第十六話 薔薇と過去
家庭教師をしていた時と同じく、私は学習机の椅子に、先生は長椅子に腰かけた。違うのは、向き合う形で座っていることくらいだ。先生は黒の羽織を綺麗に畳み、鞄へしまうと、改まって私を見据えた。
「すでにお嬢さまはご存じのことと思いますが、改めて僕からお話させてください」
私に医学を説く時の穏やかな声なのに、その表情に一切の笑みはなかった。
「こうなるくらいなら、もっと早くに僕からお伝えすべきだったのかもしれません。あるいは、言わずに去ることもできたはずでした」
「……どちらが、幸せだったのかしらね」
「どうでしょう。以前は考えていたことですが、今となってはもうわかりません」
「ええ、そうね。私も、そう思う。……でも、待って。どうして先生は、私が全部知ったって?」
「どこまでご存じか、最初はわかりませんでしたよ。だから、お嬢さまにお会いしたかったのです。お嬢さまのことは見ればわかりますから」
先生は微かに口角を持ち上げた。眦が下がり、笑みに哀愁が漂う。けれどもその儚い微笑も一瞬のうちに消え去り、先生はまた表情を引き締める。
「実は、こうなるかもしれないとは思っていたんです。お嬢さまが実習に行かれた日から。院長からあなたが実習生として来たことを手紙でお教えいただきましたから」
「先生は、院長とお知り合いだったのね」
「彼は、僕の行った手術や僕が病院を辞めた理由とは無関係ですが。偶然、交流が続いていましたので」
先生は一つ咳払いすると、本題に戻した。
「実習前に、僕に心臓移植のことを尋ねたでしょう? 実習期間の内にどこまで調べきれるかは定かではありませんでしたが、この期間にお嬢さまが心臓移植について調べるだろうということは予想していました」
「それじゃあ……」
「最後の日、お嬢さまが僕に尋ねたことがすべての答え合わせになったのです。移植手術に関わった親族が、提供先の患者に会うことは許されない行為ですから。僕は身を引くことを決めました。……ですが」
先生は溜息交じりに私の机へチラと視線を投げた。そこには、昨晩瑞希くんが渡してくださった先生に関する調査書類が適当に置かれたままになっている。
「っ!」
私が慌ててそれらを整えても遅い。先生は、すでに知っていたという風に話を続けた。
「ここ数日、僕のことを調べている人がいらっしゃると気づいたんです。それで、もしかすると、お嬢さまは僕と妹の関係まではわからなかったのでは、と思い至りました」
「だから、会いに来たの?」
「ええ。ご存じだったと、すぐにわかりましたよ」
「それは、……私に妹さんの、望さんの心臓が入っているから?」
自らの心臓に手を当ててみる。鼓動は驚くほど静かだった。
先生はやるせない笑顔を浮かべるにとどめる。
「少し、僕の話をしても?」
首を縦に振ると、先生は一度目を閉じ、深呼吸した。再び目を開けた先生の視界が、窓の外――いや、もっと遠い過去を捉えていた。
「僕の父は軍医でした。医学については優秀でしたが、それ以外のことは滅法ダメな人間でしてね。父の不興を買わないために、僕たち家族は完璧でなければいけませんでした」
家の中には常に緊張感が漂っており、母も自分も息を潜めていたのだと、先生は自嘲気味に口元を歪める。
「そんな日々が二十年も続いたある日、父が幼子を連れ帰ってきました」
「もしかして……、そのかたが、望さん?」
「ええ。僕にとっては可愛らしい妹でしたが、母にはそれが許せなかった。当たり前です、望は、父と愛人との間にできた子でした」
「そんな……」
「十数年と精神的負荷がかかった状態の母は、望の存在で完全に壊れてしまった。彼女は、父から受けたこれまでの折檻や鬱憤を望で晴らし始めました」
不意に、私の脳内に夢の内容が流れ込む。
――あれは、望さんの見ていた景色そのものだったのだ。
先生から引き離された彼女は、母親に連れられ、薄暗い蔵へ押し込められた。食事を与えてもらえないこともあれば、気の済むまで手を挙げられたこともあった。
先生と過ごした幸せな記憶と心に刻まれた深い傷が、私にあの夢を見せていたのだ。
「医大生だった僕は、家を空けていることも多く、望の状態に気づけませんでした。僕が彼女の変化に気づいたのは、勤めていた病院に体中痣だらけになった望が運ばれてきた時です」
先生の拳は震え、血管が浮かび上がっている。悔やんでも悔やみきれない過去を、今までずっと先生は一人で背負ってきたのだろう。
「彼女は僕に、死にたいと言いました。僕の手で殺してほしいと」
「……っ……」
私の心臓が大きく跳ねる。まるで先生に応えるように。
「僕は当然、彼女を生かすためにあらゆる措置を尽くしましたが、望自身が生きる希望を失くしていました。彼女はその夜、自死を図ったんです」
七歳の少女が、この世のすべてに絶望して病院から身を投げた。
そして、その心臓は、偶然同じ年の心臓移植を待つ私の元へ。先生は、そうしてやることが妹にしてあげられる唯一の罪滅ぼしだと考えた。
当時、児童を対象とした心臓移植は世界的に見ても前例が少なく、異例のことだったが、先生は自ら志願したという。
「その後、病院側がこの事実を伏せたのは、ひとえに臓器提供者と患者の個人情報の保護や問題を防ぐためでもありましたが、僕が手術をしたことで妹との関係や自殺幇助を疑われないようにするため、病院側が配慮してくださった結果なのです」
「それで、先生のことも教えられなかったのね」
「ええ。ですが、僕がそれを破ったのです。手術の後、僕はあなたと妹を重ねてしまった」
先生は心の傷を負い、医者を辞めた。そして、妹の姿を探してしまった。
「医師になったのは、愛する母や妹を守るためです。結果、僕はどちらも守れず、その後悔や未練が、残されたお嬢さまに移ってしまった。最初は、遠くから少し見るつもりでした。それで満足したはずだったんです。……お嬢さまのご両親に声をかけられるまでは」
なんの因果か。私を見るために家の近くをうろついていた先生に、たまたま両親が声をかけてしまった。職を探していると思われたらしい。この辺りは屋敷街で、昔に比べて少なくなったとはいえ、給仕や下働き――いわゆる奉公先を求めてやってくる人がいたからだ。勘繰られて警察に突き出されては困ると考えた先生は、その場で適当に話を合わせた。
結果、今がある。
「僕は家庭教師として雇われ……、こうして、お嬢さまを傷つけてしまったのです」
先生は言うと、静かに目を伏せた。長い前髪が先生の目元に影を落とす。先生が時折見せる仕草だ。
そして今、私は突然はっきりとわかった。この仕草は先生が自分を守るためのものなのだ。
瞬間、私は自分の気持ちをも理解する。
私は先生を守りたい。
誰かを愛するということは、誰かを守りたいということなのだと。




