第三話 薔薇と菜の花
少し散歩してから帰りましょうと菜々ちゃんに提案され、私たちはかき氷屋を出て浜辺に向かう。夏の日に照らされた砂浜は靴を介してもなお熱く、私も菜々ちゃんも驚き、顔を見合わせて笑いあった。
波の音も、モダンな水着を着て楽しむ見知らぬ家族や友人たちの声も、海鳥の鳴き声も心地良い。開放感に自然と心も明るくなる。
――でも。先生は、海より山って感じがするわね。
想像して、また考えていると気づく。余計な思考を振り払うように、私は波に近づいてそっと手を伸ばした。海水は想定していたよりも冷たかった。慌てて手を引っ込めると、隣で菜々ちゃんがハンケチを差し出しながらクスクスと笑っている。
「ふふ、美羽って案外子供っぽいわよね」
「……別にいいじゃない、ちょっとくらい」
「ええ。あたしはどんな美羽でも大好きよ」
「菜々ちゃん、私をからかってるでしょう」
「あら、本気だわ」
「え」
あっけらかんと言う菜々ちゃんの顔を見れば、やはりニヤニヤと楽しそうにしていた。
「もう!」
私は海水を掬って菜々ちゃんのほうへ放つ。水滴と菜々ちゃんの笑顔が弾けるようにきらめいた。
「あっ! やったわね! こら!」
菜々ちゃんが仕返しとばかりに私へ水をかける。水しぶきが火照った体を冷まして気持ちが良い。
私たちはそれから、近くで遊んでいた子供たちに「お姉ちゃんたち、なにしてるの?」と聞かれるまでしばらく猫や犬と戯れるような水遊びを楽しんだ。
着ていた服が濡れ、肌に張り付く。明らかにやりすぎだ。
「怒られちゃわないかしら」
「大丈夫よ。すぐに乾くわ。それまでちょっと休憩にしましょ」
菜々ちゃんは悪びれた様子もなく歩き出した。連れられて、海の家へ向かう。
軒先を借りて頼んだラムネを飲みながら、私たちは再び海を眺めた。
「元気になった?」
「……またそれ?」
「あたし、諦めが悪いのよ。美羽も知ってるでしょ?」
「そうだけど……」
菜々ちゃんに言われ、そんなに落ち込んでいただろうかと思う。たしかに、先生と別れた一週間はどうにも調子が悪くて、学校も一日休んだが、それ以外は普通に振舞えていたはずだ。少なくとも、先週一週間は休んでもいない。
だとすればやはり、私の表情や態度に出ていたのだろう。
「そんなに、わかりやすいかしら?」
「ええ。それはもう。まあ、あたしが美羽をよく見てるからっていうのもあるんでしょうけど、かなり落ち込んでるように見えたわよ。失恋の話を聞いて納得したんだけど、それでもまだ本調子じゃなさそうね」
菜々ちゃんは瓶に入ったビイドロ玉を転がしながら、なんてことのないように続ける。
「さっきも言ったけど、恋って無理やり諦めるものじゃないと思うわ」
「婚約者がいてもそう思う?」
「ええ。だって、婚約者は美羽が決めたわけじゃないもの」
「でも、愛さなくちゃいけない相手よ」
「そうかしら?」
「え?」
「政略結婚や見合い婚もあるし、結婚してから離婚だってするわ。どうしたって、愛せない人はいる」
「相手が愛してくれていても?」
「婚約者と、自分は違う人間よ」
菜々ちゃんは呆れたように私を横目に見て、「そもそも」と続ける。
「誰かを好きになるってそんな簡単な理屈じゃないでしょう? どんな障害があっても、理不尽なことがあっても、それでも愛してしまうことってたくさんあるわよ」
ビイドロ玉が反射して光る。菜々ちゃんの横顔にその光が落ちて彼女の美しさを引き立てている。
「菜々ちゃんにも、そういう経験があるの?」
「そうね。ずっと、ずっと、そういう恋をしてるわ」
「辛くない?」
「辛いわよ。すっごく辛い」
「別の、好きな人を作ろうとは思わないの?」
「考えたことはあるけど……、結局作れなかったの。どうしても、その人が頭にちらついて、比べたり、落ち込んだりしてしまうから。でも、今はそれで良いと思ってるわ」
「どうして?」
「だって、辛いことばかりじゃないもの。楽しいことや嬉しいこともたくさんあって、それだけで生きていけると思うわ。相手が幸せなら、それでも良いって思えるの」
「楽しいことや、嬉しいこと……」
不意に先生と過ごした日々のことが蘇った。優しい笑み。穏やかな声。梔子の香り。特別で、美しく、幸せだった日々。
「ね? あるでしょう?」
菜々ちゃんが笑う。大輪の花が咲いたみたいな満面の笑みだ。
「……うん。すごく、すごく幸せで……、楽しいことも、たくさんあったわ」
言いながら、この半月もの間に溜め込んでいた気持ちが溢れてくる。
「先生に、もう一度会いたい。先生に、また名前で呼んでほしい。私だけを見て、ううん、私だけじゃなくても良いから。先生と勉強して、本を読んで、たくさんお話をしたい」
「うん」
「先生を守りたいの。幸せでいてほしいし、たくさん笑っていてほしい」
話ながら、私はそうかと自覚した。
きっと、これが愛するということなのだ。
そして、私は先生と別れたあの日に決めた。
――高嶺美羽として愛する先生のために、看護婦になるのだと。だったら。
私は一気に残ったラムネを飲み干す。空になった瓶の中をビイドロ玉が転がり、カランコロンと涼やかな音が響いた。
「ねえ、菜々ちゃん。私決めたわ」
「ん?」
「私が、きちんと高嶺美羽として生きていけるようになったら、その時、先生にもう一度会いに行く」
「へ?」
菜々ちゃんは、私の中に先生の妹が生きていることを知らない。だから、要領の得ない顔をしている。
だが、私の意志が変わらないと見ると、菜々ちゃんはふっと笑みをこぼした。
「よくわからないけど……、少なくとも今より一歩前進ね」
「一歩どころか十歩前進することを言ってもいい?」
「もちろん」
先生に会いにいくために、やるべきことはたくさんある。
「私が婚約者と結婚を取りやめて、家を出て、看護婦になっても、友達でいてくれる?」
私の宣言に、菜々ちゃんは今度こそ目を瞬かさせ、驚きを隠さなかった。唖然としたように私を見て、けれどやはり王子さまよろしく端麗な笑みを浮かべる。
「……わお、それは素晴らしい人生ね。もちろんよ」
「それじゃあ、先生を追いかけ続けて、一生独身になっても?」
「もちろん。大歓迎よ。その時は一緒に暮らして、一緒に死にましょう」
「なんだか、菜々ちゃんが言うと本当にそうなりそうで怖いわね」
「失礼ね。美羽が言ったんじゃない」
「ふふ、ごめんね。菜々ちゃん大好き」
本当にどこまでも心強い親友がいたものだ。彼女がいれば、私はきっとこの先、なんだってできる気がする。
いつも菜々ちゃんに守られてばかりだ。いつか、恩返しがしたい。私も菜々ちゃんを守りたい。
それは、愛によく似ている。
「菜々ちゃんが辛いときは、私が守るからね」
「……どうしたの、急に」
「いつも菜々ちゃんが守ってくれるから、私もお返しがしたいの」
「充分よ。でも、そうね。いつか、楽しみにしてるわ」
菜々ちゃんもラムネを飲み干して「行こっか」と立ち上がる。
ずぶ濡れだったはずの私の服も、菜々ちゃんの服も、いつの間にかすっかり乾いていた。




