第七話 薔薇と名前
本屋は多くの人で賑わっていた。ラジオやテレビといった娯楽も少しずつ普及してきたけれど、まだまだ本は主流だ。特に最近は洋書が手に入るようになり、一層賑わっているように思える。
普段は穏やかな先生も、本屋の大きな陳列棚を前に珍しく喜色を目に浮かべている。どこか落ち着かない様子で店内の地図を確認した先生が店の奥を指した。
「辞書はあちらのようですね」
立ち読みする人でごった返す雑誌の列を抜けていく。私も物珍しさに時折足を止めながら、先生の後を追う。先生は決して私を置いていかないよう、時々後ろを振り返っては私の姿を確かめてくれた。私が先生を見失うはずなどないし、そもそも先生はよく目立つので必要などないのだが。少なくとも、女性たちがコソコソと噂話をしているほうを辿れば、必ず先生がいる。
先生はたしか、今年で三十五になると言っていた。私が十八になる年なので、十七も離れていると常々先生が口にするのは間違いではないのだが、どうも先生は世間一般に見ても三十五には見えない。線の細さと淡く消えそうな雰囲気が少年のように見せているのか、単に先生の美貌が若々しく見せるのかはわからないが。
――私なんかより、よっぽど先生のほうが誰かにさらわれそうだわ。
辞書が並べられた一角で私を待つ先生の隣に立つと、先生は苦笑していた。
「こんなにも人が多いとは思いませんでしたね」
すでに疲労の色が見える。人の多いところは得意ではないのかもしれない。あるいは、普段は天界のような場所で過ごしているか。少し浮世離れした雰囲気があるし、隠居しているようにも思えるから、あながち間違いでもないかもしれない。先生から聞く外の話は、いつだって、天気の話か季節の話、気温や植物や医学や小説に関することが多く、家族や知人のことは少ない。先日登場した洋書の蒐集に余念がない知人の話も初めて聞いたくらいだ。
「先生は、あまり外へ出ないの?」
「そういうわけではありませんが、人の多いところへはあまり」
「ふーん……」
では、今日は本当に特別に、ということだろう。こういうところがやはりずるい。瑞希くんを嫌いになれないのと同じだけ、先生への好意を忘れることが難しいのはそのせいだ。先生は、明らかに私へ線引きをしているのに、時折不意にその線を越えても良いと言ってくれているような態度をとる。
私はにやけてしまいそうになる頬の筋肉に力を入れ、真面目な顔を作った。
本来の目的である辞書を選ぶ。蘭語も英語も多くはないが迷う程度には種類がある。
「まずは手軽なものをお勧めしますよ。金額的にも、大きさ的にも」
「そういうもの?」
「ええ。高価なものを買っても内容が不足することはよくありますし、大きなものは持ち運びに不便です。あくまでも辞書は勉強の助けになるものですから、継続できるように小さく始めると良いかと」
「へえ」
先生の提言を参考に、いくつかの辞書を手に取る。パラパラと紙をめくり、図解がついているものや、類語や例がわかりやすいものなど、見比べて違いを確認する。
「よし、決めたわ」
時間にしておよそ十分程度。私は、手に馴染み、通学鞄にも入る大きさのものを選んだ。図解や例文も多く、初心者向けのようだったし、価格もそれほど高価ではない。
すぐ近くの洋書の本を見ていたらしい先生が、声につられて私の手元に視線を落とす。
「合うものが見つかって良かったですね」
「先生のおかげよ。たしかに、持ち歩けるほうがどこでも勉強できて良さそうだわ」
「勉強熱心な生徒で大変助かります」
「先生は? 欲しいものは見つかったかしら?」
「そうですね……、知人への贈り物にする本を選んでいました」
「先日、本をくださった?」
「ええ。礼を兼ねて贈ろうかと」
先生は言うと、分厚い一冊を手に取った。贈り物をするほどの仲なのか、それとも先生が単に礼儀正しいのか。どちらともつかないが、先生のことを聞く機会だと私は会計までの短い道のりを雑談に費やす。
「そのかたはどんなかたなの? 男性? 女性?」
大切な女性だと言われたらどうしよう。そんな不安を胸に抱きながら、先生を見上げる。先生は私の気持ちなど露ほども知らずにサラリと答えた。
「男性ですよ。それも、もう良い年の。昔、とても世話になったかたなんです」
「先生が?」
「はは、意外ですか? 僕にも恩師の一人くらいいます」
「それは、そうだけど。先生の子供時代って全然想像がつかないわ」
先生のことを知れば知るほど、もっと知りたいと思う。
「ね、先生はどんな子供だったの?」
私がそう尋ねると、先生は眉根を寄せた。苦々しい顔に作り笑いが浮かぶ。
「……知らないほうが良いことも、世界にはたくさんありますよ」
そこで運悪く、私たちは会計に辿り着いてしまった。
もっと、色々知りたいのに。そう思う気持ちに蓋をして、私も会計を済ませた。
今日はまだ、時間がたくさんあるのだ。これから少しずつ、色々なことを聞けばいい。
「ねえ、先生はまだお時間はある?」
「ええ」
「それじゃあ、少しお茶にしましょう。上階にカフェーがあるんですって。私、そこに行きたいわ」
まだ先生と一緒にいたい。せっかくの休日を楽しみたい。だから、お願い。先生、いいですよと言って。
祈るような気持ちを隠し、無邪気を装う。
先生は私の本心を探るように、しばらく黙り込んだままこちらを見つめていた。その視線はどこか思案するようにも、私を咎めるようにも見える。
「……丸井さまは、お許しに?」
「その、瑞希くんが私に教えてくれたのよ。カフェーがあるから、甘いものでも食べてくると良いってね」
「……そうですか」
先生はようやくそこで、これは不貞行為ではないと認めたらしい。そのうえで少し照れたようにはにかむ。
「いえ、失礼。なにかあってはいけないと思って尋ねてしまいましたが、そもそも、十七も年の離れた二人を見て勘繰る人などおりませんね」
自惚れていると思われたくなかったのかもしれない。先生はことさら十七という数字を強調した。
先生と私を隔てる線が見える。年が離れているというだけで、こんなにも遠いのだと実感させられる。年齢はどう足掻いても追いつけない絶対的なものだ。
手に紙袋の紐が食い込んで痛い。私はそっと紙袋を持ち替えた。
「……でも、兄妹か友人には勘違いされるかも」
意趣返しのつもりで強がると、先生は冗談ととったのか少年のように笑う。
「はは、それは大変光栄ですね。僕のようなものが、お嬢さまと対等な関係とは」
「先生は自分を低く見積もりすぎだわ」
「謙遜ではなく事実ですよ。僕はあくまでも、お嬢さまのお家に雇われている身ですから」
先生はこともなげに言うと、上階へ向かう自動階段のほうへ歩き出す。私の手からひょいと紙袋を奪った。
「重たいでしょう。お持ちしますよ、お嬢さま」
先ほど持ち替えた場面を見られていたのかもしれない。家の外でもお嬢さま扱いされていることが、くすぐったくて、少しだけ切ない。
先生にとって私は、家庭教師先の生徒。そのお嬢さまでしかないのだ。相手にすらされていない。いつだって子供扱いを受けている。休日だろうと、家の外だろうと関係ない。
はっきりと先生からそう突きつけられたことに惨めな苛立ちを覚える。
私は慌てて先生を追った。自動階段で先生が足を止めたところで、彼の手から紙袋を奪還する。辞書の入った袋はたしかに軽くはない。だが、持てないような重さでもない。今後は通学鞄に入れて持ち歩くのだ。
「今は家庭教師の時間ではないし、先生と生徒の立場は関係ないはずよ」
私のささやかな反抗に驚いたのか、先生は瞠目していた。
今日は、私を一人の女性として意識してほしかった。たとえそれが、叶わない夢だとしても。一日だけでも。夢を見ていたかった。
私の言葉からなにを感じ取ったのだろう。先生は何度か視線を往復させ、うめくように呟く。
「まったく……」
額に手を当て嘆息した先生は、諦観したように笑った。
「困ったお嬢さまですね」
馬鹿にするような響きも、子供扱いするような呆れも感じられなかった。ただ本当に恐れ入ったとばかりに先生は両手を軽く上げて降参の意を示す。
「では、ここからは対等に扱いますよ。美羽さん」
初めて先生に呼ばれた私の名前。それは人生の中で最も甘美な響きだった。
先ほど会計の際に感じた少しの嫌な気持ちも忘れて、単純な私の心は驚きと嬉しさと恥ずかしさでいっぱいになる。
口を開閉するしかできない私に先生がふっといたずらな笑みを浮かべる。
先生から、酩酊してしまいそうなほどに蠱惑的な梔子の香りがした。




