第十話 薔薇と募集
結局、私の体調が回復したのは三日後だった。
数日ぶりの女学校は相変わらず姦しく、その華やかな喧騒にいくらか心も晴れる。体操の授業は残念ながら参加できなかったが、それ以外の座学には無事に出席できた。
親友を待つ間、木陰に置かれた長椅子から陽の射す運動場を見つめる。水たまりと、先ほどまで学友が体操を行っていた跡がいくつか残っている。
夏へと向かう空は青く澄んでいて、気化熱で冷やされた空気を運ぶ風が気持ちよかった。
「美羽!」
菜々ちゃんの溌剌とした声が聞こえる。
「お待たせ」
袴姿で駆けてきた菜々ちゃんはさながら王子さまのごとく、軽やかに裾を翻して長椅子を飛び越える。そのまま見事、椅子へ腰かけた。
「菜々ちゃんが相変わらず元気そうで良かったわ」
「美羽は? もう大丈夫なの?」
「おかげさまでね」
私たちは互いに持参したお弁当を膝の上に広げ、久しぶりの逢瀬を楽しむ。会っていない間におきた出来事を昼食のおかずにするように。
先に切り出したのは菜々ちゃんだ。ずっとこの話がしたかったのだとばかりに菜々ちゃんは私のほうへ体を寄せてニマニマと口元を歪めている。
「それで? 先生とお出かけしたんでしょう? どうだった?」
「それで、風邪を引いたのよ」
「もう! そういうんじゃなくて! 辛いことばっかりってこともないでしょ?」
「それは……」
思い出すと、菜々ちゃんにつられるように頬が緩んでしまう。当然、彼女がその変化を見逃してくれるはずもない。菜々ちゃんはしたり顔で笑った。
「ほら、やっぱり。なによぅ? なにがあったの? 教えなさいよ」
「……せ、先生にね、名前で呼んでもらったの」
私たちの間に爽やかな初夏の風が吹き抜ける。深みを増した緑の葉が何枚かさらわれていく。
弛緩した空気を切り裂いたのは菜々ちゃんの叫び声だ。
「えーっ!」
あまりにも大きな声で、近くで同じように食事をとっていた女学生たちがこちらを向いた。菜々ちゃんは慌てて自分の口を自分の手で押さえ、居住まいを正す。
「ほんとに? え、なんで? どうしてそうなるのよ!」
「な、菜々ちゃん、落ち着いて」
「これが落ち着いてられるわけないでしょ! なんて呼ばれたの? 呼び捨て? それとも、美羽ちゃんとか?」
「……美羽、さん……」
「さん! さん付け! まさかの!」
菜々ちゃんはなにがお気に召したのか胸の当たりを抑えて「素敵だわ」とうっとり呟いた。意外にも乙女だ。
菜々ちゃんはお茶に口をつけると、改まって私に向き直った。鬼気迫る顔である。
「……で? なんでそうなったの?」
「その……、はしたないって、思わない?」
「今更思わないわよ! 良いから言いなさい!」
「お出かけの日は、休日だったから……。今日は、家庭教師の先生と生徒の立場じゃないって言ったの。お嬢さま扱いしないでって」
「美羽が?」
「……うん」
菜々ちゃんはバシバシと私の背中を叩いて大喜びする。
「やるじゃない! もう! だから最初っから言ってたのよ。思いはちゃんと伝えなくちゃって。で? 美羽は? まさか、美羽、先生って呼んだわけじゃないでしょうね?」
「……司、さんって、呼ばせて、いただきました」
羞恥で溶けてしまいそうだ。私の語尾はほとんど消えていたが、菜々ちゃんは一言一句聞き逃さなかった。私が言い終えると同時、先ほどまで背を叩いていた手がぐっと回される。
「な、菜々ちゃん!?」
まさか女学校の王子さまから抱擁されるとは思ってもみなかった。戸惑っていると、耳元で彼女の溜息が聞こえる。
「……可愛すぎる」
「へ?」
「美羽がいけないのよ。あなた、可愛すぎるんだもの。世の中の男なんかに渡したくない。相手が木梨先生だろうと、丸井の一人息子だろうと関係ないわ。美羽はあたしのものよ」
「あのぅ……、菜々ちゃん? 菜々子さん?」
今度は私がペシペシと菜々ちゃんの背中を叩く番だった。菜々ちゃんは深く息を吸い、もう一度私を強く抱きしめると、ようやく私を解放してくれた。周囲の視線が痛い。あまりにも痛すぎる。
私から離れた菜々ちゃんは食事を再開しながら不服そうにうめいた。
「それにしても、先生も罪な男。絶対、美羽の好意に気づいているはずなのに」
先生が私の好意に? まさか。私は苦笑いする。
「それはないと思うわ」
「どうして? だって、ここまでされて気づかないなんてことある? 鈍感すぎるわよ」
「そうじゃないの。私ね、いつも思っているのよ。先生と私の間には線があるの」
「線?」
「先生は、十七も年が違うし、立場も違うんだってよくおっしゃるもの。……そもそも女として認識してないのよ。よくて妹止まりね」
私はお弁当に入っていた卵焼きを頬張る。咀嚼している間は喋らなくて済む。
菜々ちゃんはそんな私を見つめ、「ふーん……」と納得がいっていないように煮物を口へ運んだ。
食事を終えてなお、私たちの間には私のせいで重たくなった空気が微かに残っていた。
せっかくの楽しい話が、なんだか悲しい話になってしまって申し訳ない。私が他の話題を探していると、菜々ちゃんもまたなにかを探すように制服の胸元に手を突っ込んでいた。
「あ、あった!」
菜々ちゃんは言うと、くしゃくしゃになった紙を取り出した。
「悲しむ美羽姫に良いお知らせよ」
菜々ちゃんが紙を広げる。『募集』と書かれた細やかな文字が並んでいた。
「これは?」
「看護実習生の募集が始まったの。美羽が休んでいる間にね」
「えっ!」
まさに願っても見ない朗報だった。菜々ちゃんが私に紙を差し出す。
「募集期間は来週までだから、まだ間に合うわ。定員は少ないけれど、成績と面接で決めるって書いてあるし、美羽なら大丈夫でしょ」
「ありがとう、菜々ちゃん!」
今度は私が菜々ちゃんを抱きしめる。菜々ちゃんは嬉しそうに私の頭を撫でた。
「ちなみに、あたしも受けるつもりよ。看護婦になるかはまだ決めてないけど、職業婦人として自立したいから。良い経験になるかなって」
菜々ちゃんが一緒ならこれほど心強いこともない。
私は早速菜々ちゃんと募集用紙を取りに行こうと、お弁当を片付けた。




