第四話 薔薇と決別
その晩、私は熱を出した。
帰り道、先生への想いを自覚し、このことを瑞希くんにどう伝えようかと悩んでいたからだろうか。あるいは、暑い日差しにやられてしまったのか。
どちらにせよ、久しぶりの高熱に私は自身を責めるしかできなかった。
この体に生んだ両親を責めることはできないし、心臓移植をして命を永らえることができている以上、先生や病院を恨む気持ちもない。
こうなると、どうしても湧いてしまうやるせなさの矛先は自分に向けるしかないのだ。
またみなに迷惑をかけると思うとままならないし、心配や気遣いを過分に受けることも望んではいない。望さんの記憶が夢として流れ込んできてしまうことも、今や抵抗があった。相手が誰かわかってしまったし、結末もわかってしまったから余計に。
せっかく鳥かごを自分の意志で出たとしても、また鳥かごに引き戻されるような気がする。
私が溜息をつくと、部屋の扉が開かれた。戸も叩かずに入ってくるのは瑞希くんだ。
「みぃ、大丈夫か?」
心配そうな声音で顔を見ずともその予想が当たったとわかる。仕事かその会食帰りに来てくれたのだろう。瑞希くんからは煙草の匂いがした。
私が寝台から瑞希くんのほうへ顔を向けると、彼は背広を脱ぎ、扇子で顔や体を扇いでいるところだった。よほど急いで来たのか、額や頬にうっすらと汗をかいている。ハンケチを差し出そうとして、手元にないことに気づく。体が怠く、寝台を出ることができない私は伸ばした手を元に戻した。
「ごめんなさい、なにも、できなくて」
掠れた声で言えば、手近な椅子を持って瑞希くんが移動してくる。寝台のすぐ脇に椅子を置いて座ると
「みぃは、なにもしなくていいんだよ」
と瑞希くんは呆れたように笑った。瑞希くんは自分のハンケチを取り出して顔や首筋を拭う。扇子で軽く扇ぎながら、「暑いな」と苦笑した。
「今日は、ご学友と外へ出ていたんだろう? 熱に当てられたのかもな」
「そう、かもしれません」
「まだ暑い日が続くから、しばらくは外に出ないほうがいいな」
今週は瑞希くんも夏休みをとれたからと出かける予定をいくつか入れていた。そのことを彼は言っているのだろう。ぼんやりとする頭で思い出しながら、なんと答えるのが正解なのだろうかと考えてしまう。
婚約者として答えるのなら、行きたいと表明すべきだろう。病人として彼の言葉を尊重するのであれば、わかりました、だ。
私が返事をためらっていると、よほど体調が悪いと思われたのか、瑞希くんは険しい顔つきで私の手を握った。互いの手汗でしっとりとしていて、いつもよりも指先がより生々しく触れあっているように感じる。決して良い心地とは言えなかった。
「……こんな時に、する話じゃないのはわかってる」
瑞希くんの切り出しかたに、嫌な予感がした。
「でも、やっぱり心配なんだ。許してほしい」
目だけで続きを促すと、瑞希くんは握っている私の手に口付けを落とした。祈りの儀式みたいに。
「みぃが、俺を愛していると言ってくれて嬉しかった。あれから、毎日思い出す。思い出すほど、みぃを守りたい気持ちが膨らんでいくんだ。わかるか?」
――わかる。わかりますよ、瑞希くん。その恐ろしさも、辛さも、悲しみも。すべて。
私が首肯すると瑞希くんは少しほっとしたらしい。強張っていた表情が微かに緩んだ。
一方で、私の中に生まれた嫌な予感はどんどんと大きくなっていく。
「みぃの気持ちを考えたいと思っているのは本当なんだ。本当だけど……」
瑞希くんは言いよどみ、私の様子を窺うように顔を上げる。私は熱と嫌悪感とで顔をしかめる以外にできなかった。それを見てためらってくれれば、気が変わってくれれば、それでも良かった。
だが、瑞希くんは顔色を窺ったうえで、口を開いた。
どうしても伝えたかったのだろう。私が先生に想いを伝えたように。
「やっぱり、看護婦にはならないでほしい」
瑞希くんの手は冷たく、少し震えている。
どれほどの勇気でそれを伝えてくれたのか、今ならわかる。
愛することが理屈ではないように、愛せないこともまた、理屈ではない。そして、一人の人に対してその感情が同居することも時にはあるのだ。運命として。その時は、どちらかを選ばなくてはいけない。なにを得るために、なにを失うか。自分の気持ちを優先するならば、どちらも失う覚悟まで決めて。
瑞希くんは私を愛してくれている。私から夢を奪えば、私を失うかもしれないとわかっていて、それでも私を愛していると伝えるために口にしてくれたのだ。
けれど。
「……ごめんなさい」
夢まで奪われてしまったら、どうして一緒にいられようか。
先生を愛している私がこれ以上を失って、どうして生きていけようか。
これ以上瑞希くんを傷つけずに生きていく方法など、私は知らない。
「婚約を、破棄してください」
「……美羽……」
「熱に、浮かされて言っているわけではありません。私、ずっと、考えていたんです」
熱が上がっている気がする。視界がぼやけて、頭がぐらぐらする。気持ちが悪いし、心臓が痛い。
それでも、伝えなくちゃいけない。伝えたい思いが涙と一緒に溢れる。
「私、自分の気持ちを、ずっとごまかしてきました。小さい頃からずっと、そうだった。遊びたくても、遊べなくて。外に出たくても、出られなくて。病気のせいで我慢するのが当たり前だったんです」
「それは、だって……」
「生きることこそ、尊いことだから。仕方のないことだって、思ってきました。でも、今は違います。私はもう大人だし、熱もだすけど、それは私の夢を奪うようなものではありません」
私は静かに目を閉じる。
これまでのことが鮮やかに蘇って来て、まるで走馬灯でも見ているみたいだと思った。
私はまだ、死ねないのに。死ぬつもりなんて、ないのに。
「それに」
私はその記憶の一番色濃い彼の笑みを心に刻む。
「私、愛してる人がいるんです」
瑞希くんを大切に思う気持ちは本当だ。瑞希くんを愛したいと思ったことも。瑞希くんを愛せるようになればと祈った日々も。
けれど、それが本当の愛に変わることはなかった。
望さんの心臓で生きると決めた日から、私は望さんのぶんまで、先生を愛している。
たとえその恋が、報われないものだとしても。
「私を、愛してくださって、ありがとうございました」
瑞希くんの好きな、愛らしくて、美しい令嬢として笑えているだろうか。
涙で滲んだ視界では、瑞希くんの顔は見えなかった。




