第十話 薔薇と同志
先生への慕情以外、心臓移植の手術のことも、夢のこともすべて打ち明けると、瑞希くんは再び私を抱きしめた。
「話してくれて、ありがとう」
瑞希くんは私から離れて水の入ったグラスを差し出す。私はそれに甘えた。
外は明るくなり始めていて、瑞希くんの顔が良く見える。
彼は考え事をしているようにも見えたし、どこかへ思いを馳せているようにも見えた。
もう、泣いていた瑞希くんはどこにもいない。憂いも涙の痕もなく、いつも通りの端正な顔だ。爽やかで、裏表がなくて、どこまでもまっすぐ。
やがて、外から差し込んだ朝日が瑞希くんの精悍な顔を照らした。
瑞希くんは私のほうへ向き直り、寝台に腰かける私の手を握る。
「みぃは、まだ実習を続けるつもりか?」
「……瑞希くんが、お許しくださるのであれば」
「でも、もう心臓移植のことはこれ以上わからないかもしれないんだろう?」
「それは、そうですが……。元々、それが目的ではありませんから。偶然、調べる機会があっただけですもの。私が看護婦になりたいと思う気持ちに変わりはありませんわ」
心臓移植の手術についてわかったのは、本当に偶然だ。そこで知り得たことも、先生の過去もすべて。
看護婦になりたいと思う気持ちとはまったくの無関係。
私が瑞希くんの手を握り返すと、瑞希くんは決断したのか苦悩の色を隠した。
「……わかった。実習は続けても良い」
瑞希くんは私を安心させるためか笑みを浮かべる。手のかかる子供に向けた諦念や脱帽に似た感情が混ざっていた。
私が喜んでいると、「だが」と瑞希くんは付け加える。
「もう一つ条件がある」
「条件?」
実習を始める際に、散々要求をのんだというのにまだあるのかと思うとうんざりしそうになるが、それもこれも、瑞希くんが譲歩してくれているのだから受け入れるしかない。
門限を追加されるのか。それとも、今度こそどんな理由であれ体調を崩したら終わりだと言われるのか。
私が身構えていると、意外にも瑞希くんの追加した要望はあっさりとしたものだった。
「俺にも協力させてほしい」
「え?」
「心臓移植の件だ。病院が秘匿にする理由が気になる。それに、みぃの家庭教師のことも」
瑞希くんの顔はいつになく真剣になっていた。探偵ごっこではなく、真剣に調べるつもりのようだ。
丸井商會の人脈を辿れば、もしかすると私では調べきれなかったこともわかるかもしれない。
心強さを感じると同時、私の心には別の感情が湧き上がった。
ほんの少しの恐怖――先生との別れが待ち受けていそうな予感、足元を掬われるような感覚が胸をよぎった。
先生は悪いことをしていない。そう思うのに、病院がそれを隠しているという事実に、どうしても裏があるのではないかと疑念が浮かぶ。もしも、そのことが明るみに出てしまったら……。その時、先生はどうなってしまうのだろう?
この条件は、実習をここで諦めることよりも残酷な条件かもしれない。
まだ決まったわけじゃない。でも――
「どうする?」
私の幻惑を見透かすように、瑞希くんが問うた。
自分が何者であるか知りたい。心臓移植を施してくれたのが、本当に先生なのか知りたい。私の心臓が、誰の物なのか知りたい。病院がなぜそれを隠しているのかも。
だが、果たしてそれは看護婦になるために大切なことだろうか。先生とこれからも一緒にいるために必要なことだろうか。
知れば、普通の夫婦よろしく婚約者である瑞希くんを愛せるようになるだろうか。
自分の気持ちがぐちゃぐちゃになって、また熱が上がってしまいそうだった。胸に靄のようなものが溜まって気持ちが悪い。頭の中でたくさんの声が自分を惑わすようで耳鳴りがした。瑞希くんの手を握っている手にじっとりと嫌な汗が滲む。吐きそうだ。
――だけど。
私はゆっくりと深呼吸を繰り返し、腹をくくる。
「……お願い、します」
きっと、ここでこのまま終わりにしてしまったら後悔する。実習をやり遂げられなかったことも。自分のことを何一つわからないままにしてしまうことも。先生とのことも。瑞希くんとのことも。
全部。
痛くても、辛くても、苦しくても、茨の道を歩くと一度決めたのだ。瑞希くんに看護実習の話をした時から、私は飛ぶ勇気のない鳥でいることはやめようと決めた。
自分の人生は、自分で選んで、自分で決めなくてはいけない。
選ぶ基準だって明確だ。私が信じる道を行く。
「いいのか?」
「はい。私は、もっと私のことも、私の周りの人たちのことも知りたいんです。瑞希くんが、私にそう言ってくれたみたいに」
強がって笑うと、瑞希くんもまた綺麗に微笑んだ。
「……さすが、俺の婚約者だな。みぃがこんなに強いなんて、知らなかった」
「私も、成長してるんですよ。もっともっと、強くなります」
いつか、先生のことを忘れても笑えるように。自分の気持ちを押し殺してでも、瑞希くんのことを愛せるように。
私は瑞希くんの手を離す。
「瑞希くん、私のせいで全然眠れていないでしょう? 私も眠りますから、瑞希くんも少しお休みになってください」
もう大丈夫だから、と私が言えば、瑞希くんも糸が切れたようにふにゃりと口元を緩めた。いつもの整った笑みではない、無垢な笑顔に、私は初めて瑞希くん自身と通じ合えたような気がした。
一蓮托生。そう言った菜々ちゃんの声がどこからか聞こえる。
――そうか。私、今日やっと瑞希くんと初めて同志になったのだわ。
ずっと婚約者として傍にいてくださっていたのに、今日初めて瑞希くんを少しだけ好きになれそうだと思うなんて。
――本当に最低の女だわ。
私は自嘲して目を閉じる。
もう夢は見なかった。
次に目覚めた時には昼を過ぎていて、瑞希くんの姿はなかった。熱も下がっていたし、私の頭はすっきりと冴えている。
なにより、心が軽かった。
私は袖机に置かれたままの瑞希くんのハンケチに手を伸ばす。先生とは違う、清涼感のある香草の匂いが本格的な夏の始まりを告げている。




