第一話 薔薇と向日葵
先生が家庭教師を辞め、私の前から去って半月が経った。
本格的な夏が到来したにも関わらず、私の気分は暗いままだ。
先生と最後に別れを告げた翌日、先生のことは潔く諦めると決めたのに。どうしてだろう。先生と会わない日が増えれば増えるほど、先生とは本当にもう二度と会えないのだと実感して泣きそうになる。
ここ一週間はなんとかそんな自分をたしなめるように、女学校へ行って菜々ちゃんや学友たちと勉学に励み、休日はできる限り瑞希くんや両親と出かける予定を詰めた。先生のことを考えないように、看護婦になる夢と、瑞希くんと結婚するという現実を追いかける日々を送る。
瑞希くんと会う時は、ちょっとした言動から瑞希くんの良いところを探し、その日を楽しもうと努力すらしている。
そのはずなのに。
どうしていつも、私の眼は黒い羽織や地味な着物を見つけては一喜一憂してしまうのだろう。どこかで会えるのではないかと、会ってどうすることもできないのにそんなことを考えている。
私がぼんやりとしていると、「大丈夫か?」と声がかかった。
顔を上げると心配そうに眉を下げた瑞希くんの姿がある。先生は絶対に選ばないであろう明るい青の背広を着ている。
「……平気ですわ」
私は瑞希くんの手に引かれて立ち上がった。
――そうだ、今日は瑞希くんとの時間を楽しまなければ。
私は自分に言い聞かせ、瑞希くんの青い背広姿を目に焼き付ける。今日、なにかあった時に探すべき人は彼なのだと。
近頃、家庭教師が辞めたと聞いたからか、家にいても暇をするだろうと瑞希くんは仕事の合間を縫っては私を様々な場所へ連れ出してくれている。
今日私が瑞希くんに誘われたのは、丸井商會が協賛している美術展の催しだ。一般公開は明日からで、今日は新聞社や関係者へのお披露目会らしい。瑞希くんはもちろんその渦中の人物で、海外から集められたたくさんの絵画を見るよりも記者や関係者に話しかけられている時間のほうが長かった。
彼の談笑を待っている間、私ができることは一人絵を眺めるか、時折置かれた椅子に座って人を眺めるかしかない。
先生は絵画や芸術の知識もお持ちだろうか。そうでなくても、欧州の歴史について語らえるかもしれない。
隣にいるのが先生なら、ゆっくりと見て回ることも、感想を言いあうことも、お互いの時間を大切にしあいながらそれぞれの好きな絵を見つけることもできたかもしれない。
「みぃ」
声をかけられ我に返る。絵を見ていたつもりが、いつの間にか、また先生のことを考えている。
目の前の瑞希くんはどこかやるせない表情で肩をすくめた。
「本当に何度も中断して悪い。もっと落ち着いて見に来られる日にすれば良かったな」
「いいえ、そんな。お誘いいただけるだけで嬉しいですわ。お忙しいのに、むしろお邪魔してしまって」
「気に入った絵はあったか? 会期が終わった後になるが、買い取ることもできるぞ」
「絵画のことはあまり詳しくなくて……、もう少し色々見て回ってから考えます」
「ああ、そうだな。そうしよう」
瑞希くんは私の腰に手を回すと、「この先に今回の目玉があるんだ」と何枚かの絵画を通り過ぎた。
彼にとって絵画は趣味ではなく商売の道具なのだろう。私と楽しみたいという目的よりも、婚約者として役目を果たさなければという思いが大きく見てとれた。
先生との時間はそうではなかった。先生は勉強も、少しの雑談も、私を楽しませようとしてくれていたような気がする。雇われの身だったからだろうか。
「ほら、みぃ、見て。これが今回の大目玉だ」
軽く背を叩かれ顔を上げる。
私は今日、初めて先生の存在を忘れた。
濃く深い青の背景に、燃え上がるような黄色い大輪の向日葵。その花弁を縁取る橙はまばゆく輝いているようで、夏の訪れを告げるに相応しい絵画だ。
迫力のある構図に圧倒されてしまいそうなのに、一方で濃淡のついた青の背景に吸い込まれるような魅力がある。
「……素敵」
私が思わず感想を漏らせば、瑞希くんの表情がようやく安堵したようにほころんだ。
「そうだろう? 一年かけてやっと持ち主を口説き落としたんだ。買い取りはできないが、会期中だけお借りできることになって。それで、この美術展の開催にこぎつけた」
誇らしげな瑞希くんは、照明に照らされた絵画を見つめる。
「みぃに見せたくて、頑張ったから。嬉しいよ」
瑞希くんの笑みはとても美しかった。
その笑みに私の胸がひどく痛む。
――ようやく、瑞希くんと絵画展を楽しめそうだったのに。
私も、瑞希くんと同じ笑みを返したかった。それができないことが、情けなくて悲しい。
それでもとびきり美しく見えるよう、無理やりに作り笑いを浮かべた。
目の前に咲き誇る向日葵を真似るつもりで。
「本当に素敵な絵ですわ。見せてくださってありがとうございます」
瑞希くんの愛が伝われば伝わるほど心が痛い。
どうせなら、私のことなど一つも気にせず、仕事をするような人であってくれれば良いのに。どうせなら、私をお飾りの妻だと思ってくださるような人であってくれれば良かったのに。どうせなら、他の絵画のように商売に必要な道具として傍に置くだけの人で。
瑞希くんが、たった一つ、大切なものを大切と言い切れる、それ以外のものを失ってもいいと態度や行動で示すような愛を持つ人でなければどれほど良かっただろう。
その残酷なほどの純真さを持ち合わせる瑞希くんを愛せたなら、どれほど良かっただろう。
「瑞希くん」
「ん?」
「私、瑞希くんのことを愛しています」
口に出せば本当になる気がしたのに、口内には苦みが広がっただけだった。
瑞希くんの向日葵のような破顔を直視できなくて目を逸らす。照れ隠しだと思われて、瑞希くんから手を握られた。
「俺も、美羽のことを愛してるよ」
どうか、どうか。いつか、この愛に応えられる日が来ますように。




