第三話 薔薇と婚約者
学校から家までは自動車でおよそ二十分。登下校を合わせても四十分だ。
私と瑞希くんは婚約者同士だが、かたや商會の次期社長。ともなれば、私たちが共有できる一日の時間はあまり多くない。そんなに忙しいのなら、登下校だってわざわざ送り迎えをしなくても良いのにと思うのだが、瑞希くんにとってこの四十分は大変貴重な時間らしい。
「今日はどうだった?」
「いつもと変わりありませんでしたよ」
「そうか。授業はついていけてるか?」
「ええ。最近は英語の授業が始まりましたの。とても楽しいですわ」
「それはいい。英語なら、俺も多少は教えてやれる」
「ありがとうございます。では、困った時にはいずれ」
この手の話題は苦手だ。早々に打ち切ろうとすると、
「……みぃ」
瑞希くんが私を呼ぶ声が一段低くなった。これから大切な話をするのだと雰囲気だけで悟らせる。
「本当に、職業婦人になるつもりか?」
彼からこの質問を受けるのは何度目だろう。いつからか数えるのもやめてしまった。
対して回答はいつも同じだ。何度聞かれても、その答えを変えるつもりもない。
「ええ。私はずっと看護婦になりたいと思っておりますから」
「だが、みぃは体が強いとは言えないだろう? 俺は心配なんだ。働くことはみぃが考えているほど簡単なことじゃないし、社会に出れば辛いこともたくさんある」
「もちろん存じておりますわ。お父さまや瑞希くんを見ておりますもの」
このやり取りも何度交わしただろう。うんざりしてしまいそうになるのを必死にこらえる。
「俺がたくさん働いて稼ぐ。不自由させるつもりもない。だから、みぃには家を守ってほしいんだ」
「瑞希くんのお気持ちはわかります。ですが……」
「いや、今すぐ答えを出す必要はない。卒業までまだ半年以上もある。ゆっくり考えてくれ。でも、無理はしないように」
瑞希くんは、最終的に私が折れるだろうと考えているらしい。学生のうちは自由にさせてやろうとも考えているかもしれない。
私は静かに笑みを浮かべて気遣いに礼を述べるに留めた。
二年前、看護婦になりたいのだと打ち明けてからずっと、この問題を保留し続けている。
私も、瑞希くんも。
彼の気遣いが私の中で罪悪の意識を育み、痛みを芽吹かせる。だが、これも瑞希くんへの贖罪だ。私がそれを忌避することはできない。
居心地の悪さだけは隠すことができず、私は俯いた。黙り込んだ私の手を、瑞希くんがそっと優しく撫でる。
「体の調子はどうだ?」
「平気ですわ」
「本当に?」
きゅっと小指を握られる。瑞希くんの手は熱く、私からすれば瑞希くんこそ熱があるのではないかと思えた。
自らの意志で彼の手を振りほどくことはできず、代わりに顔を上げる。瑞希くんを安心させるために笑みを添えて。
「変わったことがあればすぐにお知らせする。そういうお約束でしょう?」
「はは、そうだったな」
瑞希くんの手が指から離れ、髪に触れた。菜々ちゃんが結ってくれた三つ編みを愛でるような手つきだ。
「これは友人にやってもらったのか?」
「ええ。いつもお話している親友がやってくださったんです。今日は雨で湿気が多いでしょう?」
「湿気が多いと女学生は三つ編みを?」
「そういうわけではありませんけれど……、私は髪が広がりやすいですから」
「ああ、なるほど」
瑞希くんは合点が言ったというように口角を上げた。彼の指の動きが編まれた髪の柔らかさを堪能していることを告げる。どうやら楽しいらしい。
「みぃの髪は長いし、ふわふわしていてそのままでも俺は好きだけど。でも、うん。三つ編みも良いな。可愛い」
素直に褒められ、否が応でもどきりと胸が鳴った。瑞希くんが嫌な人ならどれほど良かっただろう。私には勿体ないほど、瑞希くんは聖人だ。
私が羞恥に狼狽えていると、運転手から「坊ちゃま、そろそろ」と声がかかった。どうやら家が近づいてきたらしい。
「まったく、短い逢瀬だな」
瑞希くんは心の底から惜しんでいるようだった。軽く口を尖らせ、子供のようにいじける。こんな姿を彼の会社の人が見たらきっと驚くだろう。丸井商會の次期社長は見目麗しいだけでなく、聡明で冷静沈着だと新聞記事に記載されていた。早熟な青年だと。
「なかなか時間が取れなくて悪いな」
瑞希くんは名残惜しそうに私の頭を再度撫でる。
「この後はまたお仕事ですか?」
「ああ」
「毎日、お忙しいのに送迎していただいて……。瑞希くんこそ体調を崩してしまわれそうで心配ですわ」
「良いんだ。みぃとは普段あまり長く一緒にはいられないし、俺がみぃと会いたいだけだから」
世の女性の大半があっという間に陥落してしまいそうな甘い台詞だと思う。たとえ親に決められた政略結婚の相手だろうと。普通ならきっと「私も」とか「嬉しい」とか、そう自然に返せるはずだ。
私の婚約者でさえなければ、瑞希くんはもっと幸せだった。
心の中で瑞希くんに誠心誠意の謝罪を述べる。ごめんなさいでも、申し訳ありませんでも足りないと理解していても、そうせずにはいられなかった。
「そんな風に言われては、恐縮してしまいますわ」
「……みぃは、相変わらず謙遜が好きだな。まあ、そんなところも好きだけど」
瑞希くんの淡紅色を混ぜたような瞳がほんの少しだけ弱々しげに見える。だが、それも一瞬で、次の瞬間には彼の視線は窓の外へ向けられた。
車が停まり、自宅の門が見える。
「ほら、着いたぞ」
瑞希くん自ら車の扉を開け、私のために傘を開いてくださった。雨の中、私の手を引く彼の手はやはり温かい。
「足元、気を付けて」
瑞希くんは私を支えるように傘の中へ引きこみ、私から雨をかばう。こんな風に傘を分け合えるのに、どうして私は瑞希くんを好きになることができないのだろう。
傘を指し、瑞希くんから離れる。
ほんの短い時間だったのに、彼の肩が少し濡れていた。私には、一滴の雨粒もついていない。
私がハンケチを取り出そうとすると、瑞希くんが首を振って拒否する。
「大丈夫だから、早く家に入って。風邪を引かないように」
これ以上彼を引き止めると、むしろ彼が仕事に遅刻してしまいそうだと私も手を下ろす。
「ありがとうございました」
私は頭を下げ、言われた通りに門をくぐる。ここで瑞希くんを見送ろうものなら、明日の送迎で「風邪を引いていないか」とくどいほどに問いただされてしまうことだろう。かつての経験を活かし、私は玄関先まで振り返らずに歩いた。瑞希くんが私の背を見ていることはわかっている。
たどり着いた玄関扉の前でようやく後方を見ると、瑞希くんが小さく手を挙げた。私も会釈を返して戸を開け、傘を立てかける。
玄関扉を閉じるとようやく、外から自動車が動き出したような音が聞こえた。
別れ際の瑞希くんの表情を思い出し、私は息を吐く。
彼の寂しげな笑み。その意味に気づかないふりをしている。




