第八話 薔薇と提供者
愕然とする私を、続く文字が追い込んだ。
心臓を提供した相手、その名も書かれている。
「木梨、望……」
まさか同じ名字が並んでいるとは思わなかった。先生の名前を見ただけで充分だったはずが、こんなことになろうとは。
「ご親族のかた、よね」
先生はご自身の話をされない。だから、私はこの『木梨望』という人物を知らない。名前だけでは、男性か女性かもわからないし、診療録にはそれ以上のことも書かれていないが、執刀医の木梨司先生とまったくの関係がない人だとは思えなかった。
仮に、この執刀医が家庭教師の木梨司先生と偶然同じ名前だったとして。患者まで同じ木梨という名字だとは考えにくい。確率の話だ。木梨は決して多い名字ではない。
では、患者の名字が偶然同じで、執刀医の木梨司先生が家庭教師の先生と同一人物だとしたら? そのほうが、私にとっては驚くべき事実だ。
様々な可能性を考えた結果、私の直感は告げる。
家庭教師の木梨司先生と執刀医の木梨司先生は同一人物で、木梨望さんは先生の親族だ。
では、どうして先生はそれを黙っているのだろう。先生が医者を辞めた理由もわからないし、この事実をなぜ病院が隠すのかも不明だ。
私は自身の診療録に隅から隅まで目を通したが、その答えは書いていなかった。
「全然わからないわ……」
肩を落とすと同時、私の視界には棚に並べられた別の書類が目に入る。
「そうだわ、他の書類には書かれていないかしら」
例えば、院内の会議をまとめたものや、医学的な論文はどうだろうか。私の手術に至った経緯や、心臓提供者の入院記録が残っているかもしれない。先生の進退についても。
私は自らの閃きに従い、すぐさま診療録を閉じて元の場所へ戻した。そのまま別の棚を漁る。
議事録や論文がまとまっている書類もすぐに見つかった。が、こちらは診療録ほど簡単にはいかなかった。年代順にはまとまっているものの、診療録ほど明確に整理されているわけではないようだ。特に、細かな内容を読み解いていかねばならず、解読に時間もかかる。
私がうんうんと唸っていると、
「高嶺さん」
「は、はいっ!」
後ろから声がかけられた。
悪いことをしているわけではないはずなのに、なぜか心臓が大きく音を立てて縮こまる。私の肩もどれほど跳ねたことだろう。後ろにいた人物が苦笑いをした気配がした。
「勉強熱心なのは良いけれど、お迎えが来ているわよ」
振り返った先に立っていたのは看護婦長だった。
「今日は、お休みじゃ……」
「緊急の患者の受け入れがあって呼び出されたの」
「それじゃあ……」
「あなたは帰りなさい」
私にもできることはあるかと開きかけた口を容赦なく遮られてしまう。看護婦長の顔はどこか険しかった。
「書類はすべて元の位置に戻しておいてちょうだいね」
「は、はい……」
私が持っていた書類を棚へしまうと、看護婦長は私を検分するように上から下まで観察した。私が書類を持ち出そうとしていないか、彼女はそれを確かめているようだった。しばらく見つめ、その問題がなさそうだとわかると、看護婦長は書物庫から去っていく。
かと思えば、入り口で彼女は足を止め、再び私に視線を向けた。
「あなたなら大丈夫だと思うけど、ここにある書物はすべて関係者以外閲覧禁止なの」
すでに何度も聞かされた注意喚起に、私も苦笑してしまう。
「はい、存じております」
だから、書き写すこともしていないし、持ち出しも当然していませんと着ていた洋服の裾を軽く持ち上げた。
看護婦長は苦々しく私を見つめ、「そういうことではないわ」と息を吐く。
「ここで見たものは、外に一切漏らさないように、ということよ。たとえ、お友達や恋人、ご家族であってもね。書類に書かれていたことは口外することも禁じます」
看護婦長はまるで始めから私の探し物がなんであるかを知っているようだった。そのうえで、私がなにをしようとしているのかも。
「……わかり、ました」
「わかればよろしい。それじゃあ、今日はここまでにして帰りなさい。待合室で彼がお待ちですよ」
「……はい」
促されるまま、私は書物庫を出る。看護婦長に鍵を返却すると、書物庫の扉は容赦なく閉じられた。これ以上詮索してくれるなと言われているようだった。
看護婦長に帰りの挨拶をして、私は待合室へと向かう。時間通りに迎えに来てくださる瑞希くんの几帳面さが今日は少し煩わしかった。
もう少しで、なにかがわかりそうだった。私の心臓移植の手術、そこに隠された大切なことが。
けれど、残念ながら実習期間は残り一週間だし、その間にもう一度書物庫へ入るような時間はない。実習期間が終われば、私はただの学生に逆戻りだ。関係者以外立ち入り禁止の書物庫には入れてもらえないだろう。
「後、少しだったのに……」
残された手立ては、先生に確認することだけだ。
禁止されたのは書類の中身を外部に漏らすことである。先生に、医者をしていたことがあるかと尋ねることは問題ないはずだ。
だが――、果たして先生は正直に答えてくれるだろうか。
聞くまでもない。おそらく、否。先生は、過去の話をしない。
「……自分のことすら、満足にわからないなんて……」
私が歯噛みしながら階段を下りていると、「みぃ!」と病院には似つかわしくない快活な声が聞こえる。
顔を上げると、瑞希くんが待合室の長椅子から立ち上がった。途端、彼の明るい笑みに陰りが指す。
「みぃ? 顔色が悪くないか?」
言われて、私は「え」と自らの頬に触れた。先ほどまで風通しの悪い書物庫にいたとは思えないほど頬が冷えている。
瑞希くんもまた、私に駆け寄ってそっと額に手を当てた。
「熱はなさそうだけど……、顔、真っ青だぞ。なにかあったのか?」
「い、いえ……」
いつもなら強がりな笑顔を浮かべられる。しかし、今日はそううまくいかなかった。なにもなかったとは口が裂けても言えない。
「……少し、疲れたのかもしれません」
「だから言ったのに、休日なのに無茶をするから……。とにかく、今日は帰ろう。すぐに車を回させるから、少しそこで座って待っててくれ」
待合室の長椅子に座らされ、瑞希くんが慌てて外へと飛び出していくのをぼんやりと見つめる。
彼が戻ってくるのを待つ間、私の脳内には様々な考えが浮かんでは消え、また浮かんでは消えていった。
まるで、長い夢を見ているような気分だった。




