第五話 薔薇と沈丁花
瑞希くんから婚約破棄を受け入れる申し出があったのは、それから一週間後のことだった。
瑞希くん馴染みの喫茶店で珈琲をすすっていた彼は、少しやつれているように見えた。
「まだ、体調がすぐれないのか?」
開口一番、瑞希くんの口調が明らかに杞憂を含んでいた。罵声ではなく心配が出るとは。瑞希くんはとんだお人好しである。
熱がしばらく長引いた関係であまり食欲がわかず、私も少し痩せたのかもしれない。
「いいえ、もう平気ですわ」
「なら良かった。かけて、好きなものを頼むと良い」
私は瑞希くんの向かいに座り、お品書きから温かいお茶を頼む。
注文が届くまで、改めて瑞希くんを見つめた。
いつもの明るい色合いではなく、黒い背広を着こなしていて落ち着いた雰囲気を醸し出している。表情は少し硬いが、空気感は穏やかだった。
瑞希くんは静かにカップを机に置くと、鞄から封筒を取り出した。先生のことを調べた日のことが思い出されて背筋が伸びる。だが、その時の封筒とは大きさも色合いも違う。
「本当は、こういう形に残るものを渡すのはどうかと思ったんだけど」
瑞希くんは言いながら私のほうへそれを差し出した。
綺麗な薔薇の箔押しがなされた爽やかな緑色の封筒には宛名も差出人も書かれていない。
「うまく、話せないかもしれないと思って」
「手紙、ですか?」
「ああ。思えば、美羽に手紙を書くのは初めてだな」
「今、読んでも?」
「いや……、それは……」
瑞希くんは逡巡ののちはにかむ。
「恥ずかしいから、俺が出てからにしてくれ」
「わかりました」
私は言われた通り、瑞希くんの手紙を机の脇に避ける。
もう少し会話が続くものかと思ったが、瑞希くんは用が済んだとばかりに背広を正して立ち上がった。
思わず尋ねてしまう。
「もう、行かれるのですか?」
瑞希くんは鞄を持ち上げ、帽子をとって目深にかぶった。彼の綺麗な沈丁花色の瞳に影が落ち、表情が隠れる。口角がほんの少し持ち上がったのだけが見えた。
「……君は、世界で一番の悪女だな」
「え?」
「可愛いことを言って、そのつもりもない相手をその気にさせるなということだ。最後の忠告だから、とどめておいて」
瑞希くんは言うと、優雅に一礼して去っていく。その足音が、だんだんと遠のいていくのを私は背中で聞いていた。
入れ違いに、店員が私の頼んだお茶を持って入ってくる。瑞希くんが先に出ていくことを知っていたのか、特に気にした様子もなく私の前に湯呑と茶菓子を置いていくと個室の扉を閉めた。
私はお茶を一口すすり、瑞希くんが残していった手紙を開く。
瑞希くんらしい端正で角ばった文字が行儀良く並び、私への愛や、これまでの感謝が綴られていた。やはり、ここにも私を罵倒するようなものはない。
二枚目に差し掛かったところで、私は手を止めた。
『みぃに、謝りたいことがある』
「瑞希くんが、謝りたいこと……?」
心当たりは一つもなかった。私は続く文字を読む。
『実は、以前からみぃが俺を好いていないことに気づいていたんだ。みぃの嘘はすぐにわかる。俺が君を愛しているから、余計にわかったのかもしれない。だから、遅かれ早かれこうなることはわかっていた。むしろ、みぃの幸せを思うなら、俺のほうからもっと早くに婚約破棄を申し出るべきだった』
私は思わず口元を抑える。だが、驚きのあまり声も出なかった。
『それでも、手放せなかった。政略的な側面もあるが、それ以上に俺がそうしたくなかったんだ。看護婦になる夢も、君の恋心も、俺のわがままで振り回してしまった。申し訳ない』
瑞希くんはどこまでも誠実で、実直だ。
どれほど私を愛してくれていたのか、どれほど私を想ってくれていたのか。それらが文面からひしひしと伝わってきた。
私は瑞希くんを愛することができなかったけれど、とても尊敬していた。人として、これほど素敵な人に出会えたことは、私にとってこのうえなく幸せなことだ。
「……瑞希くん……」
私の眼に自然と涙が浮かぶ。手紙を汚してしまわぬよう、私はそっとハンケチで涙を拭う。
手紙はまだもう一枚あった。
『それと、もう一つ。俺は、みぃに謝らなければならないことがある』
書き出しを見て、思わず涙が止まる。
『木梨さんについて調べていた時に知ったことで、俺はみぃに伝えなかったことがある。言えば、みぃが俺の前からいなくなることがわかっていたから、わざと伝えなかった』
続く文章にはもっと驚かされた。
『彼は、近々この街を去るようだ』
「先生が、いなくなる……?」
もう二度と会えないだろうと心のどこかで予感はしていた。だが、まさか引っ越しとは。
私の手から手紙が滑り落ちる。
「あっ」
慌てて拾おうと手を伸ばし、私は落ちた封筒から、一枚、手紙ではない別の紙が落ちていることに気づく。
手紙と一緒に同封されていたらしい。
「これは……?」
拾い上げ、裏返す。
特急鐡道の切符だ。行先はここからはるか北にある街。
「どうして、こんなものが……」
言いかけて、私は落としてしまった手紙を拾い上げ、続きに目を通した。
『俺がわかったのはここまで。後は運命か……、もしくは彼の妹君が、みぃを導いてくれると信じているよ』
瑞希くんの手紙はそこで終わっていた。
『どうか、お幸せに』
末尾にも名前はない。彼が、丸井瑞希という人間を忘れてくれと願っているかのように。
私は手紙と切符を握り締める。
もう涙は流れなかった。




