第二話 薔薇と海
菜々ちゃんとの待ち合わせ場所である駅舎は人の往来が多かった。
先生の面影を探す行為がすっかり癖になっている私は、相変わらず、駅舎なら会えるのではないかと淡い期待を抱いて和装姿の男性を視界の隅で追いかけていた。
それどころか最近は、先生が背広姿かもしれないと服装だけではなく背丈や髪形にも注意を払っている。
百貨店へ本を買いに行ったあの日が夢のようだ。背広姿の先生を今でも鮮明に思い出せる。綺麗な立ち姿は雰囲気があって、もしかして医者の時代は背広だっただろうかと妄想に耽った。
先生のことは忘れなくてはいけないのに。思えば思うほど、先生の影は日増しに色濃くなっていく。
もはや、望さんの心臓に関係なく、私自身の理性がそうさせているのではないかと思える。
私が思考を追い払うように首を横に振ったところで、私の名を呼ぶ声が聞こえた。
「美羽!」
呼ばれたほうへ顔を向けると、日傘を手にした菜々ちゃんがいた。
「あっ、菜々ちゃん」
「ごめん、お待たせ。……なんか、体調悪い?」
「い、いいえ! 平気よ。少し暑くてぼんやりしちゃっただけ」
私は慌てて笑顔を作る。
数日前から学校が夏休みに入り、今日は久しぶりの菜々ちゃんとの再会だ。菜々ちゃんが一緒にかき氷を食べに行こうと誘ってくれた。
夏休み直前、菜々ちゃんには失恋をしたことも、先生とお別れしたことも伝えてあるが、暗い顔を見せて心配させたくはなかった。
「平気そうな顔しちゃって。まだ失恋を引きずってるんでしょ?」
「……違うってば。ほら、かき氷食べに行くんでしょう?」
「行くけど。別に、平気なふりをする必要はないって言ってるのよ」
「そんなんじゃないわ。今日は菜々ちゃんと楽しむって決めてるの」
だから行きましょ、と私は椅子から立ち上がって菜々ちゃんの腕に自分の腕を絡める。
菜々ちゃんはそんな私を少し冷めた目で見つつも、「美羽が良いなら良いけどさ」と全く良くは思っていない風な相槌を打って歩き出した。
駅舎から出ている鐡道に乗ること三十分。
菜々ちゃんがお勧めだというかき氷屋は海沿いの小さな民家だった。
「ここ、父親の知り合いがやってるお店なの。去年から始めたのよ。すいませーん!」
菜々ちゃんが声をかけると奥から店員がやってくる。先に注文を受ける方式らしく、私と菜々ちゃんはそれぞれ苺と小豆を頼んだ。
市街地から少し外れているためか、人は少なく、私たちは縁側へと案内される。小さな円卓と座布団が敷かれただけのそこに腰かけると、目の前に輝く海が見えた。
「わぁ……」
「良いところでしょう? あたしのお気に入りよ」
「うん、とっても素敵だわ」
「良かった。美羽が少し元気になって」
菜々ちゃんの綺麗な笑みがこちらに向けられ、少し照れくさい。私が「ありがとう」と礼を言えば、菜々ちゃんは「どういたしまして」とやはり端麗に微笑んだ。
それから他愛のない話をしているうちにかき氷が運ばれてきて、私たちは舌鼓を打つ。茹だるような熱を忘れさせる美味しさだった。
冷たくて甘いそれが先生のようだと思い、もはや病気だと自分が恨めしくなる。
最後の一口を食べ終えると、「おまけ」と店員が温かいお茶を持ってきてくれる。かき氷で冷えた体にちょうど良かった。
お茶を飲み、なにを語らうでもなく二人で海を見つめる。
吊るされた風鈴が海風に揺れてチリンと音を立てる。
縁側という場所がそうさせるのか、夢と重なって先生を思い出す。穏やかな声も、柔らかな笑顔も、梔子の香りも。
もう、先生とは会えない。それで良い……はずなのに。
私が膝を抱えていると、菜々ちゃんが「ねえ」と声をかけた。
「しつこいかもしれないけど、聞いてもいい?」
「うん」
「美羽は、本当にこのままでいいの?」
「え?」
見れば、いつになく真剣な顔で菜々ちゃんがこちらを見つめている。
「なに、が……?」
「わかってるくせにまだ強がるのね。やっぱり美羽って変だわ」
菜々ちゃんの言葉には棘があった。率直で辛辣なのはいつものことだが、そこに悪意が込められているのは珍しい。
「どうして、諦めきれないものを手放そうとするの?」
波の音と風鈴の音、蝉の鳴き声が、静かな店内に響く。
菜々ちゃんの手が円卓を超えて、膝を抱く私の手に伸びてくる。
「あたしだったら、絶対にそんなことしないわ」
「……それは、菜々ちゃんだからよ。私には、そんな勇気も、度胸もないの」
苦笑すると、菜々ちゃんが握った手に力がこもる。
「あるわ」
「菜々ちゃん」
「あるでしょう? 一緒に、看護実習に行った日のことを思い出してよ。美羽は最初、諦めたの。でも、きちんと思いを伝えた。それに、実習中だって体調を崩したのに頑張ったわよね? それが、勇気や度胸じゃなくてなんて言うのよ」
「……でも……」
「一度ふられたからってなに? もう一度……、ううん、納得するまで何回でも挑戦すればいいのよ」
そんなことはわかっている。わかっているけど。
私が唇を引き結ぶと、菜々ちゃんは私から手を離した。先ほどまで私に向けられていた燃えるような視線が海に向けられる。
「美羽の傍には、あたしがいるわ。どんな時でも。卒業しても、ずっと一緒にいてあげるから」
菜々ちゃんの表情を隠していた短い髪が海風に煽られる。
「だから、早く幸せになって頂戴」
泣きそうな横顔が目に焼き付いて離れない。
いつもは溌剌としている菜々ちゃんの声は想像できないほど弱々しくて、あっという間に海鳥の声にさらわれていった。




