第102章 最後の防衛線
北境、魔王軍中央本陣。
夜明け前の作戦室には、重苦しい空気が漂っていた。
ヴァルガスは戦況図を見下ろし、無言で腕を組んでいる。
魔王軍は、ここまで幾度もの激戦を耐え抜いてきた。
王国解囲軍は外側から攻勢を強め、包囲下のアルセリア辺境伯軍も依然として戦意を失っていない。
しかも、あの《血塗られた鋼鉄の死神》と呼ばれる新型魔導鎧まで現れた。
包囲は維持している。
だが、それは決して盤石ではなかった。
魔族参謀「将軍。ここ数日、王国解囲軍の西方陣地で、部隊の再編が確認されました」
ヴァルガス「……そうか」
魔族参謀「包囲の内側でも、王国軍の動きが活発になっております」
ヴァルガス「……来るな」
その短い言葉に、参謀が顔を上げた。
ヴァルガス「アルセリア辺境伯は、もう待たねえだろう。外側の王国軍も、これ以上の長期戦には耐えられねえ」
魔族参謀「……では」
ヴァルガス「ああ。次が最後の大攻勢になるはずだ」
ヴァルガスは戦況図の南方包囲線を指さした。
ヴァルガス「外側から解囲軍が押し込み、内側からアルセリア辺境伯が突破を図る。連中が狙うのは、ここだ」
魔族参謀「双方が合流すれば、包囲網は……」
ヴァルガス「……崩れる」
その言葉に迷いはなかった。
ヴァルガス「この攻勢を止められるかどうかで、この北境戦役の勝敗が決まる」
そのとき、作戦室の扉が開いた。
ヴェルセリア「話は聞かせてもらった」
現れたのは、竜族の女将軍ヴェルセリア・ドラグレインだった。
人間に近い美しい姿。
頭部から伸びる二本の角。
そして、長い戦歴を持つ武人だけが備える威厳。
ヴァルガス「……ヴェルセリアか。ちょうどよかった」
ヴェルセリア「最後の大攻勢が来ると見ているのだな?」
ヴァルガス「ああ。アルセリア辺境伯は、俺たちが思ってる以上にしぶとい男だ。それに、息子のレオンもいる」
ヴェルセリア「銀髪の剣聖か」
ヴァルガス「……ああ。並の将じゃ止められねえ」
ヴェルセリアは静かに頷いた。
ヴェルセリア「ならば、私が出よう」
ヴァルガス「……頼めるか?」
ヴェルセリア「無論だ」
彼女は胸に手を当て、堂々と言い放った。
ヴェルセリア「陛下の御為、必ずや敵の突破を阻止してみせよう」
ヴァルガス「……心強いぜ」
ヴェルセリア「我らが守るべきものは、単なる戦線ではない。魔境の民の未来だ」
その言葉に、ヴァルガスはわずかに笑みを浮かべた。
ヴァルガス「……まったくだ。もっとも、王国の連中も同じようなことを考えてるだろうがな」
ヴェルセリア「それでこそ戦うに値する相手ですわ」
ヴァルガス「……お前らしいな」
ヴェルセリア「だが、敬意と手加減は別だ。戦場で相まみえれば、全力で応じます」
ヴァルガス「……ああ。ただし、あまり無茶はするなよ」
ヴェルセリア「ええ、生きて陛下に勝利の報告をする予定ですからね」
ヴァルガスは深く頷いた。
ヴァルガス「南方包囲線の要を任せる。王国軍の主力を通すな」
ヴェルセリア「お任せを。陛下の願いが実を結ぶその時まで、このヴェルセリア・ドラグレインが防ぎ抜きます!」
竜族の女将軍は力強く踵を返した。
同じ頃、セレスティア王国王宮。
真紅の衣装をまとったラプソディアが、国王との正式会談に臨んでいた。
ラプソディア「セレスティア王国国王陛下。お目にかかれて光栄でございます」
国王「……そなたが魔王の特使ラプソディアか」
ラプソディア「はい。和平交渉の全権を託されております」
王国軍務高官「和平だと!? 北境へ侵攻しておきながら、何を今さら!」
ラプソディア「ごもっともなご意見でございます」
王国軍務高官「……なっ?」
あまりにも素直な返答に、高官は拍子抜けした。
ラプソディア「ですが、魔王陛下は王国の滅亡を望んでおられません」
国王「……ならば、何を望む?」
ラプソディア「戦争以前からお願いしてきた、二つの交渉でございます」
彼女は書簡を差し出した。
ラプソディア「古代遺跡の共同調査。そして、世界の魔力配分についての協議です」
王国財務高官「……戦争賠償は?」
ラプソディア「求めません」
王国軍務高官「領土の割譲は?」
ラプソディア「不要でございます」
王国外交高官「……王国の臣従も求めないのですか?」
ラプソディア「もちろんでございます」
会議室がざわめいた。
王国軍務高官「……では、これほどの戦争を起こした意味は何なのだ!」
ラプソディア「交渉の必要性を、ご理解いただくためでございます」
王国軍務高官「……何だと!?」
ラプソディア「ただし、戦争によって失われた命が戻らないことも承知しております」
穏やかな声だった。
だが、その言葉には容易に反論できない重みがあった。
国王「……魔王軍が本当に撤退する保証はあるのか?」
ラプソディア「共同調査と協議の開始について正式な合意をいただければ、停戦と撤兵の具体的な取り決めに進む用意がございます」
国王「……即時撤退ではないのだな」
ラプソディア「はい。双方の将兵の安全を確保する必要がございますので」
国王は黙って彼女を見つめた。
国王「……では、もう一つ聞こう。西方諸国が侵攻を開始した直後に、そなたが現れた。偶然か?」
謁見の間が静まり返った。
ラプソディアは少しも表情を変えない。
ラプソディア「西方諸国の外交方針について、私が代弁することはできません」
王国軍務高官「質問に答えておらん!」
ラプソディア「ですが、私が申し上げられることは一つございます」
国王「……何だ?」
ラプソディア「今この瞬間にも、北境では多くの将兵が命を懸けて戦っているということでございます」
国王の表情がわずかに変わった。
ラプソディア「その戦いを、いつまで続けるべきなのでしょうか」
静かな問いだった。
しかし、誰もすぐには答えられなかった。
会談は古代遺跡の共同調査へ話題を移した。
国王「……共同調査には、どのような人員が必要なのだ?」
ラプソディア「双方の専門家でございます。特に、古代の魔導機構について知識を持つ方々が望ましいでしょう」
国王「……それだけか?」
ラプソディア「可能であれば、特異な魔力制御能力や、古代設備への高い適合性を持つ方にもご協力いただきたいと考えております」
国王「……ずいぶん特殊な条件だな」
ラプソディア「古代遺跡の機構は、現在の魔術体系とは異なる部分がございますので」
説明自体は不自然ではなかった。
だが、彼女には隠された目的がある。
シオン。
レオン。
ルミナ。
魔王。
そして、ラプソディア自身。
その五人を一つの古代施設へ集めること。
それが《原初の魔導核》を解放するために必要な条件だった。
魔王は魔境の救済を望んでいる。
ヴァルガスも、その願いのために戦っている。
しかしラプソディアは、魔王の目的と自分自身の目的を巧妙に重ね合わせていた。
国王「……人選は我が国が判断する」
ラプソディア「もちろんでございます」
彼女は優雅に一礼した。
そして、それ以上は踏み込まなかった。
まだ、焦る必要はない。
北境第二防衛線。
アルセリア辺境伯軍は、ついに南方包囲線への突破作戦を開始した。
アルセリア辺境伯「全軍、進撃準備」
王国軍騎士「はっ!」
アルセリア辺境伯「解囲軍との合流を最優先とする。無用な追撃はするな」
レオン「はい、父上!」
フィオナ「私が騎士隊をまとめる。レオン、お前も突出しすぎるなよ」
レオン「ああ!」
ルミナ「レオン様。前方に多数の魔力反応を確認しています」
レオン「……敵も待ち構えてるってわけか」
角笛が鳴り響く。
俺は剣を抜いた。
周囲には、連戦で疲弊した兵士たちがいた。
それでも、誰一人として戦うことを諦めてはいない。
レオン(……必ず突破する!)
俺たちは魔王軍の防御線へ突撃した。
魔族指揮官「盾兵、前へ! 敵を通すな!」
魔王軍の重装歩兵が盾を並べる。
その後方には槍兵と魔術師隊。
幾重もの防御線が、王国軍の前進を阻んだ。
レオン「……そこだ!」
俺は敵の槍を払い、盾と盾のわずかな隙間へ踏み込んだ。
刃に込めた魔力を精密に制御する。
一閃。
敵の防御が崩れた。
魔族兵士「うわあっ!」
フィオナ「今だ! 前進!」
王国軍騎士「おおおっ!」
フィオナが騎士隊を率いて突破口を広げる。
右腕の傷はまだ癒えていないが、その指揮は的確だった。
敵の魔術が飛来する。
ルミナ「レオン様、防御します!」
半透明の障壁が展開され、魔術を受け止めた。
レオン「助かった!」
だが、敵の抵抗は激しい。
一つの防御線を崩しても、後方から新たな部隊が投入される。
レオン(……くそっ! どれだけいるんだよ!)
王国軍の兵士たちも疲弊していた。
ここで足止めされれば、突破作戦そのものが失敗しかねない。
俺は再び剣を構えた。
レオン「……行くぞ!」
そのときだった。
突然、前方の魔族兵士たちが道を開いた。
レオン「……?」
現れたのは、一人の女性だった。
美しい容貌。
頭部に伸びる二本の角。
気品を感じさせる立ち姿。
そして、戦場の空気を一変させるほどの威圧感。
彼女は静かに剣を抜いた。
ヴェルセリア「ふっ……見事だ。ここまで我が軍の防御を破ってくるとはな」
レオン「……誰だ、あんた?」
ヴェルセリア「私はヴェルセリア・ドラグレイン。魔王軍の将だ」
レオン「……魔王軍の将軍か」
ヴェルセリア「そうだ。ここから先へは通さん」
その声音は凛としていた。
敵を威圧しながらも、決して侮辱するような響きはない。
ヴェルセリア「お前が銀髪の剣聖だな?」
レオン「……レオン・アルセリアだ」
ヴェルセリア「アルセリア辺境伯の息子か。なるほど、よい目をしている」
レオン「……褒められても通してくれないんだろ?」
ヴェルセリア「当然だ」
彼女は堂々と剣を構えた。
ヴェルセリア「私は陛下の御為、この防御線を守り抜くと誓った」
レオン「……だったら、力ずくで通る!」
ヴェルセリア「いいだろう。剣で道を切り開くというのなら、私も剣で応えよう」
レオンは地面を蹴った。
鋭い斬撃が交錯する。
金属音が響き渡った。
レオン「……っ!」
受け止められた。
それも、ほとんど動揺した様子がない。
ヴェルセリア「ほう……見事な剣筋だ!」
レオン「……余裕だな!」
俺は続けて剣を振るう。
だが、彼女は正確にその動きを読み、最小限の動作で受け流した。
レオン(……強い!)
これまで戦ってきた魔族の指揮官たちとは、明らかに格が違う。
圧倒的な身体能力。
長い年月をかけて磨かれた剣技。
そして何より、膨大な戦闘経験。
ヴェルセリア「ふっ、面白い! これほどの使い手が人間族にいたとはな!」
レオン「こっちは楽しんでる余裕なんてないんだが!」
ヴェルセリア「ならば、全力で来い! 私も手加減はせん!」
次の瞬間、彼女の剣が凄まじい速度で迫った。
レオン「……っ!」
俺は辛うじて受け流す。
足元の土が抉れた。
レオン(……冗談だろ! 何だこの力!?)
ヴェルセリア「よく受けた!」
彼女は楽しそうに笑った。
ヴェルセリア「さあ、もっと見せてみろ! お前の剣がどこまで届くのか、確かめてやろう!」
周囲の兵士たちは、二人から距離を取った。
だが、ヴェルセリアは戦闘そのものに夢中になっているわけではない。
彼女には、突破を阻止するという任務がある。
ヴェルセリア「各隊、持ち場を守れ! この剣士は私が引き受ける!」
魔族兵士「はっ!」
その命令によって、魔王軍は防御態勢を立て直していく。
レオン(……まずい! この人に足止めされてる間に、味方が押し返される!)
何とかして、彼女を突破しなければならなかった。
魔王軍中央本陣。
魔族参謀「将軍! アルセリア辺境伯軍が南方包囲線へ突入しました!」
ヴァルガス「……来たか」
魔族参謀「レオン・アルセリアが先鋒を務めております!」
ヴァルガス「……厄介だな」
魔族参謀「ヴェルセリア将軍が迎撃に入りました!」
ヴァルガスは静かに頷いた。
ヴァルガス「……あいつなら、そう簡単には抜かれねえ」
魔族参謀「解囲軍も外側から攻勢を強めています!」
ヴァルガス「分かってる。予備隊を中央へ回せ。ただし、外側の守りを薄くしすぎるな」
魔族参謀「はっ!」
ヴァルガスは地図を見つめた。
ヴァルガス「……ここが正念場だ」
王国軍も、魔王軍も、これ以上の長期戦を望んではいない。
だが、停戦はまだ成立していなかった。
ヴァルガス「ラプソディアが交渉をまとめるまで、何としても持たせるぞ」
王国解囲軍西方陣地。
包囲の内側から戦闘が始まったとの報告が届いた。
アーヴェル「……内側の王国軍が動いたようだ!」
セシリア「ならば、こちらも攻勢を強めるべきだ」
クラリッサ「ええっ!? じゃあ、レオンも戦ってるのぉ!?」
エリシア「レオン様……!」
ヴィクトリア「わたくしたちも、負けてはいられませんわ!」
カグラ「……敵の配置が変わってる」
後方では、マリアベルとリリアーナが《アーマードクラリッサ》の修理を終えようとしていた。
マリアベル「あと少しよ! この補助回路さえ安定すれば!」
リリアーナ「……右脚部の駆動系は調整しました。短時間なら稼働可能ですね」
クラリッサ「やったぁ! また出撃できるのぉ!?」
マリアベル「もちろんよ!」
リリアーナ「……ただし、今回は本当に短時間だけです」
クラリッサ「分かってるってばぁ!」
修理を終えた《アーマードクラリッサ》が、再び立ち上がる。
その姿を見た魔王軍の兵士たちは震え上がった。
魔族兵士「……死神だ!」
魔族兵士「《血塗られた鋼鉄の死神》が戻ってきたぞ!」
クラリッサ「いっくよぉぉーっ!!」
巨大な大剣を振りかざし、クラリッサが突進した。
王国解囲軍の攻勢が、再び強まる。
王都。
国王は、ラプソディアとの会談を終え、首脳部へ方針を告げた。
国王「……交渉は継続する」
王国軍務高官「陛下!」
国王「だが、現段階で停戦を認めるものではない。共同調査の範囲、安全性、撤兵条件……すべて確認する必要がある」
王国外交高官「承知いたしました」
国王「そして、北境の将兵を見捨てることもせぬ」
国王は静かに続けた。
国王「和平の道を探りながら、王国の防衛を続ける。それが今できることだ」
夕刻。
北境では、なおも激しい戦闘が続いていた。
アルセリア辺境伯軍は魔王軍の包囲線へ食い込み、王国解囲軍も外側から攻勢を強めている。
しかし、両軍はまだ合流できていない。
その中心で、俺はヴェルセリアと剣を交えていた。
レオン「……はあっ!」
渾身の斬撃。
だが、彼女は見事に受け流した。
ヴェルセリア「ふっ、見事だ!」
レオン「……何でそんなに楽しそうなんだよ!」
ヴェルセリア「お前のような剣士と出会えたのだ。武人として喜ばずにはいられん!」
レオン「……こっちは必死なんだけどな!」
ヴェルセリア「ならば、その必死の剣を私に見せてみろ!」
彼女は再び構えた。
ヴェルセリア「来い、レオン・アルセリア! お前の力、まだまだ見せてもらうぞ!」
俺は剣を握り直した。
レオン(……本当に、厄介な相手だ!)
だが、ここで立ち止まるわけにはいかない。
俺の背後には、守らなければならない人たちがいる。
そのためにも、必ず突破口を開かなければならなかった。
王都迎賓施設。
ラプソディアは一人、窓辺に立っていた。
夕焼けが真紅の衣装を染めている。
ラプソディア(……古代遺跡の共同調査)
彼女は静かに目を閉じた。
ラプソディア(……それが始まれば、皆様を一つの場所へ集めることができます)
魔王は魔境を救うために和平を望んでいる。
ヴァルガスは、その願いを叶えるために戦っている。
王国は、自国の民を守るために交渉を続けている。
そしてラプソディアは、そのすべての思惑を利用していた。
シオン。
レオン。
ルミナ。
魔王。
ラプソディア。
五人が揃ったとき、《原初の魔導核》を封じる鍵が解放される。
しかし、その先に何が待っているのか。
彼女はまだ、誰にも語ろうとはしなかった。
ラプソディア(……あと少し。もう少しだけです)
静かな微笑みが、その唇に浮かぶ。
北境では、銀髪剣聖と竜族の女将軍が剣を交えている。
王都では、魔王の特使による和平交渉が続いている。
そして世界の地下深くでは、古代から眠り続ける魔導核が、まだ誰にも知られぬ時を待っていた。
すべての運命が、少しずつ一つの場所へ近づいていた。




