第十七話 薔薇と別れ
私は椅子から立ち上がり、先生の元へ歩み寄る。
先生の目に涙が浮かんでいないことは明らかだったのに、なぜか泣いているように見えて。私はどうしようもなく、そんな先生を守りたかった。
私だって傷ついている。自分が何者であるかを知ったうえで、深く、深く傷ついた。
それでも、先生のことを大切にしたい。先生が悲しむ姿は見たくなかった。
「先生」
私は先生の前に跪いて、彼の頬に触れる。真珠のように透き通ったきめ細かな肌は冷たく滑らかで、陶器でも触っているかのように現実離れしている。
視線を合わせると、彼の湖面のような瞳が揺らいだ。
「先生のことを教えて。私、どんな先生でも、先生がなにをしていても許すわ。世界中の誰が、なんと言おうと」
先生の瞳に映っている私は、先生にどう見えているのだろう。
未だにかつての妹の面影が重なるものなのだろうか、それとも、高嶺美羽として映っているだろうか。
「私は先生が……、司さんが好きよ」
どちらにせよ、関係のないことだった。
私の先生を想う気持ち、そこに先生の妹が持つ家族愛が含まれていようと、心臓移植によって生まれた私本来の気持ちでなかったとしても。
伝えずにはいられなかった。
だって、夢で見た先生はとても美しくて――、妹にとっても先生は愛おしい人だったとわかるから。
私が先生を想う気持ちと、妹が先生を思う気持ちに大きな差はないように思えた。
先生の喉仏がごくりと上下する。
ややあって、先生は頬に添えていた私の手を取った。そのまま私のほうへ戻して両手を揃えさせる。自らは椅子に腰かけ直した。
私と先生の間に今度こそ距離ができる。
「……申し訳ありません」
予想通りの返答だった。
けれど、先生はまるで自分が失恋でもしたかのような、大切な人を失ったような顔をしていて、その声は湿度が高い。
本当に今日で最後なのだ。永遠の別れなのだと実感させるに相応しい声。
「お嬢さまのお言葉に応える資格が、僕にはありません」
「それは……、望さんと、私を重ねているから?」
先生が息を飲む。視線は頼りなく空を彷徨った。
返答までの時間は長かったが、嫌悪感はなかった。時間の長さこそ、先生が初めて私を見てくれている証だと思えて不思議と穏やかな気持ちになった。
ふられた理由を尋ねているのにおかしな話だと内心で自嘲して、ひたすらに待つ。
だが、先生は答えなかった。
代わりに、先生は美しく微笑む。梔子の香りがするような、芳醇で繊細で、ともすれば一瞬で消えてしまいそうな、胸の締め付けられる笑みだった。
先生の態度から先ほどまでの悲壮感が消えていく。なにかを諦め、悟ったように。あるいは、本心に蓋をして先生として振舞うように。
「お嬢さまの成長をお傍で見守ることができ、大変光栄でした。医者失格の僕が言うのもなんですが、お嬢さまが看護婦を志し勉学に励まれていたことも、本当に誇らしく思っておりました」
木梨司と高嶺美羽の関係が、ただの家庭教師と生徒に戻っていく。否、先生が戻そうと努めているのがわかった。
「願わくば、その夢が叶ってほしいとも。いいえ、僕は今でも、心の底からそう願っています」
先生はいつもの柔和な笑みを浮かべる。
それはまさしく、まだ私と先生がただの家庭教師と生徒だった頃、私が先生に恋をしていた頃に戻ったみたいに思わせる完璧な演技だった。
――過去も、お互いの傷も共有し、心の内まで晒したのに。どうして。
考え、すぐに答えにぶち当たる。
それこそが、先生の答えなのだと。
私と妹の存在を未だに重ねている自分を先生は許せないのだ。妹にも、私にも、誠実に向き合えていないということだから。だからこそ、私と妹が違う人間だと線を引こうとあがいている。その一つが、家庭教師という職業によってもたらされるものだとすれば……。
先生は、私の前で木梨司でいることができないのだ。先生でいること。そうすることでしか、先生はうまく生きられない。
先生を守りたい。そのために、自分が生徒でいる必要があるのなら――
「……先生、私、頑張ってみるわ。先生がいなくても、看護婦になれるように」
私も、その聖域を守ろう。
そして、看護婦になるという先生との約束を果たす。願いを叶える。
それが、私が――望さんの心臓ではなく、高嶺美羽という人間の心が愛する先生のために唯一できることだから。
「私も、先生が家庭教師で本当に良かった。先生のおかげでたくさんのことを学べたもの」
先生ほど綺麗には笑えなかったが、それでも必死に笑みを作った。
「お嬢さまにそう言っていただけると光栄です」
「今まで色々ありがとう」
――大好きよ。
想いを心に秘める代わりに、口に出した言葉にはありったけの祈りを込めた。
「どうか、お元気で」
「ええ。お嬢さまも」
先生の美しい笑みから梔子の香りがする。
私たちはこうして最後の挨拶を終えた。もう二度と会うことはないのだろうという予感を胸に感じながらも、私は先生を見送る。
いつもは玄関先までのところ、両親と共に門の前まで先生を送り、陽炎が先生の背中を見えなくさせるまで立っていた。
「美羽、暑いでしょう。戻りましょう」
お母さまに促され、私は家に戻る。
玄関扉をくぐる直前、一瞬だけ振り返った。
不意に白いものが視界の端に止まる。見れば、庭の影になっているところに一輪、咲き遅れた梔子の花が咲いている。
雪のように一枚、花弁がふわりと揺れた。
「美羽?」
「……なんでもありませんわ」
私は言いながら想像し、祈る。
いつかあの花弁が風に舞い、鳥の羽のようにどこまでも飛び立っていきますように。




