第九話 薔薇と涙
その晩、私は再び熱を出した。
というよりも、帰り道の車内で私は自分の体がどんどんと怠くなっていくのを感じていて、それを瑞希くんに見破られたのだ。
私は瑞希くんに抱きかかえられ、そのまま自室まで連行された。寝台に寝かされたかと思うと、瑞希くんと両親の慌てるような声が聞こえ、女給に着替えさせられた。再び寝台に寝かされたかと思うと、氷水の入ったたらいを持って瑞希くんが戻ってきた。
瑞希くんは自身の綺麗なハンケチを迷いなく氷水につけて絞る。一目見ただけでそのハンケチが高価な物だとわかり、私は居たたまれなくなる。だが、当の瑞希くんは微塵も気にしていないのか、真剣な顔で水気を切ったハンケチを私の額にそっとのせた。
ヒヤリとした感触が気持ち良い。
「……ありがとう、ございます……」
私が言えば、瑞希くんはとても心配そうに私の手を握った。
「辛いだろう。礼なんかしなくて良いから、みぃはゆっくり休んで」
「そんなに、大したことでは……」
「熱があるんだぞ。大したことだろう」
熱と言っても先日引いた風邪ほどではない。おそらく知恵熱の類だし、私にとって熱や病気は慣れたものだ。だから傍についている必要もない。
そう言いたかったのに、瑞希くんが泣きそうな顔で私の手をさらにきつく握るので、私も黙るしかなかった。
瑞希くんは滅多に風邪を引いたり熱を出したりしない。大袈裟な反応をするのはそのためで、きっと、これから先も一生彼は私の体調不良に慣れないままなのだろう。それはそれで心苦しい。瑞希くんの心を痛めるのは、いつだって私なのだから。
こんな女のどこが良いのだろう。自分に興味すら示さず、他の男の影を追うような女の。彼は見目麗しいと評判だし、性格も、家柄も悪くない。政略結婚とはいえ、見合う家督の娘ならいくらでもいるはずだ。相手に困らないはずの瑞希くんが、なぜ。
ぬるくなったハンケチを再び冷水に浸す瑞希くんを見つめていると、気づいた彼がハンケチをのせた手で私の頭を優しく撫でた。
「大丈夫。今日一日、俺はここにいる。どこにもいかないから、みぃは安心して寝ていいんだぞ」
決して不安だったわけではないと思いながらも、冷たいハンケチの心地良さに不思議と私の瞼が落ちる。
――私、不安だったのかしら。
でも、なにが不安なのだろう。もしも、一つ主要因を挙げるとするならば……。
自分が何者であるかを知るために、今日知った事実を先生に打ち明けたとして、先生が自分の傍からいなくってしまいそうなこと、だろうか。
私の傍から、また。
また……?
熱のせいかぼんやりと思考に靄がかっている。とても、大切なことのような気がするのに。
――司さん。
瞼が重い。眠りにつく直前、脳裏に浮かんだのは、先生の悲し気な笑みだった。
梔子の香りに目を開くと、淡い若葉色の着物の裾が見えた。着物を辿れば、縁側に腰かけている青年の顔が見える。
「……司、さん?」
普段は逆光で良く見えないはずの青年の顔は、先生によく似ていた。違うのは今より十以上は若いだろうか、幼いと言っても良い顔つきをしていることと、地味な色の着物ばかり着る先生が、今は爽やかな色合いの着物を着ていることだ。
熱にうなされていたはずなのに。どうして。
私が困惑していると、隣に座っていた青年が柔らかく笑う。
「どうしたの? ああ、もしかしてあんこ玉が気に入ったのかい? もっと食べていいよ。僕のぶんもあげる」
縁側の床を滑らせるように差し出されたあんこ玉には見覚えがあった。
――これ、夢?
時々見る夢だ。幼い頃から、変わらずに見る夢。
だとすれば、この後は……。
後に起こることを思い出して、私の手は完全に止まった。あんこ玉に手を出してはいけない。
青年の、先生のぶんのおやつを食べたことで、私は折檻を受ける。裏庭まで引きずられ、窓一つない薄暗い蔵に閉じ込められる。
そして――
「……ダメッ!」
私が声を上げると、
「みぃっ! どうかしたのか?」
暗闇から瑞希くんの声がした。息を整えている間に、彼が寝台の傍まで駆けてきて、私の背をさする。
「大丈夫か? みぃ? しっかりしろ」
「……はあっ……、っ、はあ……、はあ……」
私は瑞希くんの体温を背中に感じながら、ゆっくりと深呼吸する。夢と現実の境界が明確になってくると、ようやく私の呼吸も落ち着いた。全身汗をかいていて気持ちが悪い。私が寝間着の袖をまくると、瑞希くんが袖机に置かれた布巾を手に拭ってくれた。布巾の代わりに置かれたオイルランプの明かりに、今が真夜中であると知る。
瑞希くんは宣言通り、私の傍にいてくれたらしい。とはいえ、瑞希くんが寝ているところを起こしてしまったうえ、こんな風に世話までしてもらってしまうとは。
「ごめんなさい……、嫌な、夢を見てしまって……」
「大丈夫だから気にするな。水はいるか?」
「……いただきます」
瑞希くんは布巾を冷水のたらいに戻し、袖机に置かれたグラスを手渡してくれた。檸檬の香りがついた水が冷静さを取り戻してくれる。
私がグラスを袖机に戻すと、瑞希くんが私の寝台に腰かけた。寝台はギシリと軋んだ音を立てる。
瑞希くんから伸ばされた手が私の頬に触れた。
否応なしに視線が交わる。彼の瞳の奥深く、沈丁花色の炎が揺らめいているように見える。
「みぃ、実習はここまでで終わりにしないか?」
「……それ、は……」
「元々、そういう約束をしたはずだ。体調を崩すようなら実習は終わりだって」
瑞希くんは言いながら、私の頬を優しく撫でた。壊れ物を扱う手つきで。
私はといえば、そういう約束だったとわかっていながらも、看護婦になる夢を諦めきれずにどう言い訳をしようかと迷っていた。今日は実習じゃない。ただの調べものだって。そこで知ったことが、あまりにも衝撃的で、精神的に負荷がかかってしまったのだと正直に打ち明けてもいいとすら。
私が俯くと、瑞希くんの手が頬から顎へと移る。私はそのまま顎を持ち上げられた。嫌でも目が合う。
「みぃが言いたいことはわかってる。今日は実習じゃなくて、調べものをするために病院に行っただけだって。そう言いたいんだろう? それで……多分、その調べものが良くなかったんだよな?」
瑞希くんは縋るように私の眼を覗き込んだ。
私は首の代わりに視線を上下させた。瑞希くんは私から手を離すと、静かに目を伏せる。かと思うと、ゆっくりと私を抱きしめた。
「俺は、みぃが……、美羽のことが心配なんだ」
耳元に瑞希くんの息がかかる。熱い。背中に回された腕も、同じくらい熱かった。
「美羽を愛してる。大切に思ってる。でも、だからこそ、いつも葛藤してるってことを知ってくれないか。美羽の気持ちと、体の、どちらを大切にすべきなのか、もう、俺にはわからないんだ」
瑞希くんの声に微かな震えがあった。
「せめて、なにがあったのか教えてほしい。俺は美羽のことを、もっと知りたい」
彼が泣いているのだと気づいたのは、肩口が濡れたからだ。それは瑞希くんがこぼした小さな、小さな一滴だった。




