第八話 薔薇と旅立ち
看護婦養成所を卒業し、看護婦として病院勤めが始まって半年と少しが過ぎた。
養成所の二年はあっという間に過ぎ、病院での時間はもっと一瞬だった。命に関わる仕事ということもあって中々息をつく間もなく、この二年と半年で私はすっかり自立したと言える。
二十歳。私も正式に成人だ。相変わらず虚弱な体質は変わらないが、この体との付き合いかたもわかってきた。少なくとも、女学校時代に比べれば随分と良くなった。今では知恵熱を出しても一日眠れば大抵の場合は翌日回復している。看護婦としての知識も役に立っているのかもしれない。
「だから、本当に平気なんですよ。あまりそう心配なさらないで」
私がお父さまにそう言い聞かせると、お父さまはようやく「わかった」と笑みを浮かべた。
今日は、久しぶりの実家帰省だ。心配性な両親が毎週のように「元気にしているか?」「顔を出せ」と手紙をよこすので、月に一度こうして実家へ顔を出すのが私の恒例行事となっている。毎回、病院での仕事や週末の過ごしかた、体調を報告するのがすっかり決まりとなってしまった。
とはいえ、今日の用事はそれだけではなかった。
両親との会話を終えた私は「忘れ物があって」と自室へ向かう。すでに娘は家を出たというのに、部屋をそのままにしてくれているのは両親なりの気遣いだろう。
私は学習机の引き出しを開けた。
そこには、三年前と変わらず一枚の切符が入っている。北の街へ行くための片道切符。
「……先生」
本当は、もっと早くに会いに行きたかった。看護婦になったと伝えたかったし、高嶺美羽として、やはり先生が好きだともう一度伝えたかった。
だが、春は養成所の退寮と病院近くの家への引っ越しがあって休みなどなかったし、病院には夏休みもない。
今度の年末年始にようやく初めての長期休暇が与えられたのだ。
本屋で鐡道の時刻表と地図を買い、北の街へ行くための準備を毎日少しずつしてきた。百貨店で外套も買った。
北の街までは、乗り換えを含めて片道十二時間。この街の駅舎から大きな都会の駅舎まで鐡道で行き、そこからは蒸気機関車が運んでくれる。瑞希くんがくれたこの特急鐡道の切符は、調べたところによると蒸気機関車のものだった。高価なものであるのに、餞別として渡してくれた瑞希くんには感謝してもしきれない。
「ありがとうございます」
私は瑞希くんに届かぬ感謝を述べて、切符を鞄にしまう。
行って、先生に会えるとは限らない。むしろ、この街にいるのかも。家の住所も知らなければ、先生がまだそこに住んでいるかすらもわからないのだ。あれからすでに三年が経っている。
けれど、一縷の希望を捨てるわけにもいかない。
諦めなければ必ず夢は叶うと信じたかったし、瑞希くんだって言っていた。
「運命か、あるいは望さんが導いてくれる……」
私は自分の胸元に手を当てる。とくん。応えるように心臓は静かに脈を打つ。
いよいよ、旅立ちの時が迫っていた。
時は巡り、冬が訪れる。今朝、新聞を確認したところによると、北のほうでは雪の予報が出ているとのことだった。
人生で一度も見たことのない雪。いつか、一緒に見たいねと夢の中で先生と語らいあった雪。
「……いよいよね」
私は外套の襟もとを合わせ、旅行用の鞄を手に鐡道へ乗り込んだ。
年末年始は多くの人が休みを利用して帰省や旅行に出かける。車内はごった返しており、大きな駅へ近づくほどにその人は増えていった。
人々に揉まれながらも、なんとか目的の駅で降りる。私はその見事な煉瓦作りの駅舎に感動を覚えながら蒸気機関車の乗り場へと向かった。
蒸気機関車に乗り、空いている席へ腰かける。ようやくひと心地つけたことで安堵の息が漏れた。
ここまでの長距離移動は初めてだ。しかも、一人で。不安をごまかすように、私は切られた切符に視線を落とす。
もうすぐ、先生に会える。そう思えば、いくらか心も落ち着く。いや、正確に言えば。
――会えなくても、けじめにはなるわ。
これ以上、先生を追いかけなくても良いのだと。先生を想わずとも、私はきっと前を向いて生きていける。
北の街まで行って会えなければ、それもまた運命で。それは、つまり、先生と、望さんと、私の間にあったものが清算されたという証にもなるような気がしている。
そう思えば、先生に会えないことは、決して悪いことではないように思えた。
先生は望さんにも、私にも、罪悪感を抱いている。なんらかの罰を背負っている気持ちになっていて、残りの人生を贖罪のために生きている節がある。真偽のほどは確かめようがないが、もしも、それがなくなるのだとすればとても幸せなことだ。
できれば、私がその手助けをしたいけれど。それはあくまでも私が先生に感じている恩義を返すという利己的なものに過ぎない。
――だから、会えなくてもいい。
北の街へ行くと決めた時から、私の中にはそんな考えが浮かんでいる。少しずつ、その気持ちが大きく膨らんでいっている。
三年という長い時間を経て、私はきっと大人になった。この気持ちは、その証拠だ。
蒸気機関車のけたたましい汽笛が窓の外から聞こえた。続けて、ゆっくりと車輪が動き出す。ガタン、ゴトンと大きな音に合わせて汽車は北へ向けて走り出した。
景色が窓の外を流れていく。
私はその揺れに身を任せ、窓に頭を預けて目を閉じた。
――願わくば、先生に会えますように。いいえ。会えなくてもいい。先生が、どうか、幸せに過ごせていますように。
その日、私は久しぶりに夢を見た。先生の夢だ。
だが、不思議なことに夢の中の先生は青年ではなく、私の知っている大人になってからの先生だった。
私と先生は、家の縁側に座っている。梔子の咲き誇る庭を見つめながら、私は不意にその花にどうしても触れたくなった。
立ち上がると、先生が心配そうに私を呼ぶ。
「どうしたんだい? 望、どこに行くの?」
私は先生を安心させたくて笑った。
「大丈夫よ、少しお花を見に行くだけ。私はいつだって、傍にいるんだから」
逡巡し、先生は「わかった」とぎこちなく笑う。
「行っておいで」
それは今にも泣きだしそうな、けれど、とびきり美しい梔子の香りのする笑みだった。




