第六話 薔薇と洋装
週末はすぐに訪れた。
先生があらかじめ話をしておいてくださったらしく、両親からはすんなりと外出許可が出た。
意外だったのは瑞希くんだ。てっきり反対されるかと思っていたが、彼は理由を聞くと渋々ながらもその場で了承してくれた。
家庭教師が男性であることは瑞希くんも知っているし、なんなら瑞希くんは先生のことを良くは思っていない。私を看護婦にしたくない瑞希くんにとって、医学を教える先生の存在は決して有益ではないからだ。
けれど、瑞希くんは熟考したのち「みぃのためだもんな」と言い聞かせるように承諾した。条件付きで。
当日は瑞希くんに送り迎えをさせること。それも、暗くなる前には必ず迎えに来るという。さらには、買った辞書を見せること。その日あったことを教えて欲しいとも言った。
そんなわけで、私は今、瑞希くんの車で集合場所である百貨店へ向かっている。梅雨の時期には珍しい晴天が車の窓の向こうに広がっている。
今日、先生と買い物をする百貨店は、私の父が経営し、瑞希くんの会社が卸しをしている。中心地にある瀟洒な建物で、私も両親に連れられて何度か行ったことがある。もしかしたら、そうした場所を先生が指定したことも、両親や瑞希くんが私を送り出してくれた理由の一つかもしれない。先生のこうした気遣いに救われている。
「俺の仕事がなければ、喜んで付き合ったのに」
瑞希くんは拗ねた口調でこぼした。
街に近づくにつれ、人の往来や車の数が増え、外は賑わいを見せている。
休日でも仕事に邁進している瑞希くんは恨めしそうに外を歩く人々を見つめていた。
「ただでさえお忙しい瑞希くんに、そんなお手間は取らせられませんわ」
「別に手間じゃない。みぃのためなら喜んでどこへでも駆けつけるさ。でも、仕事相手じゃそうもいかない」
「お気持ちだけで充分ですから」
「本気でそう思うか?」
ほんの少しだけ寂しそうな声に、心の内を見透かされたような気持ちになった。
先生と一緒にいたい。先生と休日に出かけられて嬉しい。そう喜ぶ私の恋心が。
私は逡巡し、あえて瑞希くんの嫌いな、けれど、今最も適切と思われる言葉を選ぶ。
「……ええ。私も、職業婦人を目指す身ですよ。お仕事の大変さはよくわかります」
案の定、瑞希くんは言い返す言葉を探すように視線を宙へ迷わせ、やがて諦めたように口を結んだ。私の手を握っていた彼の手の力が、ほんの少しだけ強くなる。
いくつかの交差点を過ぎ、百貨店が見えてきたところで、瑞希くんが切り出した。
「百貨店の上階に、食事をするところがいくつかある。最近流行りのカフェーも。甘いものは好きだっただろう?」
「ええ」
瑞希くんは握っていた手を解いて、背広のポケットに手を入れた。そこから、折りたたまれた財布が出てくる。なにごとかと私が首を傾げると、瑞希くんは惜しげもなく財布から金を抜いてこちらに差し出した。
「いくらか渡しておくから、好きに使うといい」
「そんな! いけません!」
思わず大きな声が出る。辞書や本を買うための金も、食事代も、両親がすでに持たせてくれている。瑞希くんだってそれくらいは想像がついているはずだ。なのになぜ。
「父からいただいておりますの。ですから、いただけませんわ」
私が必死に抵抗すると、瑞希くんは父の顔を立てるためか、渋々いくらかを財布にしまい、
「それじゃあ、これだけでも」
と、残った額を私に手渡した。それでも女学生に渡すには大金だろう。私は呆然と瑞希くんと彼が握った金を見比べる。
金を渡すほうがどうしても受け取ってほしいと懇願するなど、なにがどうすればそんなことになるのか検討もつかない。
「受け取ってくれ。今、俺がみぃに渡せるものは、これしかないから」
本当だったら、時間を分かち合いたい。先生ではなく、自分と一緒に出かけてほしい。それができないのならせめて。
「それに、他の男にごちそうになっているみぃを見るのは辛い」
瑞希くんは一息にそう言いきって、私に金を握らせた。同時、車がゆっくりと速度を落として百貨店前に停車する。
「頼む」
切々とした瑞希くんの沈丁花色の瞳が私を射抜く。
こうなっては、受け取らないわけにもいかない。
「それでは……、ありがたく頂戴します」
「ああ」
嬉しそうな瑞希くんの笑みに心臓がぎゅっと握り潰されたように痛んだ。
先生のためならなんでもできると信じている私と、瑞希くんは同じ生き物だ。瑞希くんの痛みすらも手に取るようにわかってしまうからこそ、私は彼を嫌うことなどできようもない。
私はこのお金は使わずに後でお返ししようと心に決めて、鞄にしまう。
瑞希くんに手を引かれて百貨店の前へ降り立つ。
「楽しんできてくれ。また十六時に迎えに来る」
瑞希くんは私の手に口づけを落とすと、たった数刻の別れだというのに名残惜しそうに車へ乗り込んだ。
車が遠く去っていくのを見送り、百貨店のショーウィンドーに映った自分の服装を整える。
「お嬢さま」
後ろから声がかかり振り返ると、見慣れぬ洋装に身を包んだ先生が帽子を軽く持ち上げた。
「お待たせしてしまいましたか?」
「いいえ! 本当に、ちょうど今来たところよ」
「それは良かった。では、行きましょうか」
先生が百貨店の扉を開けてくださり、私は中へ足を踏み入れる。目的の本屋は三階にあるらしい。
私は、煌びやかな宝石店や化粧品売り場、花屋など、日頃であれば目を奪われてしまうような綺麗で可愛いものたちには見向きもせず、前を歩く先生の背だけを見つめた。
まさか、先生の洋装姿が見れる日が来るとは思わなかった。いつか見たいと思ってはいたけれど、こんなに都合よく叶うとは。夢かしらと頬をつねれば明確に痛みがある。現実らしい。
黒に紺のストライプ模様が入った光沢のある背広は品があり、紳士然とした先生によく似合っていた。着物よりも背広のほうが、先生のすらりとしなやかな体躯を引き立てているように見える。普段は意識していなかったことに――たとえば、先生は背が高いのだとか、足が長いのだとか、顔が小さいのだとか――気づいて、先生の魅力は底知れないとその姿を目に焼き付ける。
瑞希くんが容姿端麗であることは承知していたが、先生も負けず劣らずの美男だ。普段から綺麗な男性だとは思っていたが、洋装だとそれがより強調されているような気がする。和装だと儚く見える雰囲気が、洋装で色香に変わるとは知らなかった。
私は自らの服装をもう一度洋服店に置かれた姿見で確認し、胸をなでおろした。
洋装で良かった。少なくとも、子供には見えないと思う。先生の連れ子に見られようものなら、それこそ傷心で動けなくなるかもしれない。
「お嬢さま?」
自動階段の列に並んだ先生に呼びかけられ、私は慌てて先生に続く。
自分の足取りが普段からは考えられないほど軽い。まるで熱に浮かされたようだった。




