第五話 薔薇と決意
いざ瑞希くんと向かいあうと、つい先ほど湧き上がった勇気が一気に萎んでいきそうになる。私の首筋にはじっとりと嫌な汗が伝っていった。
「どうした? 忘れ物か?」
後部座席の扉を開けた瑞希くんが一歩も動かなくなってしまった私を覗きこんだ。
「い、いえ……、そういう、わけでは」
「なら、なにかあったのか? 後ろにいるご学友と関係が?」
「え?」
振り返ると、校門の奥から菜々ちゃんがこちらを窺っていた。私と目が合うと、彼女はぐっと両手の拳を握りしめた。激励してくれているのがよくわかる。
「あ、えっと……」
菜々ちゃんを幻滅させたくない。親友との約束を反故にするのは嫌だ。
それ以上に、ここで言わなければ応募を諦めた時よりも後悔すると自分を鼓舞する。
実習生の枠に空きができたなんて千載一遇の好機は、そう何度も訪れない。神さまが誰にでも、いつでも優しいものではないことは嫌というほど知っている。
私は覚悟を決め、菜々ちゃんに軽く手を振った。
――大丈夫。
合図が伝わったのか、菜々ちゃんも手を振って帰路についた。私はその後ろ姿を見送り、改めて瑞希くんと対峙する。
「実は、お話があるんです」
「話?」
ピクリと瑞希くんの形の良い眉が動く。私から改まって瑞希くんに話をすることなどそうない。瑞希くんは話の内容を推察するように一度だけ視線を外し、思い当たる節がないとわかると私に視線を戻した。
「わかった。どこか、話せる場所に行こうか」
「良いのですか? お仕事は……」
「今は、みぃの話のほうが大事そうだ。以前、辞書を買いに行くのにもついていってやれなかったしな」
瑞希くんは運転席の窓を叩き、運転手に二、三言告げると「さ、行こう」と私を中に促す。
私は深呼吸して車に乗り込んだ。瑞希くんが後に続き、車が発進する。
「もしかして、あの子がいつもみぃの髪を結ってくれてるご学友か?」
「ええ。鈴原菜々子さんと言って、鐡道会社の娘さんなんですよ」
「そうか、覚えておこう。今日の髪形もみぃに良く似合ってる。簪も品があって良いな」
瑞希くんは心底愛おしそうに目を細め、私の髪が乱れない程度に軽く撫でた。
しかし、瑞希くんとの会話はそこで途切れた。彼がいつもの饒舌を潜め、前を向いたまま黙ってしまったからだ。私からの話とやらについて色々と考えているのかもしれない。
瑞希くんが口を開いたのは、車が百貨店の近くに位置する喫茶店に到着した時だった。
「百貨店のカフェーより、こちらのほうが甘味があるんだ。きっとみぃも気に入るよ」
瑞希くんに手を引かれ、喫茶店へと入る。先日、先生と行ったカフェーと似たような雰囲気ではあったが、たしかに店に漂う匂いはカフェーより少し甘いような気がした。紳士淑女の社交場としての側面が強いのか、若い男女の客も多いように思える。
瑞希くんを見るなり、店長らしき年端の男性が店の奥からやってくる。
瑞希くんは帽子を軽く持ち上げ会釈した。
「丸井さま、ようこそいらっしゃいました。ご案内いたします」
店員に案内され、私たちは二階へと続く階段を登る。
「二階に個室があるんだ。そのほうがゆっくり話せるだろう?」
「良く来られるんですか?」
「うちが仕入れた品を卸しているんだ。たまに仕事でも使うよ」
瑞希くんはどこか誇らしげに微笑んだ。
案内された個室は広く、普段は商談などにも使われているようだった。それぞれ飲み物を注文する。瑞希くんの厚意で、私はハットケーキと呼ばれる甘味も頼んだ。小麦を卵や牛乳と混ぜて焼いた西洋のお菓子で、あんこや蜂蜜と合わせて食べるらしい。
焼き上げるのに少し時間がかかるとのことで、私は先に話を切り出すことに決めた。あまりぐずぐずしても緊張や不安が増えるばかりで良いことはない。
瑞希くんもまた、私の話が気になっていたようで、運ばれてきた珈琲を一口すするとすぐに私へ話を振った。
「それで? 話ってなんだ?」
私は背筋を伸ばし、ゆっくりと息を吸う。
――大丈夫。瑞希くんは、きちんと話せばわかってくださるかただもの。一度断られたからと言って、怖がってはダメよ。
自分に言い聞かせ、机の下で震える両手を握りしめる。
「看護実習生のことで、お話があります」
言い終えると、瑞希くんは心底嫌そうに顔を歪ませた。
「すでに締め切ったんじゃなかったか?」
「ええ。ですが、空きができたそうです。それで、推薦を」
「……前にも言ったけど、俺は反対だ。看護婦は大変な仕事だし、みぃの体が心配なんだ」
「わかっています。瑞希くんのおっしゃることも、自分の体のことも」
いつもなら、ここで話は終わりだ。瑞希くんの意見を慮り、優先させてきた。私は病弱で、誰かに守られていなければ生きていけないような人間だから。
でも、今日はそれではいけない。
震える唇を無理やりに開き、なぜだか涙があふれそうになるのをこらえる。
これよりも辛いことや、怖いことは子供の頃に何度も体験している。自分の想いを伝えることくらい、なんてことはない。
挑戦もせずに、自分にはできないと言い聞かせること。自分の人生を自分で選べないこと。誰の心臓かもわからないまま、自分が何者かもわからないままに、人生を終えること。
それらのほうがよっぽど恐ろしい。
「どうしても、諦めきれないんです。だから、お願いします」
私はこれでもかと頭を下げた。机と額がぶつかっても気にならなかった。
何度振り子時計が往復しただろう。
扉が叩かれ、ようやく瑞希くんがうめくように声を漏らした。
「……顔を上げてくれ」
苦慮にまみれた弱々しい声に私は頭を上げる。同時、扉が開かれ、ハットケーキが運ばれてくる。白くて丸いそれは、満月のように綺麗だった。
視線を瑞希くんに移すと、同じくハットケーキを見つめている彼は唇を真っ直ぐに引き結び、眉根を寄せていた。
給仕係が扉の向こうに消えると、瑞希くんはようやく言葉を紡ぎ始める。
「みぃの気持ちはわかった。みぃの子供の時の話はご両親からもお聞きしているし……、みぃが看護婦を目指す気持ちも理解してるつもりだ」
恩返しがしたいという純粋な思いは、誰しもが抱えるものだ。
瑞希くんは唸りながら両腕を組んで天井を見上げる。考え事をする時の彼の癖だ。
私の体調を案ずる気持ちと、私の夢を応援する気持ちが彼を迷わせているのだとすれば、それだけでも大きな進歩である。
祈るような気持ちで再び結論を待つ。
瑞希くんはカップに注がれた珈琲の黒をしばし凝視した後、諦めたように口を開いた。
「……わかった。先日は頭ごなしにダメだと言って悪かった。みぃの気持ちを尊重する。実際に働いてみてわかることもたくさんあるだろうし……」
現実を見れば、私が夢を諦める機会になると考えたのだろうとわかる口ぶりだった。それでも、渋々ながら許可がもらえたのだから、私にとっては文句の一つもない。
瑞希くんは「体調を崩すようならすぐに実習を取りやめること」「病院まで送迎させること」など、次々と条件を持ち出しながらも、最終的には
「みぃのためだ」
と自分を納得させるように瑞希くんは深く息を吐いた。
つまりは、看護実習生への応募を認めてくれたのだ。
「ありがとうございます!」
最初からもっと瑞希くんと話をするべきだったと別の後悔が湧くものの、すぐにそれ以上の喜びが今はそんなことを考えなくてもいいと打ち消してくれる。
その後、私が初めて口にしたハットケーキは自由への甘美に満ちていた。
絶対に今日という日を忘れない。自信を持ってそう言えるほどに。




