第六話 薔薇と看護実習
元々看護婦を目指して勉強していたこと。前回の募集時には体調を崩していたため、応募が間に合わなかったこと。すでに看護実習生に決まった菜々ちゃんの推薦があったことや、これまでの勉学の姿勢などが認められ、私は無事に看護実習生の空き枠を手に入れた。
両親たちは瑞希くん同様の渋い反応を示していたが、私が珍しく折れずにいたせいか、最終的には了承してくれた。心臓移植の話をしたのも効いているのかもしれなかった。
こうして、私は今日、めでたく看護実習生として病院の門をくぐることになった。
看護実習生に決まってから二週間。先生の励ましや両親と瑞希くんからの心配をこれでもかと受け、私はこの実習の意義をおそらく誰よりも理解した。
――これは、私が看護婦になるために残された最後の道だわ。
ここで失敗したり、ひどく体調を崩すようなら、もう二度と看護婦など口には出せないだろう。逆に言えば、ここで成果を出し、認めてもらうことができれば、いくらか希望が残される。瑞希くんはきっと最後まで反対するだろうが、実績さえあれば、結納後に看護婦になることもできるかもしれない。
――それに。
私は目の前の病院を見上げた。
病院の看板には見覚えのある名前が掲げられている。なんの因果か、実習先は私が幼い頃に入院し、心臓移植の手術を受けた病院そのものだった。
恩返しの機会でもあり、私の心臓移植について調べる絶好の機会でもある。
私が胸元を握りしめていると、隣から肩を叩かれた。
「おはよう、美羽。今日から頑張ろうね」
見れば、菜々ちゃんが上機嫌な笑みを見せて立っていた。
「おはよう、菜々ちゃん。今日は元気ね」
「そりゃ、あたしだって美羽ほどじゃないけど、職業婦人としてやっていけるって親に認めてもらう機会だもの。逃さないわよ」
菜々ちゃんも気合充分なようだ。私たちは一蓮托生。互いを鼓舞するため軽く手を握る。
その後、他に実習生として選ばれた残る三名の生徒と付き添いの教員が病院に集まり、私たちはいよいよ入り口の扉を押し開けた。
病院に入ってまず感じるのは独特な薬品の匂い。それから、多くの人たちの往来。大学の附属病院とあってか平日の朝から忙しない。足音や話し声が病院の静かな印象を覆す。病院特有の白い壁や床は院内を広く、明るく感じさせた。
――懐かしい。
私が郷愁めいた感情に浸っていると、遠くから「お待たせしました」と声が聞こえた。
白衣を身に着けた医者と看護婦が数名、こちらに歩いてくる。付き添いの教員が医者たちと簡単な挨拶を済ませた後、私たちは院長室へと案内されることになった。そこで院長やお世話になる看護婦長たちに自己紹介をすることになっている。
場所が変わっていなければ、院長室は病院の最上階、奥のほうにあったと記憶している。私は入ったことがないが、子供たちが例年いたずらをするようで、近づかないようにと看護婦たちに口酸っぱく言われていた。
果たして、院長室はやはり思い描いていた記憶の場所と相違なかった。
入室すると、朗らかな笑みを浮かべた初老の男性が立ち上がって挨拶をしてくださった。
私の知っていた院長ではない。退院後に変わってしまったのだろう。
院長室の中は低い机を囲むように来客用の大きな長椅子が二つ、院長用の大きな机が一つ。壁にはたくさんの賞状や医学書の入った棚が並んでいる。
子供の頃にも立ち入ったことのない場所だ。中はこんな風になっていたのか。
思わずしげしげと見回していると、後ろの菜々ちゃんから「ちょっと」と脇腹を小突かれた。私のせいで菜々ちゃんは入り口につっかえていた。
「ごめんなさい、なんだか感慨深くて」
私は慌てて学友に続き、列に並ぶ。全員が揃うと、院長と看護婦長の紹介があり、自己紹介は私たちの番へと移る。
私は今日のために昨晩必死で練習した自己紹介を思い出す。
「高嶺美羽と言います。幼少の頃、こちらでお世話になっていました。そのご恩をお返ししたく、看護婦を目指しております。本日から、よろしくお願いいたします」
一礼して向き直ると、院長と看護婦長がどこか苦々しげに顔を見合わせていた。
変なことを言っただろうか。急に足がすくんでしまうような不安に襲われる。
だが、すぐに菜々ちゃんの自己紹介が始まり、院長たちはすぐに菜々ちゃんのほうへ視線を向ける。
私の疑念はただの考えすぎだったらしい。その後、院長や看護婦は簡単な説明や実習の内容を話し、私たちが理解したと見るとその場は解散となった。私の話に興味を示したのはむしろ教員や学友のほうで、院長たちからの言及はなかった。
本格的な実習は明日からの二週間。今日は病院の案内や規則、最低限の座学を受けて終了だ。
院内は、私の知っている頃から変わっている場所もあれば、変わらないところも多くあった。変わっている場所を見れば学友たちと同じように新鮮な気持ちで感動し、変わらぬ場所を見れば懐かしさに目を細めた。
特に小児病棟は私の第二の家と言っても良い。決して良い思い出ばかりではないので美化はできないが、昨日のことのように鮮明に蘇る記憶には胸に迫るものがあった。病院内に設置された学校代わりの教室も、病棟の一室から見える中庭も、廊下に貼られた折り紙や絵の数々も。病院着を着て走り回る子供たちを注意する看護婦の声を聞けば、まるで過去の自分とすれ違っているような気分にすらなる。
「本当に、ここで働くのね」
夢に見ていたことが現実味を帯び、私は今日何度目かわからぬ感慨に浸った。
見れば、隣を歩いていた菜々ちゃんの顔にも覚悟が滲んでいる。
私たちは将来への道を切り開いたのだ。その実感を胸にしまい、座学が行われる講義室へと向かった。




