを、ヴァルガスは見抜いていた。
しかし、そのことを誰にも話してはいなかった。
今は将兵を故郷へ帰し、和平への道を確かなものにする。
それが自分にできる最善の務めだった。
魔王軍、将軍用天幕。
ヴェルセリア・ドラグレインは、部隊の再編計画を確認していた。
片方の角は先端が斬られたままだが、軍務に支障はない。
ただし、一つだけ大きな問題があった。
机の端に置かれた、レオンへ送った手紙の控えである。
ヴェルセリア(……私は、いったい何を書いてしまったのだ……)
改めて読み返す。
――なお、この申し出に私的な意図は一切ない。
ヴェルセリア(……なぜ、わざわざそのような一文を加えたのだ、私は!)
頬が赤くなる。
ヴェルセリア(……落ち着け。私は魔王軍の将軍だ。恋に心を乱されるなど、あってはならぬ!)
そのとき、天幕の入口から声が響いた。
ヴァルガス「……おう。仕事は進んでるか?」
ヴェルセリア「当然だ。部隊の再編は予定どおり進めている」
ヴァルガス「そうか。なら安心だ」
ヴァルガスは机の上の手紙に目を留めた。
ヴァルガス「……で、その手紙は?」
ヴェルセリア「…………!」
ヴァルガス「……レオン宛てか?」
ヴェルセリア「ち、違う! 軍務上の記録だ!」
ヴァルガス「……そうか、そうか」
ヴェルセリア「……その笑い方をやめろ!」
ヴァルガス「何も言ってねえだろ」
ヴェルセリア「……っ!」
ヴァルガスは肩をすくめた。
ヴァルガス「まあ、恋に不慣れなのは仕方ねえさ。だが、軍務をおろそかにしなけりゃ、誰も文句は言わん」
ヴェルセリア「……私は恋などしておらん!」
ヴァルガス「……分かった、分かった」
ヴェルセリア「……本当に分かっているのか!?」
ヴァルガスは愉快そうに笑いながら、天幕を後にした。
残されたヴェルセリアは、再び手紙へ目を落とす。
ヴェルセリア(……レオン様は、もう王都へ帰られるのだろうか)
胸がわずかに痛んだ。
ヴェルセリア(……私は、何を考えているのだ……)
三百年近く剣と戦場に生きてきた女将軍。
その初恋は、戦争が終わっても収まる気配がなかった。
セレスティア王国王宮。
国王は軍務高官、外交高官、近衛騎士団の代表者たちを招集していた。
西方諸国連合の侵攻は、依然として続いている。
王国軍務高官「陛下。西方の守備軍には、早急な増援が必要です」
国王「北境から転用できる戦力は?」
王国軍務高官「再編と負傷者の後送が進んでおりますが、即座に大兵力を動かすことは困難です」
国王「……そうか」
国王はしばらく考え込んだ。
国王「北境の停戦を維持する部隊は残さねばならぬ。そのうえで、移動可能な部隊を選抜せよ」
王国軍務高官「はっ!」
国王「近衛騎士団についても、王都防衛に支障のない範囲で対応を検討する」
近衛騎士団代表「承知いたしました」
近衛騎士団には、レオンの二人の兄も所属していた。
彼らもまた、王都でそれぞれの任務を果たしている。
しかし、誰を西方へ派遣するかについては、まだ結論が出ていなかった。
王宮の外交会議室。
ラプソディアは、王国側の代表者と協議を続けていた。
ラプソディア「魔王陛下は、双方の負傷者が故郷へ帰れることを何より願っておられます」
王国外交高官「その点については、我々も同じ考えです」
ラプソディア「ありがとうございます」
王国外交高官「ただし、古代遺跡の共同調査には、王国の安全を確保する条件が必要です」
ラプソディア「承知しております。互いに調査内容を共有する形で進めてはいかがでしょう」
王国外交高官「……検討いたしましょう」
王国側は、古代遺跡の共同調査へ協力する方向で協議を進めていた。
しかし、魔力の再配分については、依然として慎重な姿勢を崩していない。
正式な和平条約も、まだ結ばれていなかった。
それでも、両国が同じ席で未来について話し合っている。
それは確かな変化だった。
北境、王国軍合同陣地。
アルセリア辺境伯のもとへ、王都から正式な命令書が届いた。
王国軍伝令「辺境伯閣下! 王都より緊急命令でございます!」
アルセリア辺境伯「……読み上げよ」
王国軍伝令「北境における停戦の維持を継続しつつ、再編可能な戦力について、西方戦線への転進準備を命ずるとのことです!」
アルセリア辺境伯「……予想どおりだな」
命令は、北境の全軍を動かすものではなかった。
停戦監督、国境防備、負傷者の保護を継続したうえで、移動可能な戦力を選抜する内容だった。
学院救援部隊については、基本的に王都への帰還準備を進める方針が伝えられる。
しかし、レオンには別途指示があった。
アルセリア辺境伯「……レオン」
レオン「はい、父上」
アルセリア辺境伯「王都から、お前に対する出頭命令が届いている」
レオン「……俺に?」
アルセリア辺境伯「そうだ。王都へ帰還した後、指定された軍務担当者へ出頭せよとのことだ」
レオン「……何のために?」
アルセリア辺境伯「詳細は記されていない。だが、西方の戦況と無関係ではあるまい」
レオン「…………」
レオンはしばらく考え込んだ。
レオン(……ようやく帰れると思ったのに、今度は西方か……?)
ただし、この段階で西方への派遣が決まったわけではない。
王都で説明を受けなければ、任務の詳細は分からなかった。
学院救援部隊の宿営地。
レオンは仲間たちへ、王都からの出頭命令について伝えた。
アーヴェル「……王都から直接、か」
レオン「……ああ。帰還後に出頭しろってさ」
セシリア「銀髪剣聖としての力を必要としている可能性はあるな」
エリシア「……また、危険な場所へ行かれるのでしょうか」
レオン「……まだ分からないよ」
ソフィア「……今度こそ、少しはお休みになれると思っていたのですが……」
ヴィクトリア「まったく、王国はレオン様を働かせすぎですわ!」
カグラ「……休み、大事」
クラリッサ「じゃあ、あたしたちも一緒に行けばいいんじゃないかなぁ!」
マリアベル「そうよ! 西方戦線で《アーマードクラリッサ》の改良型を試せるかもしれないわ!」
リリアーナ「……改良型の設計案はあります。非常に興味深い実戦環境ですね」
レオン「……待て! まだ西方に行くとも決まってないから!」
セレフィア「……皆さん。まずは学院へ戻ってから考えましょうね」
ミレイユ「そうそう。怪我人と疲労困憊の生徒を、そのまま次の戦場へ送り出すわけにはいかないからねぇ」
クラリッサ「えええっ!」
マリアベル「でも、研究が!」
ミレイユ「研究より先に休息」
リリアーナ「……休息後の研究計画を立てます」
レオン「……結局研究するのかよ!」
再び笑い声が響いた。
だが、レオンの胸中には、新たな不安が生まれていた。
夜。
魔王軍の天幕では、ヴェルセリアが撤収計画の確認を終えようとしていた。
部下たちからの報告は順調だった。
しかし、ふとした瞬間、レオンの顔を思い出してしまう。
ヴェルセリア(……レオン様は、もう王都へ帰られるのだろうか)
考えてから、慌てて首を振る。
ヴェルセリア(……違う! 私は敵国の剣士の動向を、軍務上の理由で気にしているだけだ!)
だが、もう一度会いたいという気持ちは消えなかった。
一方、レオンは北境の夜空を見上げていた。
遠くでは、帰還準備を進める兵士たちの灯りが揺れている。
レオン(……やっと戦争が終わったと思ったのにな)
西方では、まだ多くの人々が戦っている。
王都へ戻れば、自分にも新たな任務が待っているかもしれない。
そのとき、ルミナが近づいてきた。
ルミナ「……レオン様」
レオン「……ルミナ?」
ルミナ「次にどのような任務があろうとも、私はレオン様のお力になりたいと思っております」
レオン「……ありがとう」
少し離れた場所では、フィオナが二人を見守っていた。
北境を守る騎士として、彼女にはまだ果たすべき務めがある。
右腕の傷が癒えるまで、しばらくは剣を振るうこともできない。
それでも、二人が無事に王都へ帰還できることを願っていた。
そして王都では、西方諸国連合の侵攻に対処するため、新たな部隊編成が進められていた。
北境戦役は停戦によって区切りを迎えた。
だが、王国の戦争は終わっていない。
銀髪剣聖レオン・アルセリアの運命もまた、新たな局面へ進もうとしていた。




