第四話 薔薇と願い
「おや、今日は洋服をお召しになられているのですね。珍しい」
部屋に入るなり、先生は私の格好に眦を下げた。瑞希くんなら必ず可愛いと褒めてくれるだろうが、先生は決してその言葉を口にはしない。微笑ましげな表情を見るに、悪いとは思っていないのだろうが、所詮、子供や妹に向けるような類のものだろう。
今日はいつもより早く帰宅できたからと気合を入れてお洒落をした私とは対照的に、三日ぶりの先生は、相変わらず灰色の着物に黒い羽織という飾り気のない出で立ちだった。家庭教師に来ているだけなのだから当たり前だし、先生はそれでも様になっているから文句などないけれど。もしも願いが叶うなら、先生の洋装も見てみたい。瑞希くんのような背広もきっと似合うだろう。
先生が羽織を脱ぐと、雨の香りに混ざってほんのりと梔子の香りがした。先生はいつも、どこまでも、普段通りだ。
「今日も体調は良さそうですね」
先生は私の顔色を見るなり、私の洋服姿を見た時よりも美しく笑った。それだけで、せっかく着飾ったのにと燻っていた思いなど簡単に霧散してしまう。
先生は、私の見た目よりも心身の健康を喜んでくださる人なのだ。それはなにより誠実にも思える。瑞希くんとは違う、恋愛感情のない純真な誠実さ。
先生は長椅子に体を預けることなく、鞄からいくつかの本を取り出した。今日の教材だろうか。見たことのない分厚い本が一冊混ざっている。
先日、月に一度の特別な課題を終えたばかり。今日から一か月間はまた通常の授業に戻る。それでも、飽きがこないようにと工夫を凝らしてくださっている先生の課題を見る瞬間は、いつもほんの少しの優越感と喜びに満ちていて好きだった。
「あっ!」
先生が私の机に重ねていった資料や課題の数々に私は思わず声を上げる。
表紙に美しい船の絵が描かれた本だ。英語で表題が書かれている。
「先日、英語の授業が始まったと奥さまからお聞きしました。お嬢さまはすでに蘭語に親しんでおりますから、差し当たり問題はないだろうと思いまして、教材の代わりに」
「これ、どうしたの?」
「知り合いに洋書の蒐集家がおりましてね。先日、譲っていただいたのです」
「さすがは先生。お知り合いにも聡明なかたが多いのね」
私は早速本を開く。ぱらぱらとめくっていくと、最後に壮年の男性の肖像画があった。
「このかたは? 作者かしら?」
「いいえ。本の主人公だそうですよ。世界を一周した将軍なんです」
「へえ……、すごいわ。読むのが楽しみ! 先生、貴重な贈り物をどうもありがとう」
「喜んでいただけて良かったです」
私は本の表紙をもう一度なぞる。私の体では世界を一周することなど夢のまた夢だろうが、この本さえあればどこへでも行けるというわけだ。読書中、心は自由だから。先生のささやかな気遣いが染みる。
先生は、私を心配してもいて、病弱であることをどうしようもないとも思っているが、だからといって自由や将来を奪うことはしない。むしろ、こうして多くの選択肢を与えてくださる。まさに家庭教師の鑑だ。
対して、瑞希くんは――考えて、私の口からは思わず溜息が漏れた。
「はあ……」
今日の帰路、車内での会話を思い出す。
看護婦以外の仕事ならどうだと持ち掛けられた。いつもとは違う切り口だと話を聞いてみれば、瑞希くんの言う仕事は刺繍や文筆、絵画など、家の中でできる趣味のようなものばかり。それらの職業を馬鹿にするわけではない。私を家に閉じ込めておきたいという彼の思惑が透けて見えることが、どうしようもなく虚しかった。
「お嬢さま?」
「ごめんなさい、ちょっと嫌なことを思い出しただけよ」
言葉を濁せば、先生の眉根に皺が寄る。
「この本が気に入らなければ、別の本をお持ちしましょうか?」
「違うの! そうじゃないわ。この本は本当に嬉しい。思い出したのは、全然関係のないことだから」
私は先生に回収されまいと本を胸元で抱きしめる。
先生は私の様子に苦笑しつつも、教師が孤立している生徒を見るような、怪我をした子供を親が見るような視線をこちらに向けた。
つまり、存外に「抱えている問題を言うように」と促しているに等しい。
黙ることも、隠すことも、ごまかすことも選択肢として浮かんだが、白状しなければ授業が受けられないかもしれないという予感が脳裏をよぎった。そうなれば、先生は呆れて帰ってしまうかもしれないという恐怖も。
窓を叩く雨音が少し強さを増す。
しばらく考え、折れたのは私だった。
「……以前、瑞希くんのことをお話したでしょう?」
「丸井さまですね。婚約者の」
「ええ。その、彼は……、あまり私が看護婦になることを良く思っていないのよ」
先生には今まで黙っていた。家庭教師として来てくださっている先生に対し、婚約者が、私が勉強することを快く思っていないのだと告げるのは失礼なように思えたし、なにより、先生に婚約者のことを話したくもなかった。
私が好きなのは、先生だから。
けれど、背に腹は代えられない。
実のところ、私の思いに共感してくださった先生が味方になってくださればと、一縷の望みもある。
言うなれば、私は先生に甘えたかった。
「私の体じゃ無理だって。働くことはとても大変で、そんなに甘くはないと」
「なるほど」
先生は私の吐露を聞き、窓の外へと目をやった。今日も梔子の花が雨に打たれながらも咲き誇っている。
沈黙を破ったのは、先生の掠れた声だった。
「お嬢さまは、丸井さまのことをお嫌いですか? 心底恨んだり、憎らしいと思ったりすることは?」
婚約者相手に無礼だと承知で問うているのが声の震えでわかった。それでも、先生は先生なりの覚悟で聞いてくださったのだろう。硬い表情から、私が本当に瑞希くんを嫌いなら婚約を解消する手立てがある、そう教えるのが教師の役目だと思っているようにも見えた。
だが、残念ながら私が心底恨み憎くんでいるのは瑞希くんではない。
私が恨んでいるのは、私自身だ。
彼の意見や価値観が私にとって多少窮屈なものでも、それこそが私を愛してくれている証拠なのだと理解している。
なのに、瑞希くんを愛すどころか好きになれない私こそが、最も醜い生き物だ。
瑞希くんを嫌うなんて考えたこともない。
私が首を左右に振ると、先生は安堵したように顔をほころばせた。
「ならば、大丈夫ですよ。僕は、たしかにお嬢さまが良い看護婦になると思っています。ですが、それと同時に、丸井さまの良き奥さまにもなられると思っております」
先生が心の底から私と瑞希くんの婚約を望んでいるのだとわかって、やはり、先生に愚痴などこぼさなければ良かったと後悔の念が募っていく。
先生も本当は、私が看護婦になる必要などないと思っているのだ。応援も、支援もしてくださっている。私の学力や能力を認め、看護婦になる資格があるとも信じてくださっている。
同時に、瑞希くんと結婚し、夫婦になって、医学から離れて穏やかに静かに暮らす。それだけでも良いと思っているのだ。
私が看護婦にならずとも、先生は喜ぶ。喜べる。
その事実に気づいてしまったことが苦しく、私は力なく笑った。
「……ええ、ありがとう」
先生が喜んでくださるのだ。ならば、私は瑞希くんとの婚約を破棄することなどできない。
看護婦になることも、諦める日が来るかもしれない。
それでも。先生のためなら私は、なんだってしてしまえるのだ。




