第101章 魔王の和平特使
セレスティア王国王都。
その朝、王宮の静寂は、一人の伝令によって破られた。
王国伝令「緊急報告! 西方国境より、最優先の軍事報告です!」
王宮守備隊長「何事だ!?」
王国伝令「西方諸国の連合軍が国境を突破! 我が国への侵攻を開始しました!」
王宮守備隊長「……何だと!?」
王宮に激震が走った。
北境では魔王軍との大規模な戦闘が続いている。
アルセリア辺境伯軍は依然として包囲下にあり、救援に向かった王国解囲軍も、ようやく敵の外側防御線へ食い込んだばかりだった。
そこへ、西方諸国の参戦である。
王国は、二つの戦争を同時に戦わなければならなくなった。
王宮大会議室。
緊急招集された王国首脳部は、国王の前で激しい議論を交わしていた。
王国軍務高官「陛下! 西方国境への緊急動員を進言いたします!」
王国外交高官「まずは外交交渉です! 各国が何を目的として侵攻したのか、確認する必要があります!」
王国財務高官「すでに北境への軍費だけでも莫大な支出です! これ以上の大規模動員は国庫を圧迫します!」
王国軍務高官「財政を気にして国土を奪われては意味がない!」
王国財務高官「しかし、兵を動かすにも金が必要なのですぞ!」
怒号が飛び交う。
国王は険しい表情で報告書を読んでいた。
国王「……西方の守備軍は、どれほど持ちこたえられる?」
王国軍務高官「敵の総兵力はまだ判明しておりません。ただ、複数地点で国境を突破されたことは確実です」
国王「……北境解囲軍を撤退させれば、どうなる?」
会議室が静まり返った。
王国軍務高官「……アルセリア辺境伯軍を救出できなくなる恐れがあります」
王国外交高官「しかし、西方の防衛を怠れば、王国の重要都市が脅かされます!」
王国軍務高官「北境には王国の精鋭が多数おります! ここで見捨てれば、軍全体の士気にも関わりますぞ!」
北境を救えば西方が危うい。
西方を守れば北境が危うい。
しかも、どちらかに兵力を集中したところで、勝利が保証されるわけではなかった。
国王「……他に動員できる兵力は?」
王国軍務高官「各地の領主軍を招集しております。しかし、到着までには時間が必要です」
王国財務高官「徴募を拡大すれば、農地や工房から働き手が失われます。戦争の長期化は王国経済そのものを危うくしますぞ」
国王は深く息を吐いた。
国王「……これほどの危機が、同時に訪れるとはな」
王都軍務機関。
そこでも、西方諸国の侵攻報告によって慌ただしい動きが始まっていた。
廊下を軍人たちが行き交い、各地への命令書が次々と運ばれていく。
その中に、アルセリア辺境伯家の長男と次男の姿があった。
長兄、次兄、共に王都で軍務に就く、アルセリア家の武人だった。
長兄「……西方諸国が動いたか」
次兄「最悪の時期ですね、兄上」
長兄「……ああ」
次兄「北境では父上とレオンが包囲されています。それなのに、西方からも侵攻を受けるとは……」
長兄は地図を見つめた。
北境には父と末弟がいる。
二人の安否について届く情報は、限られていた。
次兄「……このままでは、北境への増援が止められるかもしれません」
長兄「まだ決まったわけではない」
次兄「ですが……」
長兄「……だからこそ、正確な情報を父上へ伝えねばならん」
二人は協力して軍事報告書をまとめた。
西方諸国による侵攻開始。
王都での緊急動員。
そして、北境への追加増援が遅延する恐れ。
長兄「未決定の撤退命令を、確定事項として書くな」
次兄「承知しました」
軍事報告は正確でなければならない。
誤った情報一つで、父が判断を誤るかもしれないからだ。
やがて、報告書が完成する。
長兄は最後に、短い一文を書き加えた。
――王都の守りは、我々が務めます。
次兄「……父上なら、同じことをおっしゃるでしょうね」
長兄「……持ち場を守れ、とな」
次兄「……レオンも無事でしょうか」
長兄「……あいつなら簡単には倒れん」
次兄「兄上も心配しているのでしょう?」
長兄「……当然だ」
短い返答だった。
だが、その言葉には兄としての想いが込められていた。
報告書は、軍の通信・伝令網へ託された。
* * *
北境魔王軍中央本陣。
ヴァルガスは、西方諸国の侵攻開始を受け、今後の作戦を検討していた。
魔族参謀「将軍。王国が西方防衛へ兵を回せば、北境への増援は難しくなるでしょう」
ヴァルガス「……ああ。だが、目の前の敵が弱くなったわけじゃねえ。油断するなよ」
魔族参謀「承知しております」
ヴァルガス「王国が継戦の限界を悟ったところで、和平を申し入れる。準備は進めておけ」
そのときだった。
魔族副官「将軍。お客様がお見えです」
ヴァルガス「……客だと? こんなときに誰だ?」
魔族副官「ラプソディア様です」
ヴァルガス「……何?」
間もなく、真紅の衣装をまとった女性が姿を現した。
美しい容姿。
優雅な身のこなし。
そして、その瞳に宿る、人間とは異なる静かな光。
古代の魔導人形、ラプソディアだった。
ラプソディア「お久しぶりですね、ヴァルガス将軍」
ヴァルガス「……ラプソディア。お前がこんな前線まで来るとは珍しいな」
ラプソディア「ええ。本日は大切なお知らせがございます」
ヴァルガス「……聞こうか」
ラプソディアは静かに微笑んだ。
ラプソディア「私、魔王陛下より、セレスティア王国との和平交渉を担当する特使に任命されました」
ヴァルガス「…………ほう」
ヴァルガスの表情が引き締まった。
ヴァルガス「……ついに陛下が動かれたか」
ラプソディア「はい。陛下は、この戦争を終わらせるための話し合いを望んでおられます」
ヴァルガス「……そいつはありがたい話だ」
彼は地図へ目を落とした。
ヴァルガス「だが、王国はまだ包囲突破を諦めちゃいねえぜ」
ラプソディア「承知しております」
ヴァルガス「……西方諸国の侵攻が王都に伝われば、多少は考えも変わるだろうがな」
ラプソディア「だからこそ、私は正式な外交の場を設ける必要があると考えております」
ヴァルガス「……なるほどな」
ヴァルガス「……それで、陛下のご意向は?」
ラプソディア「以前からお伝えしている条件と同じです」
ヴァルガス「……やはりそうか」
ラプソディア「古代遺跡の共同調査。そして、世界の魔力配分についての正式な協議です」
ヴァルガス「賠償や領土の割譲は?」
ラプソディア「求めません」
ヴァルガス「王国の臣従も?」
ラプソディア「もちろん、求めません」
ヴァルガスは静かに頷いた。
ヴァルガス「……陛下らしいな」
ラプソディア「魔境の人々が必要としているのは、王国の富ではありません。未来なのです」
ヴァルガス「……ああ」
魔境では、長年にわたって魔力不足が深刻化していた。
土地は衰え、人々の暮らしも厳しくなっている。
魔王が求めているのは、その状況を変えるための協議だった。
ヴァルガス「……ただ、交渉の席につかせることはできても、魔力配分の変更まで簡単に認めるとは限らねえぞ」
ラプソディア「そのとおりです。まずは共同調査と協議について、合意を求めます」
ヴァルガス「……王国にだって守るべき民がいるからな」
ラプソディア「ええ。だからこそ、一方的な決定ではなく、話し合いが必要なのです」
ヴァルガスは腕を組んだ。
ヴァルガス「……しかし、陛下も思い切った人選をなさったもんだな」
ラプソディア「ご不満ですか?」
ヴァルガス「いや。お前なら十分に務まるだろうさ。ただ、王国の連中が驚くのは間違いねえ」
ラプソディア「ふふっ。驚かせることが目的ではありませんけれど」
ヴァルガス「……分かってる」
彼は少し考えた後、真剣な表情で続けた。
ヴァルガス「……ラプソディア。王国の連中を必要以上に追い詰めるなよ」
ラプソディア「……と、申しますと?」
ヴァルガス「今の王国は二正面戦争だ。和平を望む者もいれば、最後まで戦おうとする者もいるだろう」
ラプソディア「ええ」
ヴァルガス「相手の誇りまで踏みにじれば、まとまる話もまとまらねえ」
ラプソディア「ご忠告、感謝いたします」
ヴァルガス「……陛下の願いを叶えるためにも、無駄な血はこれ以上流したくねえからな」
ラプソディアは静かに頷いた。
ラプソディア「私も同じ思いです」
やがて、会談は終わった。
ラプソディア「では、ヴァルガス将軍。私は王都へ向かいます」
ヴァルガス「……ああ。気をつけてな」
ラプソディア「ありがとうございます。将軍もご武運を」
ヴァルガス「……できれば、俺たちの仕事が終わる前に交渉がまとまってほしいもんだぜ」
ラプソディア「ふふっ。善処いたします」
ラプソディアは優雅に一礼し、部屋を後にした。
ヴァルガスはその背中を見送り、小さく息を吐いた。
ヴァルガス「……さて。こっちはこっちで、戦場を維持しなきゃならねえな」
その間も、王都では緊急御前会議が続いていた。
王国外交高官「……陛下。魔王軍が戦争以前に求めていた交渉内容について、再検討すべきではないでしょうか」
王国軍務高官「今さら和平などと! 北境では多くの将兵が戦死しているのですぞ!」
王国外交高官「だからこそ、これ以上の犠牲を防ぐ可能性を探るべきなのです」
王国財務高官「戦争が続けば、国庫にも限界が訪れます」
国王は一通の古い外交文書に目を落とした。
国王「……古代遺跡の共同調査。そして、魔力配分についての協議か」
王国外交高官「はい」
国王「……話し合いそのものを拒み続けるべきかどうか、改めて考える必要があるな」
しかし、魔力配分を変更することは、王国各地の生活や魔導施設にも関わる重大な問題だった。
国王「……交渉に応じることと、要求を受け入れることは別だ。そこを混同してはならぬ」
王国外交高官「仰せのとおりです」
国王は深く考え込んだ。
北境の戦争。
西方諸国の侵攻。
そして、魔王軍との交渉。
王国の未来を左右する問題が、一度に押し寄せていた。
数日後。
王都の迎賓施設へ、一行の使節団が到着した。
魔王陛下の名において派遣された正式な外交使節団。
その代表は、真紅の衣装をまとった女性だった。
ラプソディア。
王国側は、彼女の正体をまだ十分には把握していない。
しかし、彼女が携えてきた魔王の書簡は、王国首脳部にさらなる衝撃を与えることになった。
王国伝令「陛下! 魔王陛下の正式な使節団が到着いたしました!」
国王「……魔王の使節だと?」
王国伝令「はい。代表はラプソディアと名乗る女性でございます!」
王国軍務高官「……この時期に使節を送ってくるとは!」
王国外交高官「……まずは用件を確認すべきです」
国王「……正式な書簡を提出させよ」
王都迎賓施設。
王国外交官がラプソディアと対面した。
王国外交官「ラプソディア殿。魔王陛下の使節として、どのようなご用件でお越しになったのでしょうか」
ラプソディア「魔王陛下より、和平交渉の申し入れをお預かりしております」
王国外交官「……和平交渉、ですか?」
ラプソディア「はい。戦争の終結について、話し合いの場を設けていただきたいのです」
ラプソディアは正式な書簡を差し出した。
王国外交官が内容を確認する。
そこに記されていた条件は、驚くべきものだった。
戦争賠償は要求しない。
領土の割譲も求めない。
王国の臣従も、軍の全面的な武装解除も求めない。
要求するのは、ただ二つ。
古代遺跡の共同調査。
そして、世界の魔力配分についての交渉。
王国外交官「……本当に、これだけなのですか?」
ラプソディア「はい。陛下のお望みは、以前から変わっておりません」
王国外交官「……しかし、これほどの戦争を経て、何の賠償も求めないとは……」
ラプソディア「私たちは、王国を征服するために参ったのではありません」
彼女は静かに微笑んだ。
ラプソディア「どうか、国王陛下へお伝えくださいませ」
王宮大会議室。
ラプソディアから提出された書簡が、国王の前に置かれていた。
国王「……戦争賠償なし。領土の割譲もなし……?」
王国外交高官「はい。以前と同じ交渉条件でございます」
王国軍務高官「……信じられません!」
王国財務高官「……しかし、これが本当ならば……」
王国軍務高官「だからこそ怪しいのです! これだけの犠牲を払って、条件を変えないなど!」
王国外交高官「何も要求していないわけではありません。魔力配分を巡る交渉は、国家の根幹に関わる重大な問題です」
王国軍務高官「……確かに」
国王は書簡を見つめた。
国王「……魔王軍は、本当に和平を望んでいるのか。それとも、我々を追い詰めるための罠なのか……」
誰も答えられなかった。
西方諸国が侵攻を開始した今、魔王軍の提案を無視することも難しい。
だが、戦争前と同じ条件を提示されたからといって、簡単に信用できるものでもない。
国王は静かに目を閉じた。
しばらくの沈黙。
そして、決断を下す。
国王「……魔王の特使ラプソディアとの正式な会談を準備せよ」
王国外交高官「承知いたしました!」
王国軍務高官「……陛下!」
国王「ただし、和平を受け入れると決めたわけではない。まずは相手の真意を確かめる」
さらに国王は続けた。
国王「……北境の将兵を見捨てることもせぬ。解囲軍の撤退は、現時点では命じない」
高官たちは深く頭を下げた。
一方、北境南部。
王国解囲軍の前線指揮所にも、王都からの緊急報告が届いていた。
王国軍通信兵「王都より最優先報告! アルセリア辺境伯閣下宛てです!」
王国軍通信指揮官「……内容は?」
王国軍通信兵「西方諸国の侵攻開始! 王都では緊急動員が進められております!」
王国軍通信指揮官「……何だと!?」
指揮官は顔色を変えた。
王国軍通信指揮官「……包囲の内側への連絡は?」
王国軍通信兵「依然として不安定です! 敵の激しい妨害もあり、確実な伝達は困難です!」
王国軍通信指揮官「……何としても届けろ!」
しかし、アルセリア辺境伯本人への伝達は、まだ確認できなかった。
そして、魔王の使節団が王都へ到着したという知らせも、北境の将兵には十分に伝わっていなかった。
その夜。
王都軍務機関の窓辺に、レオンの兄二人が立っていた。
次兄「……父上への報告は届いたでしょうか」
長兄「……解囲軍の通信拠点までは届いたそうだ」
次兄「では、父上には……」
長兄「……まだ確認できていない」
次兄は北の空を見つめた。
次兄「……レオンも、あの戦場にいるのですね」
長兄「……ああ」
しばらく、二人は黙っていた。
長兄「……父上。レオン。どうか持ちこたえてくれ」
同じ頃。
北境第二防衛線。
包囲下のアルセリア辺境伯軍では、翌朝の突破作戦に向けて準備が進められていた。
アルセリア辺境伯「……準備は整ったか、レオン」
レオン「はい、父上!」
フィオナ「騎士隊の準備も整っている」
ルミナ「レオン様。敵部隊の移動は引き続き確認されています」
レオン「……いよいよだな」
俺は剣の柄を握り締めた。
包囲の外には、救援に来てくれた王国軍がいる。
学院の仲間たちも、きっとそこにいるはずだ。
レオン(……必ず合流する)
父上が静かに告げた。
アルセリア辺境伯「……明朝、南方包囲線を突破する」
レオン「……はい!」
そのとき、俺たちはまだ知らなかった。
王国の西方で新たな戦争が始まっていたことを。
王都にいる二人の兄が、父上へ緊急報告を送っていたことを。
そして、魔王の特使ラプソディアが王都へ到着し、国王との和平交渉が始まろうとしていることを。
北境では、剣による突破戦が迫っていた。
王都では、魔王の特使との外交交渉が始まろうとしていた。
武力によって切り開く未来か。
それとも、交渉によって見いだす未来か。
そのどちらが王国の人々を救うのか、まだ誰にも分からない。




