第四話 薔薇と好機
自らの心臓移植手術に違和感を覚えたものの、成す術もなく一週間が過ぎた。
先生なら病院の規則について詳しいことを知っているかもしれない。そう考えて家庭教師に来てくれた先生にも聞いてはみたものの、先生は両親よりももっと部外者であり、「病院が秘密にしていることならそうなのでしょう」としか答えなかった。しかも、その時の先生の態度がどこか冷たく感じられ、私はそれ以上を言及することも怖くなってしまった。
そんな訳で、この話をできるのは親友ただ一人である。
看護実習生に決まった菜々ちゃんは、来週からの実習に備えて色々と準備があるはずなのに、今日も湿気でうねった私の髪をせっせと編み込んでいた。
「なるほどね。でも、聞けば聞くほど怪しいわ。なんだか、推理小説でも読んでいるみたい。美羽、探偵みたいで格好いいわよ」
「謎が解けないんじゃ、探偵にはなれないわ」
「ふふ、それもそうね。あ、でも、そんな美羽にあたしからも朗報があるの」
菜々ちゃんは二つの三つ編みを器用に後ろで束ねると、綺麗なお団子にまとめてくれる。
簪を挿して「できた」と私の肩を叩いたかと思うと、彼女はそのまま私の耳元でささやいた。
「実はね、内緒の話。看護実習生に空きが出たらしいのよ」
「え?」
「美羽、応募を辞退したじゃない? だから、あんまり誘うのもしつこいように思って悩んだんだけど……、あたし、やっぱり美羽は実習を受けるべきだと思って」
菜々ちゃんは私の前に回って空いている椅子に座る。背もたれに両肘を預けて座る菜々ちゃんはとても行儀のよい格好とは言えなかったけれど、その真剣な表情を見れば、姿勢を咎めることはできなかった。
菜々ちゃんは一段声量を押さえて、私にだけ聞こえるように手元を隠して続ける。
「今日、偶然教職室で聞いちゃったの。一人、家庭の事情でダメになってしまったんですって。でも、落選した子たちは相応の理由で落選させたから……、誰か良い人がいればって話になってたのよ」
「そんなことが……」
菜々ちゃんはそっと私の手を握った。
「ねえ、美羽。あたし、美羽を推薦したい。美羽の体調のことも、家庭のことも……、婚約者のことも理解はしてるつもりよ。でも、それじゃあ美羽の幸せはどうなっちゃうわけ?」
「菜々ちゃん……」
「美羽だって、美羽の幸せを選ぶべきよ。後悔しないためにも、もう一度お話してみたほうがいいと思う」
――私の幸せ。
「全部を諦めちゃだめよ。良い子でいようなんて考えちゃダメ。美羽は、美羽らしく生きるべきだわ」
――私は、私らしく。
私が諦めてきたことや、これまで両親に迷惑をかけたからという理由で閉まってきたものが、野ざらしにされて白日にさらされた気がした。
菜々ちゃんの強い光に導かれるように、私は無意識にその手を握り返していた。
「……本当に、良いと思う?」
「ええ。もちろんよ。もし、それで文句を言われるなら、あたしが一緒に戦ってあげるわ。美羽の人生なんだから、他人が口出しをするなって」
「でも、それじゃ、菜々ちゃんに迷惑がかかっちゃうし……」
「迷惑じゃないわよ。あたしは美羽と一緒にいれることが幸せだし、美羽の幸せが幸せなのよ。それに、あたしだって美羽が一緒に看護実習に来てくれたら心強いもの。だから、これはあたしのためでもあるの」
菜々ちゃんは握っていた手を解いて、校舎の外へ顔を向けた。
「よし。決めた。あたしが丸井さまにお話するわ」
「え? ちょ、ちょっと。それはさすがに……」
自分で言うから、と自然に口からこぼれた。蓋をしていた気持ちが溢れる。口に出してしまえば、なんてことはない、むしろそれが自然だったのだと思えた。
「大丈夫よ。私、決めたわ。きちんとお話してみる」
だから大丈夫だと菜々ちゃんを引き止めれば、彼女は不服そうに唇を尖らせる。
「本当に一人で平気?」
「……うん。菜々ちゃんに言われて、私、少し勇気が出たみたい」
「それじゃあ、近くで見守ってるわ。だから、なにかあったらすぐに教えて。走っていく」
できれば菜々ちゃんを走らせることはしたくない。女学校の先生にそんなところを見られたらなにと言われるかわからないし、瑞希くんや周りの男性に菜々ちゃんのそんな姿を見せるのもなんだかためらわれた。
「大丈夫よ。ありがとう、菜々ちゃん」
私は絶対に自分一人でなんとかしようと心に決めた。菜々ちゃんがついていてくれるだけで頼もしい。
看護実習に空きができたのは神さまが与えてくださった最後の好機に違いない。ここを逃してしまったら、私はきっと一生後悔するだろう。それに。
ここで勇気を出せなかったら、私はずっとこのままだ。この先もずっと。
鳥かごの中の鳥でいることを、自らの意志でやめなければ。
私は「よし」と立ち上がる。簪の飾りが揺れ、しゃらりと清らかな音を奏でた。菜々ちゃんが結ってくれた髪が気持ちを引き締めてくれる。
「もう行くの?」
「そろそろお迎えの時間だもの。今日は先に行って、瑞希くんを待ってみることにする」
いつもは待たせてばかり。迎えが来るのを待っているだけだ。
けれど、今日はそれではいけないような気がした。
「よし。じゃあ、一緒に行きましょう。あたし、門のところで待ってるわ」
「うん。大丈夫だったら、手を振るから。その時は待たずに帰ってね」
「わかった」
菜々ちゃんが力強く頷く。
私たちはどちらともなく小指を絡めて約束した。
教室を出る。空を覆う曇天の雲間から夏の到来を知らせる陽射しが覗いていた。




