第一話 薔薇と独学
看護実習生の募集が締め切られ、結納の日取りが決まり、私の生活はあっけなく元通りに戻った。
応募を辞退したと言えば、菜々ちゃんは残念そうにしながらも理由までは追求してこなかったし、先生もそれは同じだった。
でも、やれることはある。看護実習生にならなくとも、看護婦になる道はいくらでもあるし、もともと、そんな好機が舞い込んでくるとすら思っていなかったのだ。今まで通り、先生との勉強に戻るだけ。
「……できたわ」
私が万年筆を置くと、先生が小説を閉じた。
今日は西洋医学について英語で書かれた論文を翻訳する課題が与えられている。一か月かけて翻訳しようと先生が特別に持ってきてくださったものだ。蘭語との違いにてこずったが、五章のうち最初の一章はなんとか読み解けたように思う。
看護に関わる家族の心理状態をどのように保つか。一章ではまだそのさわりが書かれているだけだが、とても勉強になる。治療を受ける本人だけでなく、本人の家族にも理解や寄り添いが必要なのだという学びは、まさに自分の過去、幼少期を支えてくれた両親への感謝に直結した。
「確認してくださる?」
先生は私の翻訳を受け取ると、素早く目を滑らせ、いくつかの翻訳の意味合いや言い回しに間違いがあることを見つけたようだ。赤を入れ、私のほうへ戻した。先生の綺麗な文字に惚れ惚れしながら解説を聞く。
「この単語は専門用語なので、辞書にはなかったかもしれませんね。日本語では、衛生と言います。直前のメンタルと繋げて精神衛生。体だけではなく、心を侵す病もあります。心を健やかに保つこともまた重要だと説いているんです」
「へえ……」
私がそれをもとに翻訳を直せば、先生は「完璧です」と微笑んだ。先日の外出も、見舞いの日の夢の話も、忘れたみたいにいつもの家庭教師然とした態度だった。
先生の指導で完璧に完成された翻訳文を見つめ、私は再び小説へ視線を落とした先生を盗み見る。
先生は一体、どうやってこの論文を入手したのだろう。書かれた日付は直近のもので、少なくとも一般人が手に入れられるようなものではない。しかも、先生は専門的な内容――少なくとも、私の手元の辞書にはのっていないような医学的単語――についてもきちんと正確に翻訳ができるだけの知識を持っている。
家庭教師になる前の先生のことは何一つ知らないが、きっと、昔から優秀だったのだろう。そんな先生に師事しているのだ。私も看護実習生でなくても看護婦になれそうな気がする。
今は、そう言い聞かせることしかできない。
私は再び辞書と論文に向き合い、応募できなかった実習のぶんを補おうと課題に集中した。
集中すると時間は短く感じられる。先生が本を閉じる音で私は手を止めた。二章は半分ほどに差し掛かり、ちょうど私も専門用語の多さに辟易とし始めていた頃だった。
「お疲れになられたでしょう。ここはここまでにしましょうか」
「ええ、そうね」
窓から西日が射しこんでいる。夏を前に日が長くなってきているが、だからといって家庭教師の時間を延長できるわけではない。
「今日は普段以上に集中されていましたね」
帰り支度をしながら、先生は私の手元を覗き込む。まとまりきっていない文章の羅列を見ながら、先生はどこか懐かしそうに微笑んだ。
「……実習には、参加できなくなってしまったから」
「なるほど」
拗ねたような私の言い分に、先生は一層笑みを深める。子供っぽいと思われたかもしれない。そう思うが、すでに言ってしまったことだ。発言は取り消せない。
「実習がすべてではありませんよ。お嬢さまほど努力されているかたは多くありません」
「ええ。そう思うことにするわ。そうでなきゃ、やってられないもの」
「良い心がけですね。論文は置いていきます。学校の課題を優先にすること。それを守ってくだされば、翻訳は進めてもかまいません」
「いいの?」
「もちろん。お嬢さまの夢を応援するのが僕の仕事ですから」
先生は上着を羽織ると、襟元を丁寧に正した。恭しく礼をして「それでは」と別れの挨拶を切り出す。
「お見送りさせて」
「それでは、お言葉に甘えて」
私は先生と連れ立って廊下を歩く。庭に咲いた梔子の花が窓の向こうに見えた。茂った緑の濃さに夏を感じる。そろそろ梔子の見ごろも終わりだ。
「そういえば、先生はいつも梔子の香りがするわね」
先生はスンと自らの羽織に鼻を当てた。
「そうですか?」
「ええ。甘くて、素敵な香りだから心配はしなくていいわ」
「それは良かった」
「お好きなの?」
先生の視線が、窓の向こうに咲き誇る白い花を捉えた。その表情にほんの少しだけ影が差す。艶やかな長い前髪が先生の表情を隠してしまうので、私からはよく見えなかった。
「……ええ、とても」
先生の声に宿った哀愁が、梔子の香りを一層深くさせたように思う。
私はそれ以上聞くのをやめた。玄関まではすぐそこだ。不自然な沈黙に耐える必要もなかった。
「では、お嬢さま。僕はこれで失礼します。次回お会いするときに、どこまで翻訳が進んでいるか楽しみにしていますね」
「ええ、もちろんよ。きっと終わらせるわ」
「はは、それは楽しみだ。頑張ってください」
「お気をつけて」
先生を見送り、私はやっぱり先生が好きだと強く思った。
私の夢を応援してくれるのは、頑張れと言ってくれるのは、先生と菜々ちゃんだけだ。両親も、瑞希くんも、私の夢は叶わないものとしている。厳密に言えば、先生も本当は私が看護婦にならなくてもいいと考えているのだろうけれど。
それを口には出さないでいてくれることが、今はとてもありがたかった。
――司さん。
またいつか、その名を呼べる日が来るのだろうか。
私はその日、先生の背中が見えなくなるまで玄関から外を眺めていた。




