第八話 薔薇とカフェー
百貨店の最上階にあるカフェーは落ち着いた雰囲気だった。蓄音機からピアノの曲が流れており、香ばしい豆の匂いと煙草の匂いが空気を満たしている。食器のぶつかる控えめな音と歓談の声がそこかしこから聞こえ、女学生の身で入るには少し勇気が必要だった。一人では尻込みしていたかもしれないと先生に言えば、先生はふっと目を細めた。
窓の外から街が見下ろせる席へ案内された私たちは、その眺めを存分に味わってから、食事を注文した。私が紅茶とシベリアで、先生は珈琲。
待っている間、話題を切り出したのは先生だった。
「美羽さんはいつまで僕を先生と呼ぶのです?」
「へ?」
想定外の質問に瞬きを繰り返すと、先生が喉をクツクツと鳴らすように笑う。私の知らない大人っぽい笑いかただった。
「対等な関係をお望みだったのでは?」
「あっ!」
私が「先生と生徒の立場は関係ない」と豪語したことを引き合いに出されたのだと気づくと、先生は賛同を求めるように片方だけ口端を持ち上げた。
「……で、でも、先生は先生だわ」
「では、僕もお嬢さまと?」
「それは……」
名前で呼ばれたほうが嬉しいに決まっている。だが、それを伝えるのは告白しているようなものだ。
私は恋熱に浮かされた頭をなんとか働かせ、「先生こそ」と矛先を変えた。
「先生こそ、対等に扱うと言っておきながら、まだ敬語だわ」
「僕は対等な相手にも敬語ですよ。そのほうが楽なんです」
「家族にも?」
「ええ。美羽さんも、ご両親には敬語でしょう?」
「それは……、そう、ね」
完全に丸め込まれ、それ以上の反撃はできない。
「……じゃあ、なんと呼べばいいの?」
「お好きに呼んでいただいてかまいませんよ。美羽さんの呼びやすいように」
「そんなことを言われても……。ねえ、なんて呼ばれることが多い? 学生の頃とか、あだ名の一つや二つあったでしょう?」
私が言えば、先生が「ありませんよ」とからかうような微笑を浮かべるので、名前で呼ぶ以外、逃げ場がなくなってしまう。
先生を名前で? 私が? 言い出したのは自分だが、まさかこんな展開になるとは思ってもみなかった。今日は先生のお話もたくさん聞けたし、良いことが重なりすぎているように思う。悪いことの前兆なんじゃないかしら。そう疑ってしまうほど。
現実逃避をしてみても、目の前の現実が変わるわけではない。先生が親戚の子供を相手するような、大人びた余裕のある態度で私を待っているのが癪に障る。
やっぱり、先生は私をお嬢さまだと思っている。
私は深呼吸して姿勢を正した。ただ、先生の名前を呼べばいいだけだ。わかっているのに、一気に距離が縮まったような感覚に頭が爆発してしまいそうなほど熱を帯びているのがわかる。
けれど、これは好機でもあった。逃してはいけない大切な、大切な一歩。
「そ、それじゃあ……」
こほんと咳払いして、私はこの世で最も尊いその名を口にする。
「司、さん」
木梨司。先生の名前。
木梨さんと呼んでも良かったが、あまりにも他人行儀な気がしてやめた。
果たして、私が勇気を出したのに、司さんからの反応はなかった。
やっぱり嫌だったのだろうか。顔に集まる熱を手元のお品書きで隠してチラと視線を投げると、司さんもまた、自分から言い出したことだというのに驚いたような、くすぐったいような、なんとも言えない珍妙な顔をしていた。ほんの少し、泣きそうな顔をしているようにも見える。
ちょうど女給が注文の品を運んできたことで、私たちの会話はそこで自然と途切れた。
梅雨時の湿った生暖かい空気の中、私と司さんはこの妙な雰囲気をごまかすようにカップに口をつける。淹れたてだろうか。熱い飲み物は無理に会話をせずに済んだ。
結局、その後は勉強のことを中心にいくつか言葉は交わしたが、名前を呼んだり、呼ばれたりするたびに意識してしまったせいで、いつもほどは盛り上がらなかった。聞きたいことは山ほどあったのに、ふわふわと浮足立つような感覚に気をとられていた。シベリアの味も、紅茶の味もほとんどわからなかった。
ボーン、ボーン、と店内に振り子時計の音が響く。見れば、十五時半を知らせる鐘だった。
「そろそろ、お迎えの時間ですね」
司さんが思い出したように、カップへ口を運び、最後の一口を飲み干した。
空になったカップを机に置いた彼は、そのままの流れで財布を出そうとする。私は慌ててそれを止めた。
「父からたくさん渡されたの。先生が出したなんて知ったら、私が怒られるわ」
「……今日は、先生ではありませんので」
「……っ! もう! 司さん! 私が悪かったわよ。とにかく、司さんは出しちゃダメ」
言葉遊びを楽しむように笑った司さんを置いて、私は先に席を立つ。伝票を持って足早に会計へ行き、支払いを済ませると、遅れてきた司さんが「ごちそうさまです」と私に頭を下げた。父の顔を立てるためか、財布はしまってくださったらしい。
少し早いが、待たせるよりはマシ。私は司さんとの別れを惜しみつつ、自動階段を下りる。これ以上を求めるのは贅沢だし、罰が当たりそうな気がして、楽しかった一日を振り返ることに専念した。
百貨店の一階で、司さんが「そうでした」と立ち止まる。
「美羽さんにこれを」
彼がそう言って差し出したのは、綺麗な紙製の栞だった。色鮮やかな花の印刷が施されている。
「これは?」
「本屋で見つけて、お渡ししようと思いまして。先ほどのお礼も兼ねて」
「そんな……、悪いわ」
「いつも勉強を頑張っていらっしゃるご褒美でもありますから、どうぞ受け取ってください」
司さんは念を押すように、私のほうへもう一度その栞を差し出した。
「……大切にするわ」
私は栞をできるかぎり丁寧に鞄へしまう。きっと、栞を見るたびに今日のことを思い出す。それが良いことか悪いことかはわからないけれど。美しい思い出に違いなかった。
「ありがとう」
「こちらこそ。今日一日、友人として付き合っていただけて大変楽しかったですよ」
司さんは柔らかな笑みを浮かべると、出口のほうを見て、
「ちょうど、お迎えも来られたようですし。こちらで失礼します」
と、帽子を胸元に当てて綺麗なお辞儀をした。
「それでは、また次回の授業で」
「ええ。お気をつけて」
帽子をかぶりなおした司さんは、颯爽と人ごみに消えてしまう。その影を追うよりも先に、「みぃ」と聞きなれた声に名前を呼ばれる。司さんに呼ばれるのとは違う胸の痛みが、私を現実に引き戻す。
「ちょうど良かったな。あれが噂の先生か。挨拶したかったんだけど、行ってしまわれたから」
「え、ええ。お迎え、ありがとうございます」
「気にしないで。さ、帰ろうか」
瑞希くんに連れられ、私は先生が消えていった方角と真逆に歩き出す。振り返ることはできなかった。
帰り道、車内で瑞希くんに辞書を見せ、カフェーに行ったことを話す。瑞希くんは楽しそうに話を聞いてくれて、今度は一緒に行こうと約束を取り付けてくれた。
鞄にしまった栞のことをなぜか言えないまま、私は瑞希くんの約束に頷いた。




