第十一話 薔薇と変化
残り一週間の実習期間は瞬く間に過ぎていってしまった。
私に余計なことを考える暇を与えない忙しさで、また熱がぶり返してしまうのではと思ったほどだ。普段元気な菜々ちゃんでさえ、残り三日となったところで病院の大変さや理不尽さについて愚痴をこぼしていた。
今日、私たちは初日に座学を受けた病院の講義室に会している。実習終了の証書を受け取るためだ。
「本当に終わるのね」「やっとだわ」「でも、あっという間だったわよね」
久しぶりに会った学友――内科に配属されていた三名――の目元には私と菜々ちゃんよりうんと濃い隈ができていた。
私たちは互いに、この実習をやり遂げたことが夢のようだと称え合い、長いようで短かった二週間を振り返った。
急患の対応、医薬品の扱い、患者からの苦情。対して、楽しかったことや、食堂で食べた食事のことなど、私たちの話は多岐にわたった。
とはいえ、私は、自身の最も主要な話題である心臓移植の件については、菜々ちゃんにも学友にも話さないことに決めた。
この病院に抱いた皆の信頼や夢をみすみす壊すようなこともしたくなかったし、なにより、私自身がまだこの出来事をうまく咀嚼できていない。瑞希くんが色々と調べてくれているらしいことだけは、行き帰りの車内で聞く話からわかっている。だが、肝心なところはまだなにもわからないことだらけだ。
それに。
嫌でも、近いうちにわかる。
看護実習が終われば、私たちはまた日常に戻る。すなわち、私はまた先生と顔を合わせることになるのだから。
「美羽?」
「えっ、あ、ごめんなさい。ちょっとぼーっとしちゃった」
お喋りに参加しない私に、菜々ちゃんがにやりと口元を歪める。
「そうよね、美羽、この二週間先生に会えてないものね。でも、もうすぐ会えるわよ」
「……そういうんじゃないわよ」
なぜこの親友はこうも敏いのだろうと私が睥睨すると、菜々ちゃんが肩をすくめる。
「可愛い顔が台無しよ」
「菜々ちゃんこそ、男性にはお見せできないくらい頬が緩んでおりますことよ」
わざとらしく皮肉を言えば、菜々ちゃんが笑う。私がつられて笑ったところで、講義室の扉が開いた。
慌てて姿勢を正すと、付き添いの教員と一緒に院長と看護婦長が穏やかな目でこちらを見つめる。扉の外にまで私たちの会話が聞こえていたことを示唆するような笑みに、私たちは全員恥ずかしさから目を逸らした。
私たちへの証書授与が始まる。一人一人名前を呼ばれ、それぞれ証書を渡された。みんな、それらを見て感涙したり、喜んだりしていた。
「高嶺美羽さん」
「はい」
私も前の学友に倣い、院長の前まで歩み出る。と、看護婦長から渡された証書には、証書以外の紙がついていた。
「子供たちからのお手紙ですよ。寂しがっていました」
「……そんな……」
「今度来る時は、立派な看護婦となって子供たちの成長を見守ってあげてください。きっと、あなたなら素敵な看護婦になれると思います」
院長と看護婦に微笑まれ、私はぐっと唇を噛みしめた。泣きそうになるのをこらえて、必死に笑顔を作る。
「はい!」
学友たちも皆、同じように手紙や贈り物を受け取ったのだろう。振り返ると、全員が同じような顔で笑っていた。
こうして、私たちの看護実習は幕を閉じた。
瑞希くんによる病院への送迎も今日で最後で、明日からは学校への送迎に変わる。
「お帰り」
「ただいま戻りました。お迎え、ありがとうございました」
「かまわない。病院のほうが往復の時間が長くて良かったくらいだ」
車内に乗り込むと、瑞希くんがそう軽く笑って見せる。私の手元に証書が握られていると知ると、彼は一層目を細めた。
「みぃが幸せそうで、俺も嬉しい」
世の女性を陥落させる甘い声にはやはり裏も表もなかった。むしろどこか清々しささえ感じられる。
私が呆気に取られていたからか、瑞希くんは照れくさそうにはにかんで視線を外した。
車が走り出し、窓の外に景色が流れていく。
「俺は」
瑞希くんが緊張気味に口を開いた。
「ずっと、みぃのことを考えてきたつもりだ。みぃの幸せを一番に願ってた。みぃが無理をしないようにって。みぃを守ろうって決めてた」
「……はい」
瑞希くんのその気持ちは痛い程伝わっている。私は無意識に証書を握り締めていた。
彼がこういう話をする時、私は決まって身構えてしまうのだ。次はなにを言われるのだろう。なにを否定され、奪われるのだろうかと。
だが、違った。
「でも、今、それがすべてじゃないって少し思えた気がする。もちろん、みぃの体は大切だけど、そのぶんだけ、俺はみぃの気持ちを蔑ろにしてきたのかもしれないな」
「え……」
瑞希くんの眉が微かに下がっていた。反省の念が横顔にも滲み出ている。チラと私を横目で見た瑞希くんと目が合った。
彼は背けていた視線を私に戻し、潔く頭を下げた。
「今まで悪かった」
その後も、瑞希くんは「正直に言えば、まだ看護婦になる夢を心から応援できない」だとか「愛しているから心配なんだ」とか、いつも通りの台詞を並べつつも
「これからは、みぃのことを守るだけじゃなくて、みぃの気持ちも考えるようにするよ」
そう真摯に述べて口を閉ざした。宣言をしたかっただけだから返事はいらない。そういうように、瑞希くんは黙り込んでしまった。
私の胸には喜びが満ち、同時、瑞希くんへの申し訳なさで痛む。
瑞希くんが私への愛を口にし、その思いを私へ告げるほど、自分の残忍さが浮き彫りになる。
――まだ、先生のことを考えている。瑞希くんと会う数刻前まで、菜々ちゃんと先生の話をしていたことも、実習が終わって先生にまた会えるのだと思っていたことも。
瑞希くんを愛せますように。そう祈ってしまう自分も。すべて。
私は車窓に顔を向け、目を閉じる。
先生への想いを断ち切るにはどうすればいいのと、瑞希くんに泣いて縋りたくなってしまう自分を追い出した。
未練を断ち切る術を考え、すぐに一つ行き当たる。
先生に、心臓移植の話をすること。
それが良いか悪いか、どう転ぶかはわからないが、少なくとも私と先生の関係性を変える唯一の方法であるような気がした。




