19話「無慈悲な青」
グレイシアは、複雑な表情を浮かべながら狼狽えるダニエルにこう言いました。
「私は孤児で、ベンという木こりのお爺さんにまるで父親のように今まで、育ててもらっていました。今思えば彼に引き取られる前のことを何も思い出せません」グレイシアは何度も思い出そうとしましたが、自分が誰によって生まれたのか教えられたことがありませんでした。
ただ、一度そのことをベンに尋ねたことがありましたが彼は「もう少し大人になってから話す」と口にすると黙って仕事を始めてしまうものですから、グレイシアは次第に自分の物心つく前の記憶について知ろうとするのを止めていたのです。
「でも‥‥私は何か重大なことを忘れているような気がするんです。それを絶対に思い出したい」グレイシアが真剣な眼差しでダニエルにそう言うと彼は口元に微笑を浮かべました。
「諸君も承知の通り、この船は朝方にルーヴァント岬に到着する。すぐ目に入ると思うが、崖の上にヴァンチェスター公爵の邸宅がある。
その反対側に焼けて朽ちた城とそこへ行くまでの大橋がかかっている。この光景は普段は見ることは出来ないが、女王の命日の辺りには魔法にでもかかったかのようにそれらが姿を現すんだ。
君が本当に女王の娘のグレイシアならば、その城に行けば何か思い出すだろう」ダニエルはそう言うと、目を閉じてから意を決したようにこう言いました。グレイシアとエリオットは自然と少し前のめりになって、彼の話を聞いていました。
目の前に置かれた豪勢な食事はすっかり冷めきり、それらに勝る真実に二人は夢中でした。ダニエルはそんな二人を交互に見てから、覚悟を決めこう言いました。
「先程、私の父とヴァンチェスター公爵が協力関係にあったといっただろう。それはアンドレア女王が持つ、長きに渡るルフィールド家が代々持つとされる、王族の魔力の研究を共同で行っていたからだ。
ヴァンチェスター公爵と私の父は王族が滅亡した後焼けた城を入念に調査し続け、何故か焼滅していない一冊の本を発見した」ダニエルはそう言い終わると、グレイシアの方をしっかりと見つめてこう言いました。
「私の父は、その本を研究の為に、宝物庫のある場所に隠している。手下に命じて亡くなった父親の持ち物の中から鍵を回収したんだ。
きっと私の父ではなく、遺品として君が持つに相応しい。案内する。ついてきてくれ」ダニエルはそう言うと微笑を浮かべました。
彼がその時グレイシアに見せた表情は穏やかで、彼はもはや敬愛の眼差しをグレイシアに向けていました。
それもそのはず、彼はずっと心の中で、王族の末裔であり、生き残りの血縁者のグレイシアにその本を渡したいと思っていたからです。
ダニエルは、もはやジルフォード侯爵の息子という仮面を捨て、王室への忠誠をグレイシアの前で誓ったのです。
彼は3人の傍で控えている甲冑を着た執事に合図して呼び寄せ、ゆっくりとソファーから立ち上がりました。
そして、支えられながら杖をついて再び歩き出しました。
グレイシアとエリオットは顔を見合わせて頷くと、彼を信用しソファーから立ち上がり、彼は部屋を後にしました。
宝物庫に着くと、ダニエルは調度品の美しい天使の彫刻の前まで行くと、天使の瞳を強く押しました。すると、天使の彫刻はズズズと音を立てて後ろの壁まで移動すると瞬く間に反転し、代わりに大きな頑丈そうな扉が姿を現しました。
ダニエルは満足そうにその扉、その鍵穴に鍵を差し込み、石造りの重厚な扉を開けると、二人を先に部屋の中に誘導しました。
二人が恐る恐る中に入るとその部屋の中は酷く汚れていて乱雑に積み上げられた本と、腐敗して異臭を放つ死体の山がありました。
グレイシアは思わず息を呑み、エリオットは違和感に気づいてすぐに後ろを振り返ると、二人は思わず心臓が止まりそうになりました。
それはあまりの一瞬の出来事でした。二人をここまで案内したはずのダニエルが、頭を撃ち抜かれてそのまま床にドサリと崩れ落ちたのです。鮮やかな血飛沫が二人の目の前で広がりました。
その衝撃に圧倒されていると、同時にカチャリと外側から鍵をかけられてしましました。ダニエルを撃った犯人は言うまでもありません。
彼をここまで介助し、ジルフォード侯爵家に忠誠心を持ち仕えていたはずの、甲冑を着た執事のアーサーだったのです。
「おい!!ダニエル!!!どうして…」エリオットが固く閉ざされた扉に向かって叫ぶと甲冑を着た執事は、極冷静にこう言いました。
「くだらん。黙って話を聞いていれば、アンドレア女王を崇拝し、王政の復活を望んでいたとはな。
ジルフォード侯爵家の次期党首がこんな野心も無ければ、信念のかけらもない男だとは思わなかった。
私はこれまで崇高な主の家の繁栄の為だけに、生涯をかけて妻子を捨て忠誠を誓い、どんな血みどろの責務も果たしてきたというのに。私の人生とは一体‥‥なんだったのだ。ジルフォード侯爵家はもうお終いだ」淡々とした彼の口調からは、どことなく強い後悔や失望の色が込められていました。
「まさか、殺したはずの薄汚い溝鼠が生きていたとはな。グレイシア、貴様は正式に火炙りにして我が教団の前で見せしめとして殺してやる」彼は脅すようにそう言い捨てると、その場を後にしました。
完全に不意を突かれてしまった二人は、愕然として辺りを見回しました。エリオットは何度も扉を強く何度も叩きましたが、まるで人を閉じ込めるために作り出したかのように屈強な石造りの扉はびくともしませんでした。
これには、エリオットも強い憤りを感じました。そして、狼狽しそうになる気持ちをぐっと抑えて後ろを振り返りました。するとそこには、積まれていた書物のうちの一冊に目を通すグレイシアの姿がありました。
「きっと…この本だわ。ダニエル様が私に渡したかったのって」彼女はそう言い、高級な牛革と金の糸と青い宝石があしらわれた分厚い本を両手に持ち、エリオットに向かって言いました。
その本は、確かに焼け果てた城から発見されたことが信じられないくらい、豪華な美しい装丁でした。エリオットは彼女に近づき、背後から彼女の手にしている分厚い本のページをのぞき込むと思わず眉間にしわを寄せました。
そのページには奇妙な文字で綴られた文章がずらりと載っていたのです。「お前、読めるのか?この文字、俺の知っている文字と全然違うけど」エリオットは目を細めながら、その不可解な文章に目を落とすとそう尋ねました。彼女はページをめくる手を止めてこう答えました。
「私はこの文字が読めるの、お父さんから読み書きを教わったから。お父さんが最後に私に残した手紙の文も、これと同じ文字で綴られていた。だけど普段読んでいる本に書かれている文字とは全然違うから、これは何かの暗号なのかもしれないわ」彼女は神妙な面持ちで目ページに目を通す彼にそう言いました。
「この暗号文の解読を、ジルフォード侯爵とヴァンチェスター公爵が行っていたってことか。見るからに内密そうだしな」エリオットがそう口走ると、グレイシアは小さく咳払いをして、そこに書いてある文章を慎重に読み上げました。
「愛する我が娘のグレイシアの為、我がルフィールド家が代々受け継ぐ魔力の源についてここに記します。
ルーヴァント王国の先代の王、ルーファス・ルフィールドは、この深い海に眠るルーヴァントの地の守り神である海の精霊、メネシアに自らの命を差し出し、精霊の永い眠りを解きました。
亡くなったルーファスの娘であるシャーロット女王は、その精霊の力を授かりその力を民のために使ったのです」彼女は再び次のページをめくり、読み始めました。
「この力は決して自らの望みや欲望の為に使うことは許されず、自ら以外の我が王族や国民の幸福の為に使うことしか許されないのです。
また、その精霊の力を使えば使うほど、代わりに生気を吸い取られ、長く生きることは難しい。
だから歴代の王たちは皆短命でした。それでもグレイシア、力を使うことを恐れてはいけません。貴方ならきっとこの王国を素晴らしい未来へ導いてゆけるでしょう」彼女はそう読み上げると、エリオットにこう言いました。
「これは…アンドレア女王が生前、自分の娘に残したメッセージだわ」彼女は眉をひそめてまじまじとそのページに目を落としました。
「私のお父さんが残した遺書にルーヴァント岬に行けば真実が分かると書いてあったわ。もし‥‥私がアンドレア女王の娘でこの海の精霊の力を使えるのだとしたら、その焼けた城にその力に関する」彼女は何かを言いかけたまま、頭に唐突に走った激痛に襲われ、その場にしゃがみ込み頭を抱えました。
エリオットはすぐに彼女を支えてこう言いました。「ああ、真相が明らかになるかもしれないな」エリオットは、そう言うと後ろを振り向き躊躇うことなく銃を構えると、ドアを乱射しました。
しかし、分厚い石造りのドアは想像以上に頑丈で、無数の数発の浅い穴が出来た程度で、全く歯が立たちませんでした。エリオットは思わず苦い顔をしてその場に座り込みました。
「この本は‥アンドレア女王の日記だわ。最初辺りのページ以外は、例の暗号で書かれていないみたい」彼女はそう言うと、ページを一枚ずつ慎重に捲って行きました。
一枚一枚に、自分の身に起きた出来事や、噂話、自分で考えた詩の様なもの等が、アンドレア女王の赤裸々な思いと共に記されていました。
グレイシアは興味深く一枚一枚読み進めていくと、ふと他のページと比べて何度も書き直したような跡があり、筆跡が整えられていないその文章が書かれたページが目に入りました。
彼女はその他とは違うページに注意深く目を落としました。「愛する我が子、グレイシア。私は貴方のために生きていると実感するわ。
もう王国を守るためとは言え、戦争のための兵器として力を使うことは心苦しい。それに私に残された寿命は残り少ないし、今度の戦争では力を使えないわ。
きっと、このことが周囲の反感をかうことでしょう。でもそれは仕方のないこと。私は愛する我が子の傍に一秒でも長く一緒に居たいと思っているのだから」彼女は、グレイシアはその文章を目にして、思わず涙を流しました。
それから、ページをめくるとそこにはグレイシアの成長について綴った文章や、彼女が抱えている苦悩や家族と使用人達で一緒に茶会をしたことなど日常の様々なことが記されていました。
グレイシアはその日記を閉じると、硬く目を閉じました。そして、目の前に広がる腐敗して異臭を放つ死体の山に目を向けました。
暗くて大変薄気味悪いこの部屋は、盗賊や反逆者の死体を遺棄するための場所の様でした。床は血だまりで汚れており、湿気とカビで壁の漆喰は酷く汚れていました。
「こんな場所にアンドレア女王の日記を隠しておくなんて、冒涜だわ」彼女は心の中で空しくそう呟くと、その場に力なく座り込みました。埃っぽく死体が並べられ異臭を放つこの汚い部屋は、書斎というよりかはまさに監獄の様でした。
グレイシアは何もかも諦めたような顔でエリオットの方を横目見ました。すると彼は感傷に浸るグレイシアと違って、諦める気などさらさらないようでした。
彼は何のためらいのなく腐敗した死体を漁りナイフのようなものを見つけてそれを数本手に入れ、死体が懐に隠していた銃や弾薬を奪いました。
エリオットはカチャカチャとその場で手持ちの銃の手入れを行い、その辺に落ちていた石でナイフを研ぎ始めました。グレイシアはその様子を目にして、頬を叩き、気を引き締めました。
全ての準備を終えた彼は、狩人のように扉に作った小さな穴に目を凝らしていました。グレイシアがそんな彼に近づくと、彼は小さな声で耳打ちしました。
「誰かがこっちに向かってくるぞ」その人物をよく見ようと、エリオットは穴の中を覗き込むと、思わず驚いて言葉を失いました。なんとそこにはこんなところに居るとは到底考えられない人物の姿があったからです。
「やれやれ、こんなところに居たんですね」聞き覚えのある声の主は、なんとアッシュグリーンの長髪に美しい宝石の付いたネックレスをつけた、ルーマス侯爵の息子のノアだったのです。
彼はそう言って鍵で扉を開け、グレイシアとエリオットを中から出してあげました。「エリオットさん、油断したようですね。もう少し彼女を守って差し上げないと」彼はそう言ってにこやかに微笑みました。
臭くて息の詰まりそうな部屋から出られたグレイシアは荒い呼吸を繰り返し、なんと気を失ってその場に倒れてしまいました。
エリオットはすぐにグレイシアに意識が向きましたがノアが無表情で自分に向けて拳銃を向けていることに気づき、倒れている彼女の一歩前に立つと、彼も拳銃をノアに向かって構えて言いました。
一気にその場に緊張が走りました。その時気づきませんでしたが、その扉から少し離れた、馬に乗った騎士の彫刻の前にダニエルの死体と従者である甲冑を着た男が一緒に並んで無残な様子で血を流し、倒れていました。
「俺がいつからお前の手下になったよ。おいおい、拳銃なんか構えてどうしたんだ?」エリオットがノアを睨みつけてすかさずこう言いました。
「貴方の出る幕はもうありません。これから先、彼女を守るのは婚約者である僕の役目ですから」ノアはそう尤もらしく言うと、不敵な笑みを浮かべました。
彼の表情や態度が今まで見せてきた柔和なものとは違って、確実に威圧的なものへと変わったものですから、エリオットはノアをより一層睨みつけて言いました。
「お前、まさか口約束を本気にしたのか?婚約は当人だけの問題じゃない、親同士が関わる問題だろ、グレイシアはお前とは結婚出来ない、彼女もお前と婚約する気は無いと言っていた」しかし、ノアは平然とした様子でこう言いました。
「ああそうだね、でも僕はグレイシアと婚約するって決めたんだ」彼の態度にエリオットは段々、嫌気が差してきました。
「話が通じない奴だな、いや端から聞く気がないのか」エリオットが呆れたようにそう言うと、ノアは改まって彼の目を見つめてこう言いました。
「君には感謝しているんですよ、ここまで彼女を守ってくれましたからね」彼はそう言って、いつの間にか後ろに控えている黒い仮面をつけて黒いローブを身に着けている明らかに彼の手先のような4~5人いる男達に合図するとエリオットとグレイシアを囲みました。
彼らは非常に体格が良く、皆立派な拳銃を持っておりました。エリオットは、デッキでグレイシアと居た時に背後から感じたあの気配を思い出し、思わず苦い顔をしてこう言いました。
「今まで後をつけていやがったな」彼は辺りを囲われてはいますが、狼狽することなく極めて冷静でした。「お前、何で鍵を持っていたんだよ。
あれはダニエルが持っていたはずだろ?」エリオットは完全に怪しい黒いローブを着た敵に囲まれていましたが、堂々と尋ねました。するとノアは平然とした様子でこう言いました。
「ええ、ですからそこの仰々しい甲冑を着た彼の手下を始末して、鍵を頂戴したんです」エリオットは彼の発言に違和感を覚えました。「あの鍵の存在は、ジルフォード侯爵とダニエルしか知らなかったはずだ。
やっぱり、今までずっとこいつらを使って俺達のことをつけていたんだろ」エリオットが目の前にいる、見るからに威圧的な殺し屋の様な男たちに目をやりながら言いました。
ノアは余裕のある態度で、軽く笑ってこう言いました。
「さあね、むしろ私に感謝してほしいくらいですよ。やっと始まった晩餐会に出そうと、リーフウッド男爵とその夫人が貴方の姿を探していたので、始末しておきました。貴方はグレイシアを護衛するために必要な存在でしたから」彼はそう言って微笑むと、急に笑みの一切消え失せた真顔になり、こう言葉を付け加えました。
「でも、もう貴方は必要ありません。彼女を僕に返してください。抵抗するのは賢い判断とは言えませんよ」ノアがそう言うと手下達は鋭い形相で銃を一斉にエリオットに突きつけました。
エリオットは背後で意識を失って倒れているグレイシアに横をやるとため息をついてからこう言いました。
「今はお前に渡してやる」エリオットはそう言って、気を失っているグレイシアの体をゆっくりと抱きかかえました。
エリオットは手下達がその間、銃口を自分に向けていないのを瞬時に確認し、その配置を把握するとノアに彼女を渡しました。
ノアは彼女を抱え、気を失っているグレイシアの顔を見つめてから満足そうな顔を浮かべた次のほんのわずかなその瞬間。
エリオットは、勢いよくしゃがみ込み辺りに居た手下達の銃弾を交わし、手前に居た男2人を撃ち殺しました。彼は目にもとまらぬ速さで、立て続けに残りの手下の一人にタックルしてその男の体を盾にもう一人の手下の攻撃をかわしてから息をつく暇もない速さでどちらも撃ち殺しましました。
ノアはその様子を見て思わず呆気にとられました。まさかの反撃に身の危険を感じ、彼のまるで訓練されたような俊敏な動きに驚きが隠せませんでした。
ノアはすぐさまグレイシアを抱えながら、一目散にその場を後にしました。
エリオットは銃を構えてこちらに向かってくるノアの手下3人を遠目に見つけ、彼らの頭上にある大きなシャンデリアを打ち落とし、彼らを気絶させました。
なんとこの一瞬の間にエリオットはノアの手先を全員仕留めてしまったのです。
エリオットはノアの姿を逃がさぬよう、すぐさま追いかけようとしましたが、わき腹に強烈な痛みが走り自分が被弾し大量に出血していることに気づきました。
彼も気づかないうちに攻撃を食らっていたのです。エリオットは荒く呼吸を繰り返す暇もなくその場に崩れ落ちました。
「ダニエル様…」リリィはそう呟くと、再びダニエルが居ないかどうか確認しにホールまで引き返しました。
しかし、彼の姿はやはりホール中のどこを探しても見つかりませんでした。
その間に、ジルフォード侯爵の手下達が一部の暴れ狂い癇癪を起す貴族や重傷を負った自分達の同胞を医務室に連れて行き、混乱する貴族達の怒りの火を沈めていました。
いつの間にか、用意されていたカジノテーブルは撤去され、代わりに大きな白いテーブルクロスがかけられた長いテーブルが運ばれてきました。
それに伴い、ディーラーを務めていた手下達が今度は給仕らしく料理を運んで持ってやってきたものですから、その場にいる招待客達は、ジルフォード侯爵の息子のダニエルが晩餐会を仕切りなおそうとしていることに気づきました。
貴族達は憤慨し自室に戻る者もいれば、その場に残りお目当ての異性と食事をしようとする者もいました。皆それぞれ、騙されていたという事実よりも今この場で同振舞うのが賢明なのか自然と考えるようになりました。
「私共の不手際により、大変不快な思いをさせてしまい、本当に申し訳ございません。ジルフォード侯爵家の次期党首である、ダニエル・ウィルキンスのご意向により、晩餐会を仕切り直したいと考えております。皆様どうか、着席してしばしお待ちください」エントランスに居た先程の受付の侯爵の手下が
良く通る声で周囲にそう説明し、ゆっくりと会釈しました。
「リリィ、晩餐会はまた始まるみたいよ。ちょっと、リリィ!?聞いているの?」彼女の母親であるヒューバートン男爵夫人はどこかへ行こうとする彼女の腕を掴み、そう言いました。
「ダニエル様に会わなきゃ」彼女が動揺した様子でそう言ったものですから、夫人は彼女の両肩を掴んでこう言いました。
「きっとそのうち来るわよ。晩餐会の開始の挨拶でもしに来るはずだわ」夫人の言葉は何処か他人事の様でしたが、納得のいくものでした。しかし、リリィは夫人の手を振り払いこう言いました。「私…やっぱりもう一度探してくる」
彼女はすぐに段々晩餐会の準備が整えられていく豪華なホールを後にすると、踵の高い靴を脱いで階段を下りそのままエントランスを抜けて、長い廊下を素足で走っていました。
確実に彼の身に何かが遭ったような、嫌な予感がしたのです。
リリィはジルフォード侯爵の部屋や、ダニエルの部屋へ向かいましたが余りにも人の気配がなかったものですから、引き返して今度は例の宝物庫へと走りました。
宝物庫に入ると、リリィは辺りの様子に思わず目を疑いました。なんとそこは、先程訪れた際目にした時とは大きくかけ離れ、酷い惨状を呈していたからです。
以前より明らかに薄暗いその部屋は、壁に取り付けられた数個の照明だけが辺りを照らしていました。天井に取り付けられていた宝石の散りばめられたそれは巨大で見事なシャンデリアが落下し、無残にもその下敷きになっている黒いローブ姿の男や、宝飾品が飾られていたはずのガラスケースは、所々破壊され高級な木材の箇所には血飛沫がべっとりと染みつき、その近くで撃たれて倒れている同様に黒いローブを着た男の姿がありました。
リリィは思わず悲鳴を上げ、自らの足元を見ました。床に敷かれた絨毯には血がしみこみ、鉛ガラスの破片や装飾部分の残骸が見られました。
血なまぐささと鉄臭くて焦げたような独特のにおいが辺りに広がり、リリィは思わずせき込みました。
しかし、彼女は手に持っていた靴を再び履きなおし、暴れる自分の心を何とか押さえつけながらゆっくりとその中へ足を踏み入れて行きました。
彼女はふと彫刻の辺りに目をやると、馬に乗った騎士の彫刻の前で倒れている二人の人物の姿がありました。それに気づくや否やリリィは一目散に駆け寄り、背の高い赤髪の男の頬に手を当てました。
「ダニエル様??どうして!?そんな‥‥・」彼女は目を見開き、彼の頬がとても冷たくなっているのに気づきました。もはや脈は無く、頭から血を流している冷え切った彼の遺体が、現実のものだとリリィはどうしても思えませんでした。
彼女は両手で口元を抑え、一気に涙がこみ上げてきました。ただ、そんなリリィとは対照的にダニエルはまるで何かを慈しむかのように穏やかな表情で目を閉じて眠っていました。
それは誰かから銃殺された後とは思えない程に、何か重大な役目を果たした後や救済を得た後のように満ち足りた顔でした。
その傍に甲冑を着たジルフォード侯爵家お仕えの執事のアーサーがその胸に何発も痛々しく銃弾を受けて血を流し倒れていました。
「お嬢様。この部屋は現在、整備中ですので、どうかお立ち去り下さい」ジルフォード侯爵の手下の一人が彼女に気づき、声を掛けました。
しかし、リリィはその声がまるで耳に入って来ませんでした。彼女はあまりのショックと強い後悔に思わず、彼らの下がある彫刻の隣の女神の彫刻に寄りかかり、そのまま力なく床にへたり込んで座りました。
彼女は虚ろな目で、ふと横に目をやりました。そこにはあったはずの天使の彫刻は無くなり代わりに、まるで聖堂のように彫刻の彫られた頑丈な石造りの扉が出現していました。
グレイシアは天蓋付きの鮮やかな青い豪華なベッドの上で目を覚ましました。そのベッドは装飾の施された高級な木材で作られ、マットレスはふかふかとしていていました。
そして、まるでサファイアの様に光沢のあるシルクのシーツがかけられ、なんとグレイシアはその上で今まで寝ていたことに気づきました。
ベッドの脇の飾り棚の上に青色の大きなガラスキャンドルが数個置かれ、その灯だけが綺麗に整頓された無機質なこの部屋を薄暗く照らしていました。
「一体、ここはどこ…」彼女はそう呟き、ぼやけていた意識や視界がようやく鮮明になって来た頃に、グレイシアは自分の側に誰かが近寄るただならぬ気配を感じました。
彼女は思わず身構えると、ノアが片手にグレイシアも慣れ親しんだ庶民的な造りのオイルランタンを持ち、もう片方の手には紅茶の入ったカップの入ったトレーを持ちながら、ゆっくりとやって来ました。
グレイシアは自分の今の状況が上手く掴めず辺りを見回しましたが、そこはヒューバートン男爵家の客室のリリィとローラの部屋に間取りが同じで、そこがノアの部屋であることをすぐに彼女は察しました。
「エリオットは何処ですか?」彼女はノアが自分の前に現れるなり真っ先にそう言いました。彼女にとっては非常に滑らかなそのシーツの感触でさえ気味悪く感じました。
ノアはそんな彼女を安心させるように微笑んでこう言いました。「意識が戻ったようで安心しました」彼はベッドの近くのローテーブルにカップとランタンを置いてから彼女の側に座りました。
「大変でしたね。まさかジルフォード侯爵家の高潔な手下に監禁されるなんて。私があの時、貴方達を助けなければずっとあのままでしたよ」ノアはそう言って意味ありげに微笑みました。彼の言葉にも揺るがず、グレイシアは再びこう聞き返しました。
「エリオットは今どこにいるんですか?」彼女の言葉に呆れたようにノアは苦笑すると彼女のベッドに彼はゆっくりと座りました。グレイシアは一気に接近してきたノアに思わず後ずさりしました。
「彼は今頃、ヒューバートン男爵のお部屋に居ますよ。貴方が気絶している間、私は彼にこう伝えたんです。彼女を私の元に返してくれるなら、貴方にはその素晴らしい銃の腕を活かせるような名誉ある仕事と住まいを与え、一生何一つ不自由の無い裕福な生活を送れるように援助するとね。彼は喜んで了承しましたよ」ノアのその言葉を聞いた瞬間、グレイシアは冷水を思い切り頭から被ったような気分になりました。
彼女はショックの余り息が詰まりそうになり、頭の中が真っ白になって何も考えられなくなりました。彼女は体を起こして、ベッドに座りました。
まるで自分自身を取引の交渉の材料に使われたような感覚でした。
グレイシアは思わず自業自得だと思いました。ノアは目的のために他人を操る話術に優れていたのです。目的の為なら手段を選ばない彼は、自らの新緑が似合うような柔和なその風貌にそぐわない、確かな残酷さがありました。
愕然とした表情を浮かべている彼女にノアは悪魔のように囁きました。
「もっと単純に考えてみてください。貴方にとっても私と結婚したほうが、お金にも地位にも何一つ困らずに豊かに暮らしていけるでしょう?」彼はそう言って微笑を浮かべましたが、グレイシアの瞳は拒絶の色を示したままでした。
「あの時、婚約すると言ったのは、貴方が手に持っていた手紙を受け取りたかった。ただ、それだけの理由です。今ここで貴方との婚約を破棄させてもらいます」彼女ははっきりとした口調でノアにそう告げました。
「酷いことをおっしゃりますね。私はこんなにも貴方のことを愛しているというのに」彼はそう言って、グレイシアに近づき彼女の髪に口づけようとしました。彼女は思わず顔を背け、恐る恐る困惑した面持ちでノアの顔を見ました。
「貴方が怖い、どうしてそこまで私に惹かれているんですか」彼女は震える声で彼にそう尋ねました。大げさに怯える彼女にノアはきょとんとした顔をすると、軽口を叩くようにこう言いました。
「安心してください、取って食ったりしませんよ」彼はそう言って飾り棚から本を取り出して、真剣な表情で一枚一枚に目を通していました。
「ご令嬢達が口を揃えて僕になんて言うと思います?一度、貴方にお目にかかりたかったと。
もはや金や地位だけが目当てだというのは明らかで、同じ穴の貉だというのになんだか馬鹿らしくなってきました」彼が今目を通している本はグレイシアが過去に読んだことのある戯曲集でした。
彼は興味深そうにそのト書きに目を落としながらこう言いました。
「貴方は宝物庫であの小娘を慰めていましたよね。あの時…私には貴方が天使のように思えたんです。
そして、壇上に上がり、辱めを受けるジェスター侯爵の身代わりになる貴方に、
僕は強いカタルシスを得ました。もはや、観客のように貴方を見ていられなかった。気が付いたら僕も壇上に上がっていました」彼はそう言うと、本を閉じてグレイシアの方を向きました。
「貴方には…どうしても僕には無い素質がある。本当に僕は貴方に惹かれているんです」真剣な表情を浮かべるノアにそう告げられ、グレイシアは思わず言葉を失いました。
彼は彼女が自分の言葉をありありと受け止めている様子を満足げに一瞥すると、ふとこう口にしました。
「でも、それだけじゃないんです」彼は再び本を飾り棚にしまうと、自分が首元にしているまるで深い海の様な大粒の青い宝石が輝く豪華なネックレスを彼女に見せながらこう言いました。
「このネックレスは、元はアンドレア女王の王位継承の式典があった際に、市場で売られていた簡素な品でした。それを私好みに作り替えたんです」
彼はそう言って、ネックレスの宝石のついたペンダントトップを裏返しました。
なんとその裏面の石座には紋章のような模様が彫られていました。




