第十話 薔薇と再会
雪の中、黒い羽織は良く映えた。
「先生!」
彼は、庭の生垣に降り積もった雪を落としているところだった。先生はその手を止め、驚いたようにこちらを見つめている。視線は合っているはずなのに、先生はまるで夢幻でも見ているというようで、完全に硬直していた。
生垣からどさりと雪が落ちる。その音で、先生はようやく真正面から私を見つめ返した。
「……お嬢さま、ですか?」
「もう、お嬢さまじゃないわ」
私が言えば、先生はややあって、雪解けのように顔をほころばせる。あの頃のように少し困ったような、呆れたような、柔らかな笑みだ。
「では、僕ももう先生ではありませんよ」
「嘘。先生は先生よ。女将さんから聞いたもの。先生って呼ばれてるんでしょう?」
「……ああ」
先生にはそれだけでピンと来たようで、宿のある方角を少し恨めしそうに見つめる。だが、やはりそれも少しすると苦笑に変わった。
先生の背格好も、姿も、最後に見たままだと思ったが、三年前に比べるとより穏やかな雰囲気を纏っているような気がする。この街の長閑さがそうさせるのか、あるいは、先生にもなにか変化があったのかもしれない。
「立ち話もなんですから、どうぞ中へ」
「雪かきは良いの?」
「どうせまた降ってきますから。雪に強い品種ですし、多少は大丈夫でしょう」
先生は軽く生垣の上を払って、道具をしまうと玄関先へ回った。玄関から中庭が見え、私はその既視感に足を止める。
縁側と、その向かいにある生垣。砂利の敷かれた枯山水風の庭。
夢と同じだ。
「美羽さん?」
久しぶりにその名を呼ばれ、私は我に返る。先生は、私の視線の先を追って、儚い笑みを浮かべていた。
「梔子ではありませんよ」
「そうなの?」
先生がなんのことを指しているのかはすぐにわかった。
雪の白に映える深緑の生垣は、ハマナスという花のものらしい。たしかに、よく見ればまったく梔子とは葉の形が違う。
先生から説明を受けて玄関をくぐると、不思議と梔子の香りがした。見れば、玄関先に鉢植えが置かれている。
「ここの気候では鉢植えが限界なんです。だから、生垣も別の花を。雪が見たくてここへ越して来たので、無理に育てる必要もないんですが。お守りのようなものです」
「お守り……」
「過去とは、切っても切れないものですから。忘れてしまうのも本意ではありませんし」
辛いことだけではなかったと、先生が暗にそう言っているような気がした。梔子の鉢植えから顔を上げると、やはり微笑を携えた先生がこちらを見る。
「美羽さんは、紅茶と甘いものがお好きでしたね」
「……え、ええ」
覚えてくれていたのか。たった一日、カフェーでお茶をした時のことを。
先生はなんてことのないように靴を脱いで、私を客間へ案内した。
中は客間以外に、居間と台所、それから寝床や水回りと一人で済むには充分な広さだった。客間から縁側、庭へと繋がっているようで、見れば見るほど夢に出てくる場所に似ている。
それ以外の特筆すべき点といえば、客間なのに筆と半紙、本棚、重ねられた小さな文机が置かれていることと、家具は木製の深い茶色か、あるいは布製の緑で統一されていることくらいだ。どこも綺麗に手入れが行き届いており、無駄なものは一つもない。先生らしい家だった。
観察していると、茶器と茶菓子を載せた盆を持って先生が現れる。
「子供相手に塾を開いているんです。狭くて申し訳ありません」
「違うの、珍しかったからつい。ごめんなさい。塾をしてるのね」
客間に置かれたものと、先生がいまだ先生と呼ばれている理由がわかり、私は納得する。先生は気恥ずかしそうに微笑んだ。
私の前に紅茶と茶菓子を、自分の前にはお茶を並べ、先生が私の向かいに腰を下ろす。
「どうして、ここがわかったんです?」
「三年前にある人から聞いたの」
「ですが、三年も前でしょう? すでにいないかもしれないとは思わなかったんですか?」
「思ったわ。けれど、行かずに諦めるのは違うような気がしたの。それに、私は……、会えなくてもかまわないって思ってたから」
私が言い切ると、先生は意外そうに私を見つめ直した。どうやら、私が先生に会わなくても良いと考えていたのは予想外だったらしい。
その時初めて、先生が私を――高嶺美羽という人間を見てくださったような気がした。
私の頬が自然と緩む。
「でも、やっぱり会えて良かったわ。先生に、直接お伝えしたいことがあったから」
「僕に?」
「私、看護婦になったわ」
少しの沈黙が落ちた。先生の顔に驚きと安堵と喜びが、それぞれ複雑に浮かび上がる。かと思えば、その表情は満面の笑みに変わった。
「……それは、良かったです」
先生が俯き、長い前髪に視線は遮られた。目元に影が落ち、表情が隠れる。それは、先生がなにかを隠したい時の癖で――今は、涙を見られたくないのだとわかった。
私は先生の目元に光る、雪のように美しいそれに見ないふりをして紅茶と茶菓子に口をつける。
先生の震える肩ごしに外を見やれば、チラチラと白いものが舞っていた。
雪だ。こんな風に降るのか。
先生が顔を上げるまでのしばらくの間、私はただ空から舞い落ちる雪を眺める。
――望さん、一緒に雪を見れたね。
心の中で呟くと、とくんと心臓が跳ねた。自分の鼓動の音に耳を傾けるのは、きっとこれが最後だと予感がする。
空はどんよりと曇っているのに、不思議と清々しい気分だった。




