第六話 薔薇と試験
先生が引っ越しをしたらしいと聞いたのは、夏も終わりを迎えようかという頃だった。
瑞希くんの手紙に書かれていた通りだ。
家庭教師を辞めた後、先生とは一切接点がなくなったと思っていたが、どうやらお父さまは連絡を取り合っていたらしい。私の後任の家庭教師が見つかったという知らせと共にその話を聞かされた。
「本当に律儀な人だ。ご家庭の事情がなければ、美羽の卒業まで見てほしかったが」
お父さまは先生が私の心臓移植を手術したことも、私が先生を好いていることも知らない。先生の嘘を信じ、一人のほほんと口にした。
「新しい家庭教師は、元々看護婦だったそうだ。もう良い年だからと病院を辞めたらしくてな。美羽にぴったりだと紹介してくれたんだよ。ご自身の引っ越しで忙しいだろうに、色々と根回ししてくださったらしい」
「そうですか、ありがとうございます」
私が礼を述べると、お父さまは複雑な面持ちで息を吐いた。
「それにしても、美羽が看護婦か……」
瑞希くん同様、お父さまもまた私の体調を心配しているようだったが、彼はそれ以上何も言わなかった。私が瑞希くんと婚約破棄をした要因の一つだとわかっていて、同じ轍を踏まないようにしているのだろう。
代わりに、「人生、なにがあるかわからないもんだな」とお父さまは会話を締めくくり、新聞を広げた。
私もまた自室に戻り、机の引き出しを開ける。
しまっていた切符を手に取り、私はしばらくそれを眺めた。
「もう、行かれてしまったのね」
てっきり、一言くらいなにかあるのではないかと期待していた。瑞希くんからこの切符を手渡された時は、まだ引っ越していなかったはずだ。近々、と書かれていたが、まさか本当に直近だとは思わなかった。
「……先生……」
私は切符に口づける。
今、先生に会ったところでどうしようもないことは自分が一番よくわかっている。
木梨望ではなく、高嶺美羽として先生に会うためには、私自身にもけじめが必要だということも。
――もう、とっくに決めたことじゃない。
私は切符を引き出しにしまい、代わりに先生がくださった本を開く。先生と買った辞書を片手に翻訳を進める。
次に先生に会う時は、看護婦になってからと決めた。
この夢だけは、まぎれもなく私自身の夢で、私と先生が約束したことだから。
婚約者と別れ、嫁ぎ先もなくなった今、私がやるべきことは勉強だ。冬には、看護婦養成所への入学試験もある。看護婦養成所の生徒募集数は例年少ない。その門戸は決して広くはないのだ。先生がせっかく後任のかたを、それも素晴らしい経歴のかたを見つけてくださったのだから、その期待に応えねばならない。
私は挟んでいた栞を撫で、万年筆を握った。
そうこうしているうちに、季節は過ぎていく。
新しい家庭教師は、先生同様、看護婦になりたい私の夢を応援してくださる良いかたで、しかも実践的な知識も指導してくださった。看護婦養成所の試験は筆記と面接のみだが、看護とはなんたるか実体験を通して語られることには説得力があるし、面接対策としてはこのうえない指導だった。
女学校では、菜々ちゃんと将来に向けて語らう日が増えた。卒業まで半年となり、嫁ぐ人もいれば、菜々ちゃんのように職業婦人になる人もいる。学年にはごくわずかだが大学入学を目指す人もいた。
それぞれ人生の岐路に立たされる中、先生のことも、瑞希くんのことも考える間もない日々を繰り返し、私はいよいよ看護婦養成所の試験日を迎える。
ツンと鼻先が痛くなるほど冷え込んだ日だった。
私はお守りがわりに胸元へ忍ばせた栞に触れ、養成所の門を見つめる。同じように緊張した面持ちの女学生たちが何人も私の横を通り過ぎた。皆、看護婦を目指す人だ。
「大丈夫……」
私は深呼吸する。冬の空気が肺の奥深くまで入り込み、体の内側から頭を冷やす。
一礼してから門をくぐり、試験会場へと向かう。午前中は講堂で筆記試験が行われ、午後からは別の教室で面接。私は案内に従って指定された席へ座り、その時を待った。
果たして、筆記試験はなんの問題もなく、私は時間内にすべての回答を埋め終えた。
想定外のことが起きたのは、昼を挟んで面接会場へ向かおうかという時だ。
面接を前にお手洗いへ向かった矢先、そこで泣いている女学生に遭遇したのだ。
「ふっ、……くっ……う……」
声を殺して泣く彼女を、数名の女学生が驚いて見ながらも素通りしていく。皆、自分のことで一生懸命なのだ。面接まであまり時間もない。今ここでこの女学生を助ければ、確実に自分は遅刻してしまうとわかっているのだ。
だが、私は無意識のうちに彼女へハンケチを差し出していた。
「あの……、大丈夫ですか?」
女学生は首をふるふると横に振りながらも、「ごめんなさい」としきりに泣いている。
「良かったら、使ってください」
私がもう一度ハンケチを差し出すと、彼女はようやく顔を上げた。
「……ありがとう」
彼女は私からハンケチを受け取ると、涙を必死に拭った。が、涙の痕はそうたやすく消えない。泣きはらした赤い目がお手洗いの壁にかけられた鏡に痛々しく映った。
「ごめんなさい、もう、大丈夫だから」
「でも……」
「遅刻してしまうわ」
彼女の言う通りだ。そろそろ面接が始まってしまう。 見知らぬ人を、それも少しの応募枠を争う相手を助けて人生を棒に振るかもしれない。
わかっていても、私はその場から動けなかった。
私がこれまでに学んできた看護とはまさに、目の前の困っている人を助けることだったから。
誰かを守りたいと願うこと。誰かを大切に思う気持ち。愛するということ。
それをわかりやすく目に見える形にしたのが医療であり、看護なのだと。
「あなただけでも行ったほうが良いわ。私は、もう、ダメだから」
彼女は「行って」と私の背を叩く。
けれど、私は彼女の手を取った。
「大丈夫です。きっと間に合います。だから、一緒に行きましょう」
「でも、こんな顔で……」
「泣くほど必死だったのだと、伝わることのなにが悪いのですか? 素晴らしいことですわ」
私も、先生を泣くほど愛した。瑞希くんと別れて泣いた。それはすべて、それだけ想いを募らせたからだ。
私が精一杯の笑みを作ると、女学生は瞬きを何度か繰り返した。
彼女の涙が止まり、やがて、彼女は私の手を握り返した。
「ありがとう」
私たちは走らない程度に急ぎ足で面接会場へ向かう。彼女は私とは違う会場で、途中で別れることになった。
別れ際、彼女が聞いたことのない大きな声を出した。
「そうだわ! あなた、お名前は?」
「高嶺美羽です」
私が応えると、彼女はにこりと微笑んで手を挙げた。
彼女は私が見えなくなるまで、ずっとその場で手を振っていた。早く行かなければ失格になるだろうに。何度も、何度も。
こうして私が面接会場についた時――、面接はすでに始まっていた。




