11話「幻想と舞踏会」
舞踏会の会場は、この豪華客船の大目玉と言っても過言ではない、巨大なホールとなっていました。
壁は薄いクリーム色で、あちこちにランプがかけてあり、まるで聖堂をイメージさせるような天井の高さを強調させる柱が数本伸びていました。
床は白とベージュ色の大理石で出来ており、中央には円形の美しい幾何学模様が描かれていて、スケートが出来そうな程つるつるに磨かれていました。
そしてなんといっても、芸術好きのジルフォード侯爵が職人に魂を込めて作らせたであろう本当に見事な、青や赤、緑などの色とりどりの複雑なステンドグラスの装飾の施された窓が一面に広がっており、窓から入る眩しい光に加えて、高い天井に数か所設置された煌々と輝く巨大なシャンデリアが辺りを眩しく照らしていました。
その眩しさは、思わず正気を失ってしまいそうな程でした。
さらにホールの端には、女神や天使などの宗教彫刻や、クロスの敷かれたテーブルに置かれた花瓶に、黄色やピンク色で統一された花達が惚れ惚れするほどに美しく活けられておりました。
そして、ワインや水、紅茶などの飲み物や菓子やパンなどの軽食が、白いクロスの敷かれたテーブルに置かれており、ずらりと椅子が並べられておりました。
「凄すぎるわ…これって本当に現実なの」グレイシアは思わず目の前の景色に圧倒され、小さく呟きました。グレイシアが遠くに目を向けると、裏で楽団の控えるワインレッドの幕が下ろされた大きなステージがありました。
彼らが演奏する曲に合わせてこれから踊るのでしょう。グレイシアがふとステージから目を逸らし、先ほどの軽食の置かれたテーブルの方へ目をやると、そこには美しく着飾った女性達に囲まれて談笑している、見覚えのある紳士の姿が目に入りました。
「さっき‥宝物庫であったルーマス侯爵の息子のノア様だわ」彼女は心の中で思い出しながらそう呟きました。談笑する彼の姿は当たり前ですが気品と風格を感じさせる貴族そのもので、女性達と談笑する姿はまるで絵画の様でした。
「住む世界が違い過ぎる」グレイシアは心からそう思いました。彼女は段々いたたまれない気持ちになり、目線をもっと下へとそらしました。
その時、光を放つほどに綺麗に磨かれた床に映る自分の姿を目にしたグレイシアは、緊張が顔に出ていることに気づきました。
グレイシアはベンから社交界に出たときのマナーやダンスなどを厳しく教えられましたが、内心実践する機会など本当に来るのかと疑っていました。
しかし、こんな形でその日が来てしまうとは、彼女は夢にも思っておりませんでした。
彼女はただ自分の役割を果たすことだけに意識を集中させようと、自分の気持ちが落ち着くまで、頭の中を整理していました。
グレイシアが床を直視したまま硬直したように立っているのを遠目で見ていたノアは、ぎこちない彼女の様子に思わずクスっと笑いました。
「ねえ…ノア様、さっきからどこを見ていらっしゃるの?」華やかなドレスを纏ったリバーウッド伯爵の娘のマーガレットが大胆にも彼の胸にわざとらしく手を添えて、上目遣いに聞きました。
「あそこにいる天使ですよ。マーガレット様」ノアは、視線を一切彼女の方へ向けずに穏やかな表情でそう言いました。
彼女はすぐそばの調度品の天使の彫刻のことを言っているのかと一瞬思いましたがすぐさま、ノアの視線の先に目をやりました。
「あれは‥引っ込み思案のリリィじゃない。どうして‥」彼女は憎らしげにそう思い、嫉妬の炎が胸の奥底でメラメラと燃え上がりました。
マーガレットは、ノアの脇に居る怪訝な顔をして自分を睨みつけている女性のことなど気にも留めずに、偉大なるルーマス侯爵の長男であるノアに必死で熱烈に猛アプローチをしました。
「貴方のような方に、私は決して釣り合わないでしょうけれど…私だけを見ていてください。ずっと‥貴方にお会いしたかったんです。貴方とは社交の場でお会いすることが少ないから、一度でもいいからお目にかかりたくて」彼女が眉をひそめてそう言った時、突然見事な管弦楽団の演奏が始まり彼女は思わずステージを見つめました。
いつの間にか降ろされていたはずのステージの幕は上がっていて、その音楽の重厚な音色は聴く者の心を動かす程でした。
演奏は一区切りで終了し、脇に座っているだけだったピアノ奏者がバイオリニストと一緒に美しい音色を奏で始めると、脇に控えていた色とりどりの衣装を着ている踊り子たちがやって来て優雅に踊り始めました。
そしてその演奏が終わる頃に、踊り子たちは撤退していき、仮面をつけたジルフォード侯爵がやって来ました。
まるで一貫した見事なショーのような登場の仕方に、貴族達による拍手喝采が起こりました。「皆様、お集まり頂きありがとうございます。この豪華客船でのクルーズはお楽しみいただけておりますかな?」
男爵はそう言ってつけていた仮面を外すと芝居がかった仕草でそう言いました。「この会場は、私の治めるジルフォードの土地の中心都市である、ルミナス・リバーの大聖堂の職人に作らせた素晴らしい作品でもあります。
本日の早々たる面々に相応しい会場と言うべきでしょうか」ジルフォード侯爵は鼻高々にそう言いました。
グレイシアは真剣な表情で彼の話を聞いていましたが、彼女の傍でローラはうたた寝をしていました。
「ここでひとつ、昔話をしようと思います。皆さまもご承知の通り、このルーヴァント公国は私が治めている広大なジルフォードの土地を含む、様々な幾つもの地域によって構成されております。
今は国王はおらず、その国王がかつて住んでいた城のすぐ側に位置する、ヴァンチェスターという国を代表する中心都市ダズルセントを含む、最も気高く豊かな土地があります。現在はその土地の領主であるキース・スペンサーことヴァンチェスター公爵がこの国の最高権力者として、この国を治めています。
代々王国に根強い関係のあるヴァンチェスター公爵家と、私含むジルフォード侯爵家は深い繋がりがございまして、このクルーズではかつて国王の住んでいた城の付近の、ルーヴァント岬まで向かいます。
そしてその付近にあるヴァンチェスター公爵の見事な邸宅でかつて国王が眺めたとされる青い海と城の絶景を眺めながら、ヴァンチェスター侯爵を交えて茶会をすると言うのが、この2日間の長旅の目的となっております」は堂々とそう言いました。
「最近、隣国での戦争が目立つようになりました。我がルーヴァント王国ももうじきその戦火に巻きまれる恐れがあります。いや、必ずやそうなるでしょう。
昨今ではそういった問題だけでなく、不作や環境問題などの課題をどの領主も抱えていることは十分承知しておりますが、本日くらいは羽を伸ばして盛大に楽しもうではありませんか。
はるばる他国からいらした閣下やそのご息女などもいらしており、華麗なる顔ぶれに恥じぬこのような美しい舞踏会を開くことが出来、大変喜ばしく思います」侯爵は満足げに参加者を称え、この会の趣旨を話し、場を和ませてからこう言葉を締めくくりました。
「では、素晴らしい芸術と優雅なひと時に身を投じましょう」彼は仮面を片手に優雅にお辞儀をしました。それと同時に招待客である貴族達は盛大に拍手をしました。
侯爵は舞台袖にはけていき、一気に再び楽団による演奏が始まりました。グレイシアも拍手をしましたが、内心複雑な心境でした。
こんな魅力的な舞踏会の主催者であるジルフォード侯爵が裏で手下に怪しい儀式をさせていることを知っていましたし、実際に酷い目に遭わされたからです。
壇上から降りたジルフォード侯爵は自分と同じ赤毛の髪に緑色の目をした、背の高い白い豪華なブラウスを着て、大粒のルビーと細かい宝石のついたネックレスを付け、金色の糸で花柄の刺繍が施された黒いコートを羽織った美しい青年に話しかけていました。
グレイシアは彼の姿を一目見て、彼こそがこのクルーズの主催であるジルフォード侯爵の息子である、ダニエル・ウィルキンスなのだと分かりました。
彼は侯爵の話を聞き終わると、恭しく彼に会釈をしました。
そして彼はブルネットの髪に大粒のルビーの宝石が輝く黒い羽根のついた美しい髪飾りを付け、鮮やかなサテン生地に宝石の散りばめられた深い青色の美しい見事なドレスを着たとても美しい女性の元へ行きました。
ダニエルは予め決まりきったかのように上品に会釈しました。そして彼女が彼の手を取ると、まるでそれが何かの合図であるかのように、音楽ががらりと変わりこの会場全体の空気が変わりました。
楽団たちはまるで彼らがこの舞踏会の華であるか彼らの為に美しい演奏を奏でることに集中し、彼らはホールの中央でとても優雅に踊り始めました。
ステンドグラスの窓やシャンデリアの光が彼らを祝福するかの如く、美しく照らしていました。まるで、彼らの間には誰も入り込めないような特別な空気が流れていました。
その光景は誰もがうっとりとため息をつきたくなるほどに美しいものでした。グレイシアは彼らから目を逸らし、あのダニエルと言う青年と、これから一緒に踊るのかとまざまざと実感し鳥肌が立ちそうになりました。
すると、そんな彼女の元に顔を殴られてパンパンに腫らしたルーシャスが突然声を掛けてきました。
「あのお高く留まった女は、隣国のジルバラ伯爵の娘のヴィオラだ。まあダニエルの許嫁ってところか」彼は思わず見とれているグレイシアとは対照的に、とてもつまらなさそうにそう言いました。
「そういえば…さっきは貴方の大切なお父様に、無礼を働いて申し訳ございません。あの時私を庇ってくれて、本当にありがとうございました。お怪我は大丈夫ですか?」グレイシアはルーシャスの姿を見つけるなり、謝罪の言葉を口にしました。
すると、ルーシャスはピクッと身震いしました。グレイシアから告げられた途端に急にそのことを思い出し、怒りが見る見るうちに沸き上がり、怒りの衝動が抑えきれなくなりました。
「ああ、汚い溝鼠の分際でいけしゃあしゃあと物申しやがって!!全部、全部、全部お前のせいなんだよ!!謝罪の言葉が足りねえなあ!!こんなに頬が腫れて、お前のせいで最低の気分なんだよ!!!」ルーシャスは忌々しくグレイシアの顔を睨みつけてそう言い放ち、周りは一切に気にせず怒りに任せて彼女を思いきりぶん殴ろうとしました。
グレイシアは身の危険を感じ、青ざめました。しかし、彼女はルーシャスに殴られませんでした。ただグレイシアの目と鼻の先に、ルーシャスの握り拳がありました。
ルーシャスは振り上げた右腕を、自らのもう片方の左手で抑えようと思いきり掴んだのです。彼は震えながら唇を噛み締め、鼻で興奮気味に荒い呼吸を繰り返し、己を落ち着かせている様でした。
「‥‥お前はおかしい。お前みたいな小汚い貧民共は皆、俺達貴族を毛嫌いし危険な目に遭わせるくせに。なんで‥あの時、お父様に俺とリリィの気持ちを代弁したんだ。お前がおかしすぎるせいで、殴りたくても殴れないだろうがっ!!」彼は憤怒しながら、鬼のような形相でグレイシアにそう言いました。
自らの拳を押さえつける左手には血管が浮き出ていました。そして彼は急に俯き、彼女にこう言いました。
「邪魔者は何故か消えた。せいぜいうまくやれ」情緒の安定しない彼は、醜く腫れた頬をさすりながら彼女にそう告げて、ぽつぽつと歩いて何処かへ行きました。
グレイシアは彼が邪魔者と言ったのは恐らく謎の死を遂げたルイスのことだと思いました。ですがグレイシアは去っていくルーシャスに駆け寄り、彼に声を掛けて引き留めました。
彼は話を終えたと思っておりましたし、自分の怒りを抑えて彼女を殴らないという判断をした後でした。ですからもうグレイシアの顔など見たくない気分でしたし、頬が腫れているのも相まって、ルーシャスは思いきり不機嫌そうな顔で振り返りました。
「ルーシャス様。リーフウッド男爵夫人はどこにいらっしゃるかご存じですか?」グレイシアが思いがけないことを言ったのでルーシャスは間の抜けた声でこう返しました。
「はあ?」彼は思わずリーフウッド男爵夫人であるジェシカ・スミスのいる方を向きました。グレイシアは彼の向いた方向に目をやると、そこにはテーブルの側の椅子に項垂れるようにして座り、空になったワイングラスを片手に悲壮な表情を浮かべている夫人が居ました。
この華やかな場面にあまりにも、そぐわない様子なのは、そこのルーシャスと彼女ぐらいだったので、グレイシアは彼女こそが息子を殺されたリーフウッド男爵夫人なのだと思いました。
ルーシャスはずんずんと脇目も振らずに彼女の方に向かっていくグレイシアを慌てて引き留めようとしましたが、その時にはもう既に彼女は夫人の目の前に立っていました。
「ご機嫌よう。ミセス・リーフウッド」グレイシアは恭しくそう言うと、上品に会釈しました。
「恥ずかしがり屋のリリィ様あああ。ごきっげんよううううう」夫人はベロベロに酔って呂律の回らない様子でそう言いました。
よく見ると彼女はテーブルの上の大きなワインのボトルをまるまる一瓶空にしているようでした。彼女の顔は火照っており、泣きはらしたようで蜂に刺されたように目の辺りが腫れていました。
「私の兄が多大なご迷惑をおかけしたのは十分把握しております。ですが、失礼を承知で率直に申し上げます。私の使用人のエリオットをどうか返してください」グレイシアは完全に酔っぱらい、話を聞く理性が残っているのか怪しい夫人にそう言いました。
しかし、段々彼女の据わっていた目が元に戻り、急に冷静さを取り戻しました。
そして、自分の目の前に居るのが敵対しているヒューバートン男爵家の長女であり、先ほど息子に決闘を仕掛けた忌々しい兄を持つ妹であることを一気に認識しました。
「ああ‥あの男を返してほしければ条件があるわ。あのダニエルの目の前で貰ったネックレスを思いきり引きちぎるとかね!!」夫人はそう言って蔑む様な表情を浮かべ、高らかにそう言いました。
夫人は明らかに出来もしない無謀なことを言い下したつもりでしたが、遅かったとグレイシアは思わずそう思いました。
何故なら、実際にリリィ本人が既に引きちぎっていたからです。
「何故、私がネックレスを頂いたことをご存じなのですか?」グレイシアはすかさずそう聞き返しました。すると、夫人は怪訝そうな顔で立ち上がり、こう言いました。
「お前がダニエルと茶会の開かれた客間を出た後、少しだけ使用人にお前達の後をこっそりつけさせていたからよ。でもご愁傷様ね、思い上がらないで頂戴。そんなものを貰ったとしても、お前がなれるのはせいぜいダニエルの愛人くらいだわ!!!!」夫人は馬鹿にするようにそう言うと、飲み干したグラスを片手にケタケタと笑いました。
思わずグレイシアはギロリと蔑む様な冷たい視線を夫人に送りました。夫人はその鋭い眼差しに冷や水を思い切り掛けられたかのようにすっかり酔いが覚め、冷静さを取り戻しました。
「気が変わったわ。捕らえたお前の使用人はこのクルーズの後に嬲り殺してやるわ。その後お前の家族全員、皆殺しにしてやる。ルイスの仇よ」彼女はゆっくりとそう告げました。
彼女の目は大きく見開かれ口元には狂気めいた笑みを浮かべていました。
そして、テーブルの上にあった別のワインボトルを手に取ると、自分のグラスへとワインをなみなみと注ぎました。
「さっきからおっしゃっていることが無茶苦茶です。確かに、私の兄は貴方のご子息に決闘を挑みました。ですが殺していません。元はと言えば、どうして貴方方は、いつも私の家を侮辱するのですか?」グレイシアは全く夫人の振る舞いに動じず、とても冷静な態度で堂々とそう言いました。
彼女のその剣幕は、もはやリリィ本人ではないと信じられない程の迫真の演技でした。
「何ふざけたことをぬかすのよ。リーフウッド男爵家とヒューバートン男爵家は今まで領土争いを続けて戦争もしたほどの宿敵同士じゃない。国王が居なくなった今、文句を言うものは誰も居ないもの。お前の一族を潰して、私の一族は更に大きな権力を得るのよ!!」夫人は気が狂った様にそう叫びましたが、グレイシアは変わらず冷静に夫人を見ていました。
彼女はグレイシアのその態度に苛立ちを覚えました。「その目…その堂々としたしゃべり方、まさかお前アンドレア女王にでもなったつもりなの??気持ち悪い!!」夫人はそう言って、片手に持ったなみなみとワインの入ったグラスの中身を勢いよくグレイシアに向かってぶちまけようとしました。
しかし、その瞬間、誰かがグレイシアの手を勢いよく引き、彼女にはワインはかかりませんでした。
その代わりになんて最悪なタイミングなのでしょう。喉を潤しに来たのか先ほどダンスを優雅に踊っていた、隣国の偉大なるジルバラ伯爵の娘のヴィオラがそこに偶然通りかかり、グレイシアの代わりに彼女のドレスにワインがべったりとしみ込んでしまったのです。
「きゃああ!!!」ヴィオラの驚いたような悲鳴がグレイシアの背後で聞こえました。
グレイシアは手を引かれるがまま、目の前が急に明るく煌めいていくのを感じて身震いしました。
なんと彼女はつい先ほどまでこの舞踏会の華であるダニエルとヴィオラが踊っていた、ホールの中央まで導かれたのです。




