第十五話 薔薇と訪問
なんとか瑞希くんの元へ戻ったものの、それ以上の食事も会話も続けられなかった。
瑞希くんに先生への想いを打ち明けることはできない。結局、瑞希くんには「想像したら気持ち悪くなってしまって」とごまかすにとどめた。
心臓移植の話はこれで終わりにしよう。そう瑞希くんが提案してくれたことに、私は心から賛同した。瑞希くんとこれ以上、この話を続けることはできそうになかった。
そこから家までの道中も、自室に戻ってからしばらくの間のことも、私はあまり覚えていない。私を気遣い、瑞希くんが明るく別の話をしてくれていたに違いない。
化粧も落とされているし、洋装は寝間着に変わっているから、最低限の身支度だって自力でしたのだろう。その記憶すらも曖昧だ。
気づけば窓の外が明るくなっていた。今の私に、日の光は眩しすぎる。
窓帷を閉めようと窓辺に近づき、梔子の花が枯れていることに気づく。
雪のようだと思っていた白い花弁はすっかり黄変して萎れている。美しかった姿は一つとしてなかった。
「……こんなことなら、看護婦になりたいだなんて、実習に行きたいだなんて、思わなければ良かったわね……」
自嘲が漏れた。
欲張った罰だ。瑞希くんという素晴らしい婚約者がいるのに、先生を想っていたことも。先生が隠していた過去を無理やりに暴いたことも。体が弱いのに看護婦になりたいと高望みしたことも。無理を押して、実習を受けたことも。なにもかも。
「本当に、最低で、最悪な女だわ」
心臓移植を受ける前から、きっとそうだったに違いない。それが本当の私で、偶然にも先生の妹さんの高尚な心臓をいただいてしまったがために、それなりの令嬢として振舞うことができるようになっただけなのだ。
だから、先生への想いも、私の本物の気持ちなんかではなくて、彼女が先生に生前向けていた兄への親愛と尊敬に過ぎないのだ。
私ではなくて、木梨望が生き残れば良かった。そうすれば、先生は今よりずっと幸せにいられたことだろう。
私は、なにも持たないただの高嶺美羽なのだから。
気づけば頬に涙が伝っていた。
――泣く資格なんて私にはないのに。
どこまでも醜い女だと自分を責めて涙を拭う。窓帷を閉めきり、私は完全に部屋に引きこもった。
様子を見に来たお母さまには扉ごしに「体調が悪い」と伝え、寝台に入る。
考えるのは、自分のことと、先生のこと。そして瑞希くんのこと。昨晩から寝ていないというのに、とても眠れそうになかった。
どれほどそうしていただろう。不意に、扉を叩く音が聞こえた。
「お嬢さま」
それは、先生の声だった。
途端、目元がカァッと熱を帯びる。声を聴いただけなのに、涙がこぼれてしまいそうだった。
私から来なくていいと伝えて、数週間。先生に会えなかった時期が寂しくなかったと言えば嘘になる。この心臓は、そういう風にできているのだ。私の意志でなくとも。
「……どうして、来たの。もう、来なくて良いと言ったのに」
できれば来ないで欲しかった。今、先生の顔を見て理性を保つ自信などどこにもなかったから。
「どうしても最後に、お嬢さまにお会いしたかったのです」
先生の声は誠実で、家庭教師と生徒だった時のままだ。先生を傷つけたのは私で、今月限りでといった猶予すらも突っぱねたというのに。先生はあくまでも仁義を通したのだ。私の会いたくないという意思を尊重しつつも、裏に隠れた本心を知っているかのように先生はまだ私に優しくしてくださるのだ。
どうしてそんなことをするのだろう。中途半端な優しさが、こんなにも辛く哀しい気持ちにさせるものだとは思わなかった。
もう会いたくなかったのに。こんな風に、先生の声を聴きたくなかったのに。それでも、嬉しいと思ってしまう。先生にもう一度会いたいと願ってしまう。できることなら、今までのことはすべて忘れて、あの頃に戻りたいとすら。
先生に会いたくないという思いと、先生に会いたいという思いが拮抗する。
思考も、感情もまとまらなかった。
「先生は、身勝手だわ」
思ってもない言葉が口から突いて出た。同時、こらえていた涙が決壊する。
私の言葉に、扉の向こうからの返事はなかった。長い沈黙に、さすがに先生も呆れて去っていったのかもしれないと思うと、今度は自分の行いを恥じた。
最後なのに。先生とは、もう二度と会えなくなってしまうかもしれないのに。
私は慌てて寝台を飛びだす。
部屋の扉を開けると――、まだそこに先生は立っていた。
ぐしゃぐしゃに泣いて凄惨な有様の私に、先生もまた泣きそうな顔をした。
「……申し訳、ありません」
なぜ謝るのだろうと思った矢先、私の体は先生に抱きしめられていた。
梔子の香りに引っ込みかけた涙が再び溢れた。先生の香りだ。
「悪いのはすべて僕です。どうか、ご自身を責めないでください」
耳元で先生の切々とした声が聞こえる。先生と別れたあの日聞いた言葉。先生は、過去を話すことのない代わりに、嘘をつかない。だからきっと、この言葉も本当なのだろう。先生が悪くて、私は悪くない。けれど、今はそうは思えなかった。
「……そんなの、無理よ。無理だわ。先生、私、だって……」
あなたの妹の心臓で、生きているのよ。
続く言葉は嗚咽のせいで出てこなかった。それなのに先生は、すべてわかっているみたいに私を強く抱きしめた。私も堪えきれなくなって先生の背中に手を回す。婚約者がいる身でこんなことはしてはいけない。なけなしの理性がそう叫んでいるのに止められなかった。
私の涙が枯れ、先生の着物に私の涙の染みができると、先生はそっと私から離れた。
後悔や悲哀の混ざる先生の顔は痛々しく、彼もまた、私の知った真実に長年悩まされ続けてきたのだとわかった。
先生はそれでもなお、私から目を逸らさなかった。控えめで、けれど人を捉えて離さない帳の下りた夜の瞳が、私を真っ直ぐに見つめている。
「お話を、してもよろしいですか?」
口調に先生の覚悟が滲む。私に話すことがすべての罪を清算し、罰を受けるための一歩になるのだと言うように。




