第二話 薔薇と志望理由
私が菜々ちゃんから相談を受けたのは翌日のことだった。
真剣な、けれどどこか後ろめたい様子を隠しもせずに菜々ちゃんが取り出したのは看護実習生の面接用の書類だ。
「……ごめん。美羽にこんなことを頼むのは正直いけないことだってわかってるの。でも、他に頼れる人もいなくて」
面接用書類の空欄に目をやる。
――志望理由。
菜々ちゃんは看護婦になりたいと真剣に思っているわけではない。将来、職業婦人になりたいというのが菜々ちゃんの目下の目標で、看護実習生はその将来の可能性を広げたり、検討するための第一歩なのだ。だからこそ、なにを書くべきか迷っているということだろう。正直に書けば落とされてしまうし、かと言って他によい理由など思いつかない。
菜々ちゃんは「本当にごめん」ともう一度頭を下げた。
菜々ちゃんのこういう真摯で誠実な態度が好きだ。竹を割ったように真っ直ぐで、けれど情を感じられる。大好きな親友だ。
「私、菜々ちゃんのために役に立てることがあるならなんでもするわ」
私は膝にのせていた弁当箱を長椅子に避けて、菜々ちゃんの手を握った。本気でそう思っていることが菜々ちゃんに伝わりますようにと、願いを込めて。
菜々ちゃんはそれでもどこか申し訳なさそうに唇を噛んでいる。
「菜々ちゃんの素敵な顔が台無しよ」
「……悪いことをしてる気分だわ」
「もう。どうしてそんなことを言うの。菜々ちゃんは立派よ。ちゃんと将来のことを考えて選んだんでしょう? それに、私が実習に参加できないのは、私の体のせいだもの。菜々ちゃんはなにも悪くないわ」
「それは、そうかもしれないけど……」
「あのね、私、菜々ちゃんが実習に行ってくれたらいいなって思ってるの」
「え?」
「だって、考えてみて。菜々ちゃんが行けば、私はその話が聞けるでしょう? そうすれば、私だって実習に参加した気持ちになれるかも」
なんとか励ましたくて、私はこれでもかと言葉を重ねる。いつもより早口になった私に、菜々ちゃんは驚いたようだった。
私をじっと見つめてから、ようやく破顔する。
「……それは、そうね。たしかに。美羽の代わりにあたしが頑張れば、美羽にも話せることが増えるんだもの。そのためにも、絶対合格しなきゃ」
「そうよ! その意気よ! 私も菜々ちゃんが頑張っている間、たくさん勉強するわ。お互いにできることをやりましょう」
「あたしたち、一蓮托生ね」
「ええ」
私と菜々ちゃんはどちらともなく手を握りあう。
木漏れ日が心の内側までをも照らすような気分だ。菜々ちゃんが親友で良かったと心の底からそう思う。
「それじゃあ、質問ね」
すっかり元気を取り戻した菜々ちゃんが、改めまして、と姿勢を正す。私と菜々ちゃんは長椅子に浅く腰かけ、互いに向き合う形で座りなおした。
「美羽はどうして看護婦になりたいと思ったの?」
「私?」
「うん。人の話を聞けば、それが手がかりになるかもしれないでしょう。美羽はずっと看護婦を目指してるんだもの。参考になるわ」
促されて、私は以前かいつまんで話した過去のことをもう少しだけ詳しく説明することにした。菜々ちゃんには心臓移植のことを伝えているけれど、病気のことや、病院での生活については話したことがない。
「私ね、生まれつき体が弱くて。ずっと病院での生活だったの。学校も、病院の中にあってね。すごくいろんな人にお世話になって。お医者さまや看護婦さんがいなかったら、あたし、きっと今頃ここにはいなかったから恩返しがしたいの」
「それじゃあ、心臓移植がきっかけって訳じゃないんだ」
「そうね。きっと、その後かな。苦しい時に寄り添ってもらったり、病院での暮らしが少しでも楽しくなるようにって一緒にいてくれたり……、そういう人たちになりたいって思ったの」
「そっか……、なんか、こんなこと言っていいのかわかんないけど、でも、良い話だね」
「うん。辛いこともあったけど、素敵な思い出よ」
「心臓移植のことは、覚えてないの?」
「うーん……」
私はその時のことを思い出そうと頭の中の記憶を辿る。が、手術をすることになったことはなんとなく覚えていても、不思議なことにその前後の記憶はすっぽりと抜け落ちていた。
「もしかしたら、薬のせいかも。覚えてないわ。麻酔もしたはずだし」
「へえ、そういうもんなんだ。てっきり、心臓移植が美羽の人生を変えたのかと思ってたけど、案外そうでもないのね」
「そうね。言われてみたら、今まであんまり考えたこともなかったわ。誰かの心臓が、自分の中に入ってて……、それで私が生きてるって、すごく不思議なことなのにね」
「本当よ。まったく、美羽ってそういうところあるわよね。図太いっていうか」
「もう十年も一緒にいるんだもの。他人とは思えないのよ」
私は制服の上から胸元に手を当ててみる。心臓は今日もトクトクと規則正しく動いている。
「でも、たしかに、一番大切なのは誰かの役に立ちたいって思いかもね。あたしも、その気持ちはわかるもの」
菜々ちゃんは早速志望理由の欄に鉛筆を走らせる。どうやら、書くべき内容が決まったみたいだ。
「菜々ちゃんはどうして職業婦人になりたいの? 菜々ちゃんなら、お見合いのお申し込みもたくさん来るでしょう?」
菜々ちゃんは兄弟もいないはずだし、両親にとって自慢の一人娘だろう。しかも、美人ときた。政略結婚ではないにせよ、両親の伝手で見合いの話は舞い込んできそうなものである。
真剣な顔で文章を考えている菜々ちゃんは「そういうのはいいの」と軽くあしらった。他人の恋愛話にはこれでもかと楽しそうにのってくるのに、彼女自身はあまり興味がないらしい。
「あたしは自分の力で生きていきたいだけ。両親が過保護で面倒なの。だからかな。誰かに守られるのって、多分あんまり得意じゃなくて。誰かを守るほうが性に合ってるわ」
菜々ちゃんは「だから、誰かの役に立ちたいって気持ちはわかる」ともう一度念を押すように言った。
さすが女学校の王子さま。
守られるより守りたいだなんて、守られることが当たり前だった私にはない視点だ。
「菜々ちゃんって、本当に格好いいよね」
「じゃあ、美羽がお嫁に来る?」
「……できるなら、本当にそうしたいわ」
私が嘆息すると、菜々ちゃんが笑う。その間にも彼女は手を動かし続けていた。空欄が埋まり、菜々ちゃんが嬉しそうに「よし」と鉛筆を袴の隠しにしまう。
「幸運を祈ってて」
菜々ちゃんは丁寧に書類を畳み、こちらに手を差し出す。
私は「もちろん」と空いた手を握って頷いた。
羨ましいという気持ちはあるし、ともすれば嫉妬のような感情すら芽生えてしまいそうになる。でも、今は、菜々ちゃんがいつも私の幸せを願ってくれているように、私も心の底から菜々ちゃんの幸せを願いたかった。




