第十一話 薔薇と梔子
雪は次第に強くなった。客間から庭を覗くと、先生が下したばかりの雪がすでに生垣に積もっている。
あっという間に町はまた白く覆われてしまうのだろうと眺めていると、後ろから声がした。
「今日は、ここにいてください」
顔を洗ってくるとお手洗いに立った先生が、いつの間にか戻って来ていたらしい。手には急須と新しい茶器が載ったお盆が握られている。私の茶碗が空になったことに気づいていたのだろう。泣いていたのに相変わらず敏い人だ。
「良いの?」
「ええ。宿まではそう遠くありませんが、この雪の中で帰るのは危険です。じきに、少しも前が見えなくなりますよ」
雪の多い街では良くあることなのだそうだ。先生はすっかり慣れた様子で、私の茶碗を新しいものに交換し、お茶を注いだ。
私としては、カフェーでお茶をすることでさえためらっていた先生が、こんな風に自然と家へ泊まっていくことを提案することに違和感を覚えた。
「婚約者さまのことは聞かないの?」
違和感を口にすれば、先生がピクリと反応する。
彼は急須を置いて、茶碗を私のほうへ寄せると、改まって私の前へ腰かけた。
目元がまだ少し赤くて色っぽいなどと言えば、先生はどんな反応をするだろうか。私ももう子供ではない。先生は、それに気づいているだろうか。
先生はまた顔を隠そうとして、けれど、諦めたようにふっと口角を上げた。
「もう、そういうのは辞めにしようかと」
「え?」
「……実は、僕にも、美羽さんに直接お伝えしたいことがあります」
「先生が?」
聞き返すと、先生はなぜかむっと顔をしかめる。
「……お話するために、先生と呼ぶのをおやめいただけると嬉しいのですが」
「どうして?」
「木梨司として、美羽さんとお話がしたいからですよ」
先生の切れ長な目が私を見つめる。妹の望さんではなく、かつての教え子であり、今は看護婦となった高嶺美羽を見ている。
「……司、さん」
私がその名を呼べば、司さんは満足げに頷いた。
「ずっと、言わずにおこうと思っていました。墓場まで持っていくつもりで。ですが、美羽さんとお会いして……、あなたが、あの日、僕に想いを告げてくださった気持ちがわかりました」
長いまつ毛が一度上下して、眦が下がる。
「言わずには、いられないのですね」
司さんの笑みは、いつだってとても美しい。花が開く瞬間のようだ。
「僕はずっと、美羽さんを愛していましたよ。今も、愛しています。これから先も、ずっと」
それは、予想もしていなかった告白だった。
それなのに、不思議なほどに心臓は落ち着いている。脈を打つことすら忘れているみたいに。
「出会った当初、美羽さんに望を重ねていたのは本当です。ですが、美羽さんと接していくうちに、美羽さんが望とは違うことにはすぐに気づきました。当たり前です、他人なのですから」
司さんは滔々と、当時からの想いを告げる。
雪は窓の外を覆い、世界から、私と彼の二人だけを切り離したようだった。
「けれど、美羽さんには婚約者がいますし、僕たちには身分の差もあります。家庭教師が成人していない教え子に手を出すなんてもってのほかです。ですから、僕は自分に言い聞かせました。妹に重ね合わせているだけで、美羽さんを愛してなどいないと」
それでも、気持ちはごまかせない。私が、そうであったように。
「美羽さんが心臓移植のことを知って、まず最初に抱いたのは恐怖です。僕は、どう思われるのだろうと。それなのに、あなたは、僕を愛していると言った。臓器移植に関わった医者は、記憶転移について知っています。僕は、あなたが妹の感情を勘違いしているのだと思った。それで、突き放したんです」
医者と患者の立場以上に、司さんには抱えているものがあった。そして、そのどちらもを隠し通すことはできなかった。
「だから、僕はあなたから離れた。看護婦として生き、高嶺美羽として生きて欲しかったから。僕の人生に、あなたを縛り付けたくなかったのです」
かつて、瑞希くんは私を縛り付けておこうとした。婚約者として、愛しているがゆえに、安全な場所で穏やかに暮らして欲しいと。
司さんの行動は、それとは正反対だ。私に、高嶺美羽として生きていってもらうために、自ら離れ、自由を与えた。
それこそが真の幸せなのだと、両親と妹の死に縛られた司さんは知っていたのだろう。
私も、彼も、他人に人生を縛られ、それでももがき続けた。
いつか、自由に空を羽ばたくことを夢に見て。
司さんと過ごしたすべての日々が、色鮮やかに蘇る。
不意に、これまでのことが今に繋がっていく。
「……だから、あの時、背広を着たの?」
これまで黙って話を聞いていた私の最初の質問に、司さんは心底不思議そうな顔をした。
「百貨店に本を買いに行った日よ。司さんが背広だなんて珍しいと思ったの。もしかして、お洒落して来てくださったの?」
問えば、司さんは意表を突かれたというように瞬きを繰り返し……、やがて羞恥に耳を赤く染めた。
「最初に聞くのが、それなのですか?」
「いいじゃない。だって、ずっと思ってたのよ。私、あのせいで、司さんがいなくなってから、司さんを探すたびに、和装じゃなくて背広かもしれないと思って、とにかくたくさんの男性を見たのよ!」
「……なんですか、それは」
先生はなにがおかしかったのか、ふっと息を漏らすと、いつしか私に見せた少年のような幼いくしゃっとした笑みを見せた。ふふふ、と笑声が漏れている。
「そんなことを、なさられていたのですか?」
「笑わないで! 司さんが引っ越すって知らない時だったし、会いたかったのよ!」
なぜか私まで恥ずかしくなってくる。もう、と手を振り上げようとすると、その手がふわりと握られた。
「探してくださったのですね?」
「……当たり前じゃない」
私のほうが、ずっとずっと、司さんを大好きだったもの。
私が司さんの目を見つめると、彼の綺麗な夜空を閉じ込めた目がきらりと光る。
「まだ、美羽さんが僕を愛してくださっていると自惚れてしまいそうです」
「……自惚れればいいじゃない」
言えば、司さんに引き寄せられる。彼は、机に身を乗り出すように私を抱きしめた。
別れを告げたあの日とは違う、ぬくもりに満ちた抱擁。
「私、望さんじゃないわ」
「知っています」
私は司さんの肩に顔をうずめる。
「高嶺美羽として、司さんが好きなの。会えなくてもいいなんて、嘘。ずっと、ずっと会いたかったわ」
背中に手を回す。
どこからかふわりと梔子の香りがした。




