第三話 薔薇と心臓移植
夜、学校の課題を済ませ、先生からいただいた論文の翻訳に取り掛かろうとしたところで、私はふと菜々ちゃんとの会話を思い出した。
自分の体の中に、他人の心臓がある。誰かからもらった心臓で、私は生きている。
こんな大切なことを、なぜ今まで私は一度も考えなかったのだろう。
いや、考えたことがないわけではない。心臓移植について、まだ幼い頃とはいえ簡単な説明はたしかに受けたはずだし、誰かに与えてもらった命だと意識もある。
けれど、そのことについて深く突き詰めたことはなかった。
例えば、誰の心臓なのか。相手はどうなってしまったのか。誰が手術をしてくれたのか。
そうした詳細な事実を聞いたこともなければ、聞こうと思ったこともなかった。
「お母さまたちなら、わかるかしら」
私が当時聞いてもわからなかったことでも、大人たちは理解していたはずだ。私が自分では判断できない年齢だったから、両親のほうが事細かに説明も受けただろう。決して簡単な手術ではなかっただろうし、そうした危険性の高い手術には両親の同意が必要だ。
昨日、翻訳した論文にも書いてあった。治療を受ける本人も、その家族も、大切な患者だと。
私は自室を出て階段を下りる。居間を覗くと、お父さまがなにやら小難しい顔で新聞を読み、その隣でお母さまが裁縫をしていた。
「お父さま、お母さま」
「おお、珍しいな。どうしたんだい?」
「お茶でも飲む?」
「お茶は……、うん、頂戴します」
「まあ、座りなさい」
お父さまに促され、二人が座っていた長椅子の前、一人用の椅子に腰かける。お父さまは灰皿に煙草を押しつけ、新聞を畳んだ。
「勉強は順調かな?」
「ええ。先生の課題も勉強になっています」
「では、結納のことか? 丸井くんと喧嘩したとか……」
「いいえ、お父さま。大丈夫ですわ。瑞希くんはいつもとっても優しくしてくださいますもの」
お父さまは「それは良かった」と言いつつも、ではなに用かと探っているようだった。昔から体の弱い娘のことを心配する親の性だろう。
湯呑を三つ持ってきたお母さまが腰かけるのを待って、私は椅子に座りなおした。湯呑に口をつけ、渇いた喉を潤す。
別に変なことを聞くわけではないのに、なぜかほんの少しだけ緊張する。これまであまり面と向かって話したことのない話題だからかもしれなかった。
「お父さまとお母さんにお聞きしたいことがあって」
「ああ、なんでも聞きなさい」
「どうしたの?」
「心臓移植のことを教えていただきたいんです」
お父さまは湯呑に伸ばしていた手を止めた。
「どうしてまた急に」
「いえ、どう、ということではないのですが……、ただ、今日少し友人とそういう会話になりましたの。それで、私、そういえば自分のことなのになにも知らないと思って」
看護実習生の話は両親にしていない。瑞希くんに白紙に戻されたうえ、結納の話のほうが大切なことだったから。だから、あくまでも友人との会話でそうした文脈が出たのだと強調した。特別なことではなく、自分自身の問題に興味が湧いたのだと。
両親は顔を見合わせ、それぞれに湯呑を口に運んだ。
「うーん……、なんと言えばいいのか……」
唸るお父さまに代わり、湯呑を机に戻したお母さまが言葉を引き取った。
「実はね、わたくしたちもそのことは詳しく知らないのよ」
「え?」
意に反する言葉に私は持っていた湯呑を落としそうになる。慌ててお母さまに倣って、私も机の上に湯呑を戻した。
私の心臓の位置で目線を止めたお母さまの表情が苦々しく歪む。
「心臓移植が必要な病気だったことも、それで移植したことも、美羽はわかっていると思うから、きっと聞きたいのはもっと別のことよね? 例えば、誰の心臓なのか」
「え、ええ……。そういうことが、気になって……」
「いつか、聞かれるんじゃないかと思っていたの。わたくしたちも、美羽が心臓移植の手術を受けると聞いた時、手術をしてくださるお医者さまが誰なのか、心臓の持ち主は誰なのか。そうしたことを聞きたいと思ったから」
だが、お母さまは静かに首を横に振った。
「でも、病院からはなにも教えてもらえなかった。ごめんなさいね。美羽が、気になるだろうとは思っていたの。いつか、自分が何者なのか、そうして迷うこともあるかもしれないと、病院の先生からも聞いていたわ」
「それじゃあ……」
「でも、ダメなんですって。相手方の個人情報もあるし、教えられないと言われてしまったのよ。だから、ごめんなさい。私たちが教えられることはなにもないの」
「そう、なんですね……」
なんだか、拍子抜けしてしまった。
心臓の持ち主がわかったからといって、どうなりたいとか、私の人生が変わるとは思っていなかった。ただ、自分を生かしてくれた人へお礼を言えないことは寂しいような気がする。
同時に、ほんの少しだけ違和感があった。
私はこれまでに先生と勉強してきたことを思い出す。
心臓を提供する相手の情報については、たしかにそうした問題があるかもしれない。
だが、手術をする医者まで教えてもらえないというのはどういうことだろう。
失敗した時に訴えられないようにするため? ならば、成功したのだから公表したってかまわないはずだ。医者がとても謙虚で、そうしたお礼を受け取らない主義だったとしても、名前を伏せる理由にはならない。
そもそも、執刀医には責任が伴う。医者の情報を伏せるのは、むしろ病院にとってはやましいことがあるのではと思われる可能性もある。少なくとも、命を預ける相手が誰だかもわからずに手術を頼むのは、患者や家族の恐怖心を煽る行為に近い。両親はおそらく、それでもいいからと頼んだのだろうが、医療行為として誠実さを欠いた対応にも思えた。
「大丈夫かい?」
私が黙り込んだからだろう。お父さまが心配そうにこちらを見つめていた。私は笑みを作って頷く。
「大丈夫、ですわ。ただ、少し気になっただけですの。今、こうして生きていられるのはその方々のおかげだから、お礼ができればと思ったんです。でも、わからないなら仕方ないですわよね」
「ああ、そうだな。父さんたちもずっと考えてるよ。でも、わからない以上は、直接できることがない。だから、父さんと母さんで話し合って決めたんだ。多くの人たちに役に立つ事業を展開して、間接的に恩を返そうってね」
お父さまが仕事に邁進する理由を初めて聞き、今度は心からの笑みが浮かんだ。
お父さまも、お母さまも立派な人だ。
「丸井くんも、そのことは知ってくれている。だから、協力もしてくれてるんだよ」
「……ええ、そうですわね。瑞希くんも、すごく素敵な人ですもの。理解してますわ」
これ以上、聞きたい話は聞けないだろう。瑞希くんの話をするのは少し気づかれしてしまうので、私は湯呑に残っていたお茶を飲み干し、席を立った。
「教えてくださってありがとうございます。私も、人の役に立てるようにもう少し勉強を頑張りますね」
「うん。そうだな」
「無理はしないようにね。この間も熱を出したんだから」
「わかってます」
私は二人に会釈して居間を出る。
二人は本当に心臓移植については、私と同じようなことしか知らないようだ。
――でも、どうして。モヤモヤするわね。
私は自らの胸に手を当てる。
――一体、あなたは誰なの?
それまで静かに脈打っていた心臓が、応えるようにドクンと大きく跳ねた。




