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薔薇と梔子  作者: 安井優
第二章 心臓に咲く梔子

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第十四話 薔薇と記憶転移

「記憶転移?」

 首を傾げた私に、瑞希くんは一から丁寧に説明してくださった。

「心臓に限らず、臓器移植をした患者に提供者の記憶が移ることがあるらしい。世界的にも、まだ臓器移植の手術の成功例自体が多くないからあくまでも噂程度って話だが……」

「記憶って……、夢の話みたいなことですか?」

「ああ。具体的には、提供した人の経験や性格の一部、食の好みも含めて、趣味嗜好が変化することがあるそうだ」

 瑞希くんは前菜の皿に残っていた夏野菜を綺麗に食べ、口元を拭いた。

「みぃは、そうした経験は?」

「私は……」

 私もまた、前菜の残った皿に視線を落とす。

 元々、幼少期の頃に手術を受けたせいか、あまり自分自身の変化を明確に感じられたわけではない。だが、思い返してみると、一つ思い当たる点があった。

「そういえば、甘味が急に好きになって。両親に驚かれたことがあります」

「みぃの甘味好きは元からじゃなかったのか」

「私もあまりよくは覚えてないんですが……、父の話によると、手術を受けるまでは塩っ気のあるものが好きだったみたいで。よく父の酒のつまみを勝手に食べていた、とお小言をいただいたんです」

「なるほど。じゃあ、きっと記憶転移の典型的な例かもしれない。他に変わったことは?」

「うーん……、そう、ですね」

 記憶を辿り、私は「あっ」と声を上げる。

 日常に溶け込みすぎて、今まですっかり忘れていた。

「梔子の、花……」

「梔子?」

「え、ええ。うちのお庭に咲いているでしょう? あの花は、私がせがんだんです」

 私の部屋から、ちょうど見える位置に咲き誇る梔子。あの白い花々は、退院後に私が両親に頼んだものの一つだ。

 自室に案内され、窓から外の景色が見えた瞬間、私の脳裏に白い花弁が揺れた。それからすぐに両親にねだって植物図鑑を買ってもらい、その花が梔子であると突き止めたのだ。

 あの時は、理由がわからなかったけれど。

「もしかして、夢の話と関係が……?」

 夢で見る、満開の梔子。夢の中の私は、あの花が大好きだった。夢で会う、あの青年も。

 あの夢は、そもそもいつから見ているものだろう。それこそ、手術を受けた後からだったかもしれない。

 それじゃあ、やっぱり、あの夢に出てくる青年は――

「多分、そうだと思う」

 瑞希くんはどこか忌々しげに呟くと、鞄から追加の書類を取り出した。

「正直、これを話すか迷ったんだが……。やっぱり、みぃにこのことを隠しているほうが俺は不誠実だと思うから、話すよ」

 渡された書類は、先生の家族構成について書かれたものだった。私は慌てて目を背ける。先生が一度も話したことのない過去を、私が勝手に見ていいものとは思えなかった。

 先生の背負っているものが、とても重たく哀しいものだということは、これまでの態度で明らかだったから。

 私にとって先生のその聖域を守ることはとても大切なことで、それこそ先生に向けた尊敬や愛の形の一つであった。

 しかし、瑞希くんがそれを許さなかった。

 彼に先生との聖域など存在しない。瑞希くんにとって先生は赤の他人か、ともすれば大切な婚約者を惑わす極悪人だ。

 瑞希くんは目の前の空いた食器を避けて、酒を少し煽ると容赦なく事実を口にした。

「木梨司には、木梨望という妹がいた。だが、彼女は幼くして亡くなっている」

 瑞希くんが告げた事実に、明確に心臓が悲鳴を上げた。ズキズキと体内が傷み、生み出された熱がじわりと嫌な汗になって背中を伝う。

「おそらく、木梨望の心臓が、みぃに提供されたんじゃないか? そしてその執刀医が、兄である木梨司だった。だから、みぃと妹を重ねて木梨さんはみぃに近づいた。みぃのほうには、望さんの記憶が残ってしまった」

 胃がむかむかして、先ほど食べた前菜が体内を暴れまわり始める。

 理屈ではないなにかが全身全霊で、瑞希くんの話を拒否していた。

「……っ、ごめんなさい!」

 私は慌てて席を立ち、ハンケチを口にあてがったまま部屋を出る。

 扉を開けた瞬間、ちょうど主菜を運んできた店員とぶつかりそうになった。が、気にしている場合ではない。

 私は店の雰囲気などお構いなしにお手洗いへと駆けこむ。

 吐き気と眩暈をこらえながら、震える手で扉に鍵をかける。

 一人になりたかった。

 私はそのまま鏡台に手をつく。鏡に映った私は醜かった。額には脂汗が滲んでおり、化粧をしていてもわかるほど顔色は青白くなっている。深呼吸しても動悸は収まらず、全身が悪寒に震えた。

 それでも必死に深呼吸して、私は歯を食いしばる。

 ここで泣いてしまったら、それこそもう二度と立ち上がれないような気がしたのだ。

 天井に吊るされたシャンデリアを見上げる。煌々とした光に目が眩み、私は瞼を閉じた。そのままハンケチを口に押し込むようにして、フーッと息を吐いては吸う。頭の中で秒数を数えながら、心臓の音が弱まるのを待つ。

 次第に自分の中に突如として湧いた感情が整理されていく。汗や震えが徐々に引いていく。

 冷静になると、とある仮説が浮かび上がる。

 嫌悪感の正体。私が暴かれたくなかったもの。

 瑞希くんの声が聞こえる。

 ――臓器移植を受けた患者は、趣味嗜好が変化することがある。

 それは、つまり。

 理解したくないと無意識に蓋をしてしまいたくなるほど残酷な思考に、今度こそ涙が意志を持って流れそうになった。

 私は再び上を向く。ぼんやりと滲んだ視界、シャンデリアは皮肉なまでに美しく輝いている。

 ――先生の妹さんの心臓が私に移植されたから、私は先生を好きだというの? 違うでしょう? 私は、私だもの。たとえ、記憶転移があったとしても。先生の妹さんの、感情が流れ込んでいるのだとしても。それでも……私は……。

 先生を想う気持ちまで否定されたくなかった。こんな風に、自分が何者かを知りたくなどなかった。この仮説を否定できない自分がいることにも、気づきたくなかった。

 知ればなにかが変わると期待していた。自分の人生がより良いものになる保証なんてどこにもなかったのに。

 ――知らないほうが良いことも、世界にはたくさんありますよ。

 いつだったか、先生がそう言っていた。

 絶対にこれはその一つだ。

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