第十三話 薔薇と素性
学校と家を往復する日々は味気なく、まるで世界が白黒になってしまったようだった。
先生は今月限りでと言っていたけれど、私がそれを断った。先生はすぐにでも私から離れたがっている。それを仁義を通して猶予をくださっただけだとわかっていたから。
先生を失い、私は明らかに抜け殻よろしく生きているだけの人形と成り下がった。両親や瑞希くん、菜々ちゃんに心配されても、その理由を説明することすらできないほど。
皆に迷惑をかけていることも、気を遣わせていることもわかっているのに、私は覇気のない笑みを浮かべてやり過ごすしかなかった。
なにも、考えたくなどなかった。
そんな私に「話があるから予定を開けておいてくれ」と瑞希くんから声がかかったのは、庭に咲き誇っていた梔子が枯れ始め、先生の契約満了日を明日に控えた夏真っ盛りのことだった。
場所は休日の百貨店、その最上階にある洋食屋だ。カフェーと同じ階に最近できたばかりだという。
私を元気づけようとしてくれているのがわかり、失恋真っ只中の私にはその瑞希くんの優しさがやはり嬉しくも悲しくもあった。
両親と給仕に目いっぱいのお洒落を施され、私は煌びやかな洋装を纏って父の車で百貨店に降り立つ。今日は瑞希くんが先に店に着いているとのことで、私は早速指定された店へと向かった。
瑞希くんからの話に、良かった思い出は一つもない。だが、今はそんな話にすら縋りたい思いだった。
洋食屋は洗練された雰囲気だった。シャンデリアと言うのだったか、豪奢なガラス製のランプが天井から吊るされ、ここが百貨店の中であることを忘れさせる。店内の演奏に導かれるように毛の長い絨毯に一歩足を進めると、店員がやって来た。
「お客さま、どなたかお待ち合わせでございますか?」
「えっと、丸井、です」
「丸井さまのお連れさまでいらっしゃいますね。どうぞこちらへ」
店員に案内されるがまま、私は店内を進む。少し派手過ぎるのではと思っていた服も、この場においてはちょうど良かった。広い店内には丸机が間隔を開けて並べられており、そのどれもに気品溢れる客が座っている。
私が案内されたのは、喫茶店の時同様、店の奥にある個室だった。
先に席へ着いていた瑞希くんが私に気づいて立ち上がり、私の椅子を引き出して誘導する。腰かけるなり、店員がお品書きを運んできた。瑞希くんも私の向かいに着席し、お品書きを開く。
「みぃ、遠慮せずに好きなものを頼んで」
「あ、ありがとうございます」
ここへ来るまでに父からも「瑞希くんに花を持たせてやりなさい」と口酸っぱく言われてきたので、私は遠慮なく食べたいものを注文する。とはいえ、今の気分ではあまりお腹もすいていない。結果、瑞希くんに「もっと頼んでいいのに」とお小言をいただいてしまった。
食事が来るまでの間、瑞希くんはいつもの「学校はどうだ」とか「勉強は」とか、そんな他愛のない話を始めたが、私のほうがそれどころではなかった。
「それで……、お話って?」
今日はそのために来たのだ。瑞希くんとただ食事をしに来たわけではない。
私が急かすと、瑞希くんは苦笑いした。が、すぐにその笑みを引っ込めて鞄から書類を取り出す。どうやら、瑞希くんも早く話したいと思っていたらしい。
「食事を終えてからと思ったんだけど……。先に少しだけ話そうか」
瑞希くんは私のほうへ書類を何枚か手渡した。さっと目を通し、そこに先生の名前があることに気づく。
「これ……」
「木梨司……、みぃの家庭教師の素性を少し調べさせてもらった。彼にも、みぃにも悪いと思ってるけど……、どうしても、気になって」
瑞希くんは言いながら、書類に目を落とす。私は知らなかったが、丸井商會の人脈の中にはこうした人を調べる本物の探偵のような業種にも伝手があるらしい。会社を大きくするためには必要な人材なんだと瑞希くんは言い訳のように一人呟いた。
「俺が気になったのは、病院が手術のことを隠してるってことだった。病院ではなくて、木梨さんのほうに問題があるんじゃないかと思ったんだ。みぃの家庭教師だし、良い人なのは俺も知ってるからそんなことを考えたくはなかったけど……、万が一、みぃになにかあってからじゃ遅いと思ったから」
あくまでも、私が心配だと瑞希くんは念を押し、話を続ける。
「そうしたら、木梨司という人物が病院で働いていたことがわかった。みぃの言う通り、みぃが入院していた病院と時期まで一致した」
私はもう一度書類を見つめる。簡単な経歴が書かれている。病院の名も、勤めていた時期も。やはり、私が見た診療録の木梨司は、先生に間違いなかったのだ。
だとすれば……。私が慌てて書類をめくると、瑞希くんの声がその手を止める。
「安心してほしいから先に言うけど、木梨さんに犯罪歴はなかったよ」
「……それは、良かったです」
「むしろ、医者としてすごく優秀だったらしい。若くして院長の右腕と言われるほどの外科医で、研修医の頃から日本でも難しいとされてきた手術をいくつも成功させてる」
瑞希くんはそこで一度口を結んだ。
扉を叩く音が聞こえ、料理が運ばれてきたからだ。私も続きを聞きたいと思う気持ちを必死に抑えて書類を一度机の下にしまう。机に並べられた料理はどれもおいしそうだったが、今は先生の話題に霞んでいた。
「食事を食べながら、続きを話しても?」
「もちろんですわ」
瑞希くんは店員が去るのを見送ると、綺麗な所作でスープを口に運びながら話を再開した。
「それで、俺はもう一つ別の視点で考えてみた。優秀な医者が行った手術が、なぜ秘匿にされたのか」
瑞希くんは言って、スープと一緒に運ばれてきた前菜を口に運ぶ。話しかたも、間合いの取りかたも美しく、瑞希くんは小説家や噺家になっても大成したに違いない。
一方、私はといえば、話に夢中でまったく食事の手が進まなかった。
瑞希くんは前菜をいくらか食べ終えると、ようやくそこで私に視線を向けた。
「みぃ、記憶転移って知ってるか?」




