第十二話 薔薇と医者
家庭教師の日、緊張する私に対し、先生は灰色の和装に黒い羽織といういつも通りの姿で現れた。当たり前だ。先生にとって今日はなんてことはない、二週間ぶりの家庭教師というだけで、まさか私に過去を暴かれるなんて思っていない。
だというのに、先生は私を一目見て、私の額に手をやった。突然のことに私のほうが驚いてしまう。
「せ、先生?」
「ああ、失礼。お嬢さまがやけに強張った顔をしていらっしゃったので、もしかしてまた体調を崩されたのかと。ですが、熱はなさそうですね」
そんなにわかりやすいのだろうか。それとも、先生がよく見てくださっているのか。
私は離れてしまった先生の手を名残惜しく感じつつ、「大丈夫よ」と顔の筋肉を意識的に緩める。
「課題はしなくて良いと言ったはずですが、進めていらしたと奥さまからお聞きしましたよ。随分遅くまで勉強に励まれていたとか」
「だって、ちょうど良い機会だったのよ。実際に学んだことをすぐに活かせるんですもの」
「それでも、体調を崩されては元も子もありません」
「……わかってるわ」
両親から実習期間中のことは筒抜けのようだ。私の拗ねた返答に先生は苦笑しつつも、私に話の続きを促した。
「それで? 実習はいかがでした?」
「今日の課題は良いの?」
「今日は少しお話をしましょう。せっかく現場で色々と体験されたのですから、そこでの質問や気になったことがあれば、僕のお答えできる範囲でお話しますよ」
先生はいつもの定位置に腰かけ、私が話し出すのを待っていた。
明確に一つ、聞かねばならないことがあるとわかっているはずなのに、私は逡巡する。
代わりに単純な疑問が口からついて出た。
「……先生は、やけに医学にお詳しいのね」
先生から話してくだされば、まだ少しは報われるような気がする。
口にしてから、そんな期待にも似た願いが芽生えた。
だが、先生は穏やかな笑みを崩しもせずに、さらりと答える。
「知人に医者がいるんですよ」
「……お知り合いに?」
「ええ。古くからの友人です。まだ働いている現役の医者ですよ」
先生は答えてから、少し居心地が悪そうに首の付け根当たりをさすった。
「僕の話ではなく、お嬢さまのお話が聞きたかったんですが……」
「ご、ごめんなさい……。その、ちょっと気になったものだから」
先生に訝しまれ、私はいよいよ覚悟を決めざるを得なくなった。いや、ここで濁してなかったことにしても良い。そうすれば、きっと、今までと変わらず先生と過ごせる。
――けれど。
それではいけないのだ。決めたはずなのに。
私は震える手を着物の袖に隠して、先生に向き直った。
「その、ね……」
いざ言おうとすると、声が震える。弱虫な自分を叱咤して、私は必死に言葉を紡ぐ。
「先生は、お医者さまだったの?」
たったこれだけの質問なのに、こんなにも恐ろしい気持ちになるとは思わなかった。まるで先生を罪に問うているような気分になった。
否定を望んでいるのか、肯定を望んでいるのか、自分でもわからない。聞いたところでなんになるというわけでもない。それなのに、私はなぜかその答えを聞きたくないとすら思ってしまう。
先生を見れば、彼の顔にも影が落ちていた。先生が俯いたせいで、長い前髪が先生の表情を隠してしまう。
長い沈黙が部屋を支配した。
先生は長くて綺麗な両手の指先を絡めた。仄暗い瞳はその一点を見つめている。
正しているはずの姿勢はいつもより小さく丸まって見え、私は確信した。
――やっぱり、先生だったのね。
わかれば、次から次へと疑問が溢れそうになる。
なぜ、先生が手術をしたことを黙っていたのか。心臓の提供者は先生とどんな関係だったのか。病院が事実を隠している理由はなぜなのか。先生は、どうして医者を辞めて家庭教師になったのか。
なぜ、もう一度私の前に姿を現したのか。
けれど、それらを尋ねる前に、先生がゆらりと顔を上げた。顔に落ちた影は濃く、先生の夜のような瞳はすっかり闇に包まれている。
「どこまで、ご存じなのですか?」
先生の口調は冷たく、鋭利だった。土足で踏み込んだことを怒っているようにも、私に知られたことを絶望しているようにも見えた。
私はすっかり気圧され、息を飲む。先生のそのような態度を見るのは初めてだった。
「……どこまで、って……」
「もしも、お嬢さまが興味本位でお聞きになられたのだとすれば、僕は黙秘を選びます。ですが、そうではないのでしたら……、僕は、もうこれ以上ここにはいられません」
先生は本気だった。私の反応を窺い、顔色を見て、一挙手一投足から私の思考を読み取ろうとしている。試しているのではない。本気で、私との離別を選ぼうとしている。理由も言わずに。
それがわかった瞬間、私は先生に嫌われる覚悟が足りていないことを痛感した。
決意を固めたはずだったが、それはなんてことのないまやかしだ。嫌な予感には目を瞑り、不安なことに蓋をした。ある種、楽観的な、本当は同姓同名の別人だと言われることに賭けてすらいたかもしれない。
私が口を開くより先に、先生が持ってきた鞄に手をかけた。羽織を畳み、腕に抱えて立ち上がる。
「……大変勝手で失礼ですが、今月限りで家庭教師は終わりにさせてください」
「先生!」
私は慌てて先生を引き止めた。先生の手は想像以上に冷たかった。先生はこちらを振り向くこともせず、ただ黙っている。
「……ごめんなさい、私……、先生のことを、詮索したかったわけじゃなくて……」
「存じております。僕は、そうしたお嬢さまの知的好奇心の多さを好ましくも思っておりましたから。この件については、お嬢さまは一つも悪くありません」
「それじゃあ……」
「すべて僕が悪いんです。お嬢さまには大変申し訳ないと思っています。それこそ、謝っても謝りきれないくらいに。本来の僕は、お嬢さまと顔を合わせる資格などないのです」
先生は言うと、本当に顔も合わせずに私の手を解いて扉を開けた。
「ご両親には僕からお伝えします。後任も探しますのでご心配なく」
「先生!」
私が呼ぶのも無視して、先生は足早に階段を下りていった。
引き止めればいい。追いかけて、先生の気が済むまで謝ればいい。わかっているのに、私の足は情けなく力が抜けてへたり込むしかできなかった。
「……先生……」
涙が込み上げ、どれほど目を拭っても止まらない。
先生の残した梔子の香りが消えるまで、私は部屋の前で一人泣き続けた。




