第十一話 薔薇と鳥かご
「みぃ、悪いけどその話は無しだ」
看護実習生募集用紙を丁寧に畳み、瑞希くんは背広の内側へしまった。募集用紙を私へ返すつもりは一切ないようだった。
本人は抑えているつもりだろうが、明らかにいつもより機嫌が悪い。それもそのはず。私が寝込んで心配をかけたところに、瑞希くんにとって看護実習生の話は喜べない話だっただろうから。久しぶりに会えたのに、とも思っていることだろう。
瑞希くんは私から視線を外しただけで、流れていく景色を見るでもなく目を閉じた。仕事も忙しく、疲れもあるのだろう。
――だったら、無理に送迎なんかしなくてもいいのに。
意地の悪い考えが浮かんで、私は袴を握る。
瑞希くんは私を愛してくれているのだ。親が決めた政略結婚であるにも関わらず、私のことを想ってくださっている。
その気持ちに応えられていないのは、私のほうだ。
瑞希くんは深呼吸して、ゆっくりと口を開いた。だが、すぐには話し始めない。言葉を選んでいるのがわかる。私をできるかぎり傷つけまいとしてくださっている。
「……みぃが」
瑞希くんは言って、もう一度ためらうように口を閉じる。閉じていた瞼が開かれ、沈丁花色の綺麗な瞳が私を捉えた。
「みぃが、看護婦になりたいと思う気持ちは、俺も理解してる。どうして、そう思うのかも。でも……、世の中、どうにもならないこともあるだろう?」
瑞希くんはそっと私の肩に手を回し、そのまま私を引き寄せた。瑞希くんの肩に頭を預ける形になる。彼は、私の髪を丁寧に優しく撫でた。
「決して自分の体が強くないのは、わかるよな」
「……はい……」
一日外出しただけで風邪を引いた。熱を出し、二日ほどうなされていた。瑞希くんは毎晩必ず私の看病に来て、果物やお菓子を置いていってくださったらしい。私は眠っていて気づかなかったが、朝になると必ず袖机には花が添えられていた。
「看護婦は、大変な仕事だ。病院はどうしても感染源が多くなるし、四六時中そうした人たちを相手にしなきゃいけない。気持ちや思いだけでは、助けられないこともあるだろう」
瑞希くんの声にはいつも硬い芯がある。まっすぐにぶれない軸が。それが、彼の声の通りを良くしていて、嫌でも耳に入ってきてしまう。
瑞希くんは私の頭を撫で続けた。泣いている赤子をあやすような手つきだった。
「みぃを失いたくないんだ。みぃの好きなようにさせてやりたいと思うのと同じくらい、俺は、みぃを想ってるんだ」
悪い。
瑞希くんの謝罪は小さく、けれどはっきりと耳に残った。
泣いてはいけない。私は唇を噛みしめる。実は、瑞希くんに話すと決めた時からこうなるんじゃないかと予想もしていた。ただ、その予測が当たっただけだ。
――期待なんて、端からしていなかったはずでしょう。
私が黙っていると、瑞希くんは一層強く肩を抱きしめた。
「みぃ、今日、本当は他に話したいことがあったんだ。だから、この後、家に送ったらそのまま話すつもりだった」
なんの話だろう。今、話すべきことなのだろうか。
私がのそりと顔を上げると、瑞希くんと目が合った。意志の強さが宿った瞳が、わずかに弧を描いて微笑を称える。
「結納の日取りが決まった。ちょうど、一年後だ」
私は、どんな顔をしていただろう。
看護実習生に応募することすらできないと知った直後、婚約者から正式に結婚の知らせを聞く。
一つも、嬉しいことなどなかった。
そのことが顔に出ていなければ、それだけで及第点だと思う。
この世に、婚約者との結婚を喜ばない人なんているだろうか。実感が湧かず、ぼんやりとすることはあるだろう。私たちのように政略結婚で、義務的に受け取る人もいると思う。
けれど、私は明確に「嫌だ」と言いそうになる口を押さえるのに必死だった。
そこからのことは、ほとんど覚えていない。もしかしたら、熱がぶり返したのかもしれなかった。
車で家まで送られ、瑞希くんと共に下りた。いつもなら会社に戻るはずの瑞希くんは、いつもならまだ帰ってきていないはずの父と玄関先でにこやかに挨拶を交わし、客間で結納の段取りについて両親たちと話していた。両親と瑞希くんの間ではすでに日取りの相談も交わされていたらしい。
私はただ、その隣に座っていただけだ。話の半分も聞いていなかった。理解が追い付かず、心を占めていたのは瑞希くんがしまった募集用紙のことと、先生のことだった。
――司さん。
その名を呼べたら、どんなに良いだろう。
熱を出さなければ、明日には家庭教師の日で、先生に会えたのに。熱を出してしまったせいで、今週はお休みにしてしまった。
――先生に、司さんに会いたい。
そう思うのに、席を立つことすらできない自分が憎らしくて、馬鹿らしかった。
私の人生なのに、生まれた時から私は何一つ自分では決められなかった。両親の選択によって他人の心臓で生かされ、病院生活を余儀なくされた。退院後に得た自由も、長くはなかった。先生と出会って恋に落ちたが、すぐに瑞希くんとの婚約が決まってしまった。せっかく見つけた将来の夢も、簡単に潰されてしまう。
だったら、いっそ、あの時に亡くなってしまえば良かったのかもしれない。そんな悪い考えが頭をよぎる。
私たちの隣で盛り上がっている両親と瑞希くんの笑顔を、私は違う空間から一人見ているようだった。
まるで鳥かごの中の鳥。
一人ではなにもできない。満足に生きることすら。自分の人生の選択すら、自分ではできない。この体だから。私が選んだわけでもないのに。頼んだわけでもないのに。
いや、本当は。わかっている。
ここで席を立つくらいできる。私には足があって、自由に動かせるのだから。口を挟んだっていい。自分は納得しておらず、婚約など最初からする気がなかったと言ってもいい。
先生の元へ走って、先生に泣き縋ったっていい。みっともなくても、はしたなくても、先生が好きだと言って、先生の元にいさせてほしいと言ったっていい。
けれど、それをすればどうなる?
頼れる人もおらず、差し出せるものも持たない私が泣きわめき、我儘を言ったところで、両親や瑞希くんを傷つけるだけ。先生だって私を愛してなどいない。見捨てられて終わるだけだ。
では、他者から与えられた命を無残に捨てるのか? 当然できない。
わかっているのだ。
私は鳥かごの鳥ではない。
愛してくれている両親や瑞希くんの元から離れられないだけの――ただ、飛び立つ勇気を持たぬ鳥だ。




